第6話 渋谷区、シアター・ルチア②

 失明するかと思った──というのが、その瞬間の鹿野の正直な感想だった。


 朱色の光が弾け、野上のがみ葉月はづきに良く似た女は消えた。鼓膜が破れそうな不快な笑い声も消失した。鹿野はその場に膝を付いた。目が痛い。眼底が灼かれている。

 シアター・ルチア内のチェックを切り上げて病院へ行こうと不田房は言ったが、瞼を下ろしたままで鹿野は首を横に振った。


「次は客席ですよね? 行きましょう」


 男ふたりが戸惑っているのは分かる。だから鹿野は両手を伸ばして、右手で不田房の左手を、左手で宍戸の右手を強く掴んだ。


 客席の最前列ど真ん中に腰を下ろし、目の上に不田房が調達してきた蒸しタオルを乗せる。さすが天下のシアター・ルチア、座席の座り心地は抜群だ。顔を天井に向けて、鹿野は沈黙している。宍戸は観客席と舞台上を繋ぐふたつの階段を上り下りしたり、舞台上にあるギミックを淡々と確認している。不田房は、鹿野の隣に腰を下ろしている。


「鹿野、目……」

「だいぶ楽になってきました」

「新しいタオル、要る?」

「いえ……ああ、もしかしたらマスカラ全部落ちちゃったかも……」

「マスカラって蒸しタオルで落ちるの!?」

「落ちる場合もある、という話です」


 実際、軽口を交わせる程度には鹿野は復活していた。目の奥に未だ正体不明の痛みはあるけれど、


「んん……宍戸さん、舞台チェック進んでるっぽいですね」

「うん。大道具の薄原すすきはらさんも明日は稽古場に来てくれるらしいし、ほぼ問題はない、と思う」

「公演そのものに関する問題は、ですね」

「……そうね」


 冷たくなってきた蒸しタオルを目の上から外し、眼鏡をかけ、鹿野は大きくまばたきをする。大丈夫。見えている。「無事か」と舞台上の宍戸がこちらに近付いてくるのも分かる。


「どうにか」

「良かった。でも無理はするな」

「無理はしませんが、宍戸さん、なんだったんですかアレ」

「アレ」


 小首を傾げる宍戸からは、特に誤魔化しの色は感じられない。「アレだよ」と不田房が鹿野の右手首をぎゅっと掴んだままで声を上げる。


「あの──みたいな?」

「ああ

「一般人が口にしちゃ駄目なやつじゃないの?」

「まあな。あと、正確にはアレは祝詞じゃない」

「は?」


 不審げに眉を寄せる不田房の手のひらが熱い。


「どういう」

「お札作ってくれた稲荷神社の人間がいただろ。市岡。あの家に伝わる、狐をさせるための言葉、だ」

「狐を?」


 意味不明──だが、ひとつだけ思い出した。以前、父・迷宮が言っていた。イナンナの稽古場では妙なことが起きていて、そこには霊道があると宍戸が言い出して、それで、鹿野を含む一部のスタッフ、それにキャストにお札を配った際──『狐憑き神社のお札を、な。キレとる神さんにキレとる狐をぶつけるようなもんじゃが』と。


「キレてる神様に、キレてる狐をぶつけるための呪文ですか?」

「まあ、……情緒のない言い方だが、そういうことになる」


 ステージから降りてきた宍戸が、おもむろに鹿野の顔に手を伸ばす。下瞼をべろんと捲られ、


「眼科に行った方がいいかもな。充血してる」

「私で済んで良かったです」

「え?」


 不田房はまだ鹿野の手首を握ったままだ。じっと見詰めてくる相棒に視線を返し、


「私はそれほど影響を受けるタイプじゃないですけど。仮に劇場入りした際、──さわりを受けることが多い和水さんが直接あの巫女に出会ってしまったとしたら」

「最悪死ぬかも。理由は分からんが」


 宍戸が平然と言い放ち、不田房は「鹿野だって失明するかもしれなかったでしょ!」と声を張り上げて怒った。


 三人でシアター・ルチアを辞し、不田房と鹿野は眼科に行った。別に鹿野ひとりでも構わなかったのだが、不田房が「何かあったら困るから絶対一緒に行く」と言って聞かなかったのだ。宍戸は、市岡家の人間に会いに行くと言い残して去った。

 眼科では特に異常は発見されなかったが、眼精疲労とアレルギーを指摘され、目薬を処方された。秋を通り過ぎて完全に冬になった今でも草木によるアレルギーはあるのだなと鹿野はまるで他人事のように思った。


「かしこみかしこみっていうのは」


 駅前でタクシーを待ちながら、不田房が言った。宍戸が口にしていた紛い物の祝詞のことだ。


「なんか神様に礼儀正しくする時のフレーズじゃん」

「そうですね」

「でも最後、宍戸さん、完全に命令口調だったよね」

「……」


 、と宍戸は言った。不田房は耳を塞いでいたのに、聞こえていたのか。

 不敬者。誰のことだろう。自分たち──神社を潰した跡地に作られた劇場で公演を行う人間たちのことだろうか。だとしたら、続く「名に於いて」というフレーズがあまりにも不自然なのだが。


「不田房さん、私ひとりで帰れますから」

「実家に戻るんだよね? 俺も行く」

「父が面倒臭がるので」

「あのー……ドアホン? 鹿野家のドアホン壊れちゃったじゃん! だから俺が来客対応とかするよ、ドアホンの代わりに!」

「はあ……?」


 色々と理由をつけつつ、不田房がひとりになりたくないのだということだけは分かった。同じマンションの同じフロアに住んでいる宍戸も、今夜は戻らないかもしれない。


「家で焼肉でもしましょうかねぇ」

「おっ! お父さんに賄賂! いいお肉買って行こ!」


 渋谷駅から鹿野迷宮邸までタクシーで帰るととんでもない値段になるので、適当に大きめの乗り換え駅まで送ってもらい、そこからは電車とバスを乗り継いで帰宅した。大量の肉を持って現れた不田房に父・鹿野迷宮は心底面倒臭そうな顔をしたが、


「全部不田房さんの奢りじゃし、ドアホン代わりもするって言うとる」


 という娘の言葉に「仕方しゃあないなぁ」と溜息を吐いていた。チョッパーだけが来客に大喜びをしていた。

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