第5話 渋谷区、シアター・ルチア①

 間もなく稽古場でのリハーサルを終え、キャスト・スタッフ全員が劇場入りすることになる。12月も半ばを過ぎていた。劇場入り直前に不田房と鹿野、そして宍戸の三人は、シアター・ルチアの様子を確認することにした。名目は「大道具の搬入口のチェックや、舞台装置を建てる前に空の劇場を確認しておきたい」ということになっているが、


「……鈴井は来なかったんだな」


 宍戸が呟き、不田房が軽く頷く。


「ま、この10年ずっと見えちゃってる人を連れてきても仕方なくない?」

「それはまあ、そうかもしれない」

「鹿野は見えるタイプだよね? 見えたら教えてね〜!」

「いや……ほんと勘弁してくださいよ……」


 不田房がへらへらと笑って言い放つように、鹿野素直は殊更『見えるタイプ』というわけではない。過去数回、劇場にまつわる怪奇現象に遭遇したことがあるだけだ。鹿野自身はどちらかといえば自分のことを側の人間だと思っているし、歌唱稽古用スタジオで起きた出来事や、実家前に現れた野上葉月と思われる人物については──鹿野以外も目撃、認識している。だから今回も、シアター・ルチアで野上神社の巫女を目撃する気なんて小指の爪の先ほどもなかった。正直な希望を述べて許されるとすれば、絶対に見たくない。


「調整室も立派なもんだな。音響と照明、オペレーター2人ずつ配備してもまだ余裕がありそうだ」

「宍戸さん、ルチアは初めてですか?」


 尋ねる鹿野に宍戸は調整室──音響、照明のオペレーターが公演中に仕事をするための部屋。音響・照明それぞれの調整卓が設置されている──の扉を片手で閉めながら軽く頷く。


「どうも縁がなくてな。不田房もだろ?」

「俺も初めて! 大学の同期ん中では俺がいちばん最後じゃないかな? ルチアで仕事すんの」


 不田房栄治は演劇サークルの活動が活発なことで知られている私立大学の出身だ。大学演劇を行っていた頃は『劇団傘牧場かさぼくじょう』のメンバーとして活動していた。主要メンバーの大学卒業と同時に劇団は解散してしまったのだが、当時の主催で戯曲作家/演出家/俳優である能世のぜ春木はるきをはじめとする元メンバーたちは今も演劇、映画、ドラマなどで幅広く活動をしており、シアター・ルチアで芝居を行った者も少なくない。


「ルチアの常連っていうと……やっぱり能世さんとか? 3年連続でプロデュース公演やってましたよね」

「能世の話はやめなさい鹿野! 俺はあの人とは音楽性が合わないの!!」


 いかにも嫌そうに言い放つ不田房に、鹿野と宍戸は苦笑しながら「次は客席確認するか」「はい」と長い廊下を歩き始める。楽屋、調整室と移動をして来たが、今のところ鈴井世奈が証言していたような異変は感じ取れない。宍戸は市岡神社のお札を持ち込んで楽屋、調光室の目立たない場所に設置しているが、今のところ別に何も起きていないのだから──


「あ」


 不田房が声を上げた。見上げれば、驚くほどに瞳孔が開いている。


「やば」


 指差す先──長い廊下の向こう側。進行方向。

 そこに、女が立っている。

 小豆色の和服に身を包んだ、華やかな顔立ちの、目尻とくちびるを朱色で彩った、


 ──野上葉月。


 いや。違う。野上葉月ではない。

 似ているだけだ。

 誰だ。

 誰だ、あの女は。


 開演直前のシアター・ルチアの中には関係者しかいない。そのはずだ。不田房、鹿野、宍戸。それに警備会社の社員が数人。だが彼らは警備員室の外には出てこない。スマートフォンの通話アプリを通じて、事前にシアター・ルチア内を確認したい、と述べた不田房に、「勝手にしろ」と灘波祥一朗は吐き捨てたきりだったので、恐らく彼も今ここには来ていない。


「のがみじんじゃの」


 女の声が響いた。鼓膜が引き裂かれそうになるほど、甲高い声だった。


「はちがつおどりでございます」


 女の声ではない、別の声が広くて長い廊下に反響する。


 ギャ! ギャ! ギャ! ギャ! ギャ! ギャ!

 ギャ! ギャ! ギャ! ギャ! ギャ! ギャ!


 あの声だ。歌唱稽古スタジオで響いていた声。鹿野の実家の前に押し掛けてきた『野上葉月』の笑顔の向こうで響いていた声。


 頭痛がする。ひどく頭に響く。不快な声。不快な音。


「マジで出た……」


 不田房が呆気に取られた様子で呟く。


「はちがつ」


 女が言う。


「おどりで」


 手をひらひらと揺らめかせる。小豆色の着物の袖が少し捲れて、細い両手首に真っ赤な紐が巻き付いているのが分かった。


「ございます」


 ギャ! ギャ! ギャ! ギャ! ギャ! ギャ!

 ギャ! ギャ! ギャ! ギャ! ギャ! ギャ!


「効くかな」


 宍戸が鹿野を背中に庇い、不田房を盾にしながら呟いた。


「あなた、みえているんでしょう?」

「──ああ、しっかり見えてるよ、お嬢さん!」


 不田房の肩越しに、宍戸が何かを突き出した。


「かけまくもかしこきおんやまおんきつねたかまがはらにましまして」


 お札だ、と分かった。泉堂ビルの稽古場に貼っているものとも、ルチアの楽屋と調光室に仕込んだものとも違うお札を、不田房の肩越しに宍戸が突き出している。宍戸が口にしている言葉はいったい何だ。祝詞か。一般人が口にして良い言葉なのか、これは。


 ギャ! ギャ! ギャ! ギャ! ギャ! ギャ!

 ギャ! ギャ! ギャ! ギャ! ギャ! ギャ!


 耳鳴りを誘発する声が次第に強くなっていく。不田房が両手で耳を塞いでぎゅっと目を瞑る。鹿野は背伸びをして、背後から抱き付くようにして宍戸の耳を塞いだ。


「──かしこみかしこみもまをす──」


 ギャ! ギャ! ギャ! ギャ! ギャ! ギャ!

 ギャ! ギャ! ギャ! ギャ! ギャ! ギャ! ……


 声が、弱まった。その隙を、宍戸は逃さなかった。


、市岡神社の名に於いて、喰え、狐!!」


 良く響く声を受け、廊下の最奥で何かが弾けた。

 朱色の光が鹿野の目を灼いた。

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