第4話 都内、鹿野迷宮邸⑤
「あま、り、……良い空気ではなかったです」
鹿野邸のリビングで、くちびるの左側に走る傷跡を撫でながら鈴井は言った。ドアホンは既に破壊されており、
鹿野迷宮は、文字の欠けた市岡神社のお札をじっと見詰めている。
「良い空気じゃなかったっていうのは……やっぱり無理やり買い上げたとか? 土地を?」
不田房の問いに「そういう、感じ、だったかも」と鈴井はぽつりぽつりと応じる。
「巫女、さんが……」
「巫女? 神主じゃなくて?」
「はい。女の……ああ、でも、女性の神主さんも、いるの……かな……?」
不田房が視線を寄越すが、鹿野は曖昧に肩を竦める。その辺りは父・迷宮の得意分野であり──今の迷宮に鈴井の声が届いているのかどうかも良く分からない。
「10年も、ま、前のこと、だから……社長も、その、お若くて、」
株式会社イナンナの前社長・
「女性の方と、その、すごく、怒鳴り合って、喧嘩、みたいに、なって……解体の業者の方も、驚いて、いて」
当時を思い出すかのように、鈴井はテーブルの上で自身の両手を擦り合わせ、ぎゅっと握る。
「怖かった……」
「じゃけど」
不意に、迷宮が口を開いた。
「最終的に神社を解体して、劇場を建てた。ほうじゃな?」
「ぇあっ……はっはい! そう、です!」
突然の問いかけに鈴井の頬が真っ赤に染まる。照れているというか、焦っている。
「僕が、その、立ち会いを、したのは、最初の日、だけ、で」
野上神社は、じっくり三週間をかけて取り壊された。その後、現在は稽古場が入っている例のビル──宍戸が「霊道が通っている」と言ったあのビルを建てるために、同じく『野上』の名を冠する神社の取り壊しを行った。渋谷区とその周りのいくつかの区には『野上』という名の神社が点在しているらしい。
「鈴井くんはさ」
不田房が言う。
「あの時、見なかったんだよね、稽古場で」
──あの時。
歌唱レッスン用の稽古場に現れた、耳まで口が裂けた和服姿の女。くちびると目の周りを朱色に染めた、異様な風体の女──。
鹿野は見た。不田房も。それに宍戸も。
だが鈴井は。
「はい……声だけ」
「声だけでよく、10年前の巫女さんだって気付けたね?」
「……それは」
短い沈黙ののち鈴井が顔を上げる。
深爪をした指先が、くちびるの左側のケロイドに触れる。
「あの、女の、ひとが、ここを、裂いたから……」
ふたつの神社を取り壊し、それぞれの跡地にビルと劇場が建った。鈴井世奈は、そのような希望は一切出していないにも関わらずシアター・ルチアの舞台監督に任命された。舞台監督の仕事内容など何も知らないし、数年間は朝9時に劇場に出勤し、外部から呼び寄せた舞台監督が仕事をする様をぼんやりと眺め、定時で帰る、という生活をしていたと鈴井は語った。
「それだけ?」
不田房が重ねて問う。鈴井は躊躇わなかった。首を横に振った。
「いつも──今も、ルチアに行くと、あの女の、姿が」
「鈴井くん以外の誰も気付いていない?」
鈴井は頷き、
「見る、ことが仕事、なんです。10年前も……きっと、いまも」
「口ぃ裂かれたんは、いつじゃ」
迷宮の問いかけに、鈴井は力無く笑った。
「ルチアの──
柿落としの朝、鈴井は激痛で目を覚ました。顔に凄まじい痛みが走っている。慌てて洗面所に向かい、鏡を見た。左側のくちびるの周りに、巨大な火傷の跡──のようなものがあった。
鏡の中の鈴井の背後に、女が立っていた。
小豆色の着物に身を包んだ、口と目尻の裂けた女。その女がにやにやと笑いながら両手を伸ばし、鏡の中の鈴井の口を覆った。
──喋るな。
「なんで今回、言おうと思ったの」
「ふ、ふた──ふささんは、ご存じ、ないかも、ですが」
シアター・ルチアの柿落とし──新築の劇場のいちばん初めの公演の演目として選ばれたのは、ウィリアム・シェイクスピアの『タイタス・アンドロニカス』だった。
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