第3話 新宿区、泉堂ビル④

 不田房の手のひらには小さな火傷が残った。イナンナが所持する稽古場が入っているビルの前に現れる、得体の知れない小豆色の着物姿の老婆。彼女の姿を確認に行った際、お守り代わりの煙草を握り締めた鹿野素直の手に残った傷跡と、奇しくも同じ場所に火傷ができた。

 凄まじい熱を帯びて壊れたドアホンについては「修理代をイナンナに請求します」と不田房は真剣な表情で言い放った。


「そがなことできるんか」

「できます。というか、させます」


 だって、と洗面台で手を洗い、傷口に消毒液──迷宮が用意したものだ──を振り掛けながら不田房は眉根をきつく寄せた。


「ドアの前に立っていたのは、野上のがみ葉月はづきです。限りなく妖怪に近かったけど、彼女は、一応まだイナンナに所属している俳優なんだから」

「ま、俺はどうでもええけど。とりあえずまあ、あんたも、鈴井くんも、それに素直も。は、ほどほどにせえよ」


 迷宮はそう言い置いて、「」と市岡神社のお守りを手にして自身の書斎に去って行った。愛犬・チョッパーも一緒だ。残りのお札を雑に鞄に突っ込んだ不田房と鈴井は鹿野迷宮邸を出て、彼らを見送った素直は台所で袋ラーメンを作り、鍋に入ったままの状態のものをその場に立ったまま食べた。何の味もしない。おそらく不安なのだ。この騒動の、着地点はどこにある。それ以上に──この舞台の幕は、本当に上がるのか?


 翌日は、稽古があった。

 その次の日も。


 更に次の日も、不田房、鹿野、宍戸、それに役名を持つキャストたちに加えて舞台監督鈴井世奈、更にはシアター・ルチア専属の照明技師・六野むつのあずさ、音響技師・戸坂とさかゆずも加わり、稽古は大詰めへと向かっていた。稽古場から姿を消した野上葉月の代打として指名された澄田すみたウグイスは、まるで稽古初日からこの場に立っていたかのように、ごくごく自然に現場に溶け込んだ。スタッフと役者として、そして友人としても交流があるという宍戸の言によると、ウグイスは一部の舞台関係者の中ではとても有名な存在で、


「役者がらウグイスを呼べ、って標語があるぐらいで」

「それ……えっ、すごいんじゃないですか?」

「すごいよ。そもそもウグイスは劇団歪座の看板俳優だからそれなりに忙しいし、映像の仕事もしてるんだが」

「あ、見たことあります。脇役……だけど良い役やってますよね、いつも」


 父、迷宮が日課のように録画している、朝8時台に放送している連続ドラマを思い浮かべながら鹿野は応じた。今シーズンはもちろん、前のシーズンにもウグイスは出演していたし、その前にも、何らかの形で──


「見ての通り個性は強い。本人の性格もかなり癖がある。だがウグイスは、一度役柄を拝命すると、自分の個性すべてを打ち消すことにこれっぽっちも躊躇いがない」


 稀有な役者だよ。宍戸は噛み締めるように言う。


「ウグイスがいてくれて良かった」

「本当に……」


 鹿野が代打を勤め続けた、きさらぎ優華ゆうか/アガトによる澄田ウグイス/レネへの性暴力を含む暴行シーンへの演出も、着々と進んでいる。「背負い投げ試してみてええですか」とお道化けた様子で尋ねる優華に「引っ叩きますよぉ」と微笑むウグイスはダンスが上手く、演出家不田房、それに歌唱指導の穂崎ほさきと話し合った上で、当該シーンはダンス・歌・そして悲鳴で表現されることになる。舞台監督の鈴井や照明担当の六野も加わって、ようやく具体的な話し合いができるようになってきた。


 これならもしかしたら──大丈夫かもしれない。そんな風に思いながらコーヒーを淹れる鹿野に「おい」と宍戸が声をかけた。


「はい? なんです?」

「あのお札……迷宮さんは何か言ってたか?」

「ああ」


 例の、文字の欠けたお札のことだ。

 鹿野邸を去る際に不田房が回収したお札は、家に帰る頃にはすべて真っ白になってしまったのだという。──いや、正確には。


『_ 岡_ 社_ _ 之攸』


 これが、


『_ _ _ _ _ _ 之攸』


 こうなった。『之攸』しか残っていない。これでは何がなんだか分からない。

 だが、迷宮が自身の書斎に持ち去った一枚は、


「──これですね」


 コーヒーカップを宍戸に押し付け、自身の座席に戻る。鞄の中に入れていた小さなクリアファイルを取り出して、市岡神社のお札を取り出した。


『_ 岡_ 社_ _ 之攸』


「ギリギリ現状維持って感じです」

「迷宮さんの手元に行ってもこれか」

「それは……いやでもうちの父はアレですよ? 学者なだけで、別に何か超能力を持っているとかではないですよ?」


 思わず言い募った鹿野に、「それは分かってる」と宍戸は淡々と応じる。


「だが迷宮さんはああいう仕事の人だから──おそらく、の手順に気付いている」

「手順?」


 何を言い出すのか、この男は。


 鹿野迷宮はあの日お札を一枚持って書斎に引きこもり、日付が変わる直前まで出てこなかった。風呂を使い、部屋着姿でチョッパーの相手をしながらスマートフォンの画面を覗いて新しいドアホンを見繕っていた素直に「俺もう寝るわ」と声をかけてきたのが最後で──いや別に死んだわけではないが、素直が稽古に出かける際「お風呂入りや」と声をかけたら「午後授業じゃけえ、シャワーだけにするわ」と返答はあったから──手順だかなんだか知らないが、迷宮が鹿野の知らない何かに気付いている素振りはなかったように記憶している。


 泉堂ビル地下の稽古場には、壁のあちこちにお札が貼られている。すべて市岡神社のものだ。鹿野は、一度だけ市岡神社の人間とすれ違った。稽古場に到着して階段を降りようとしていたら、スーツ姿の男性が宍戸と何やら会話をしていたのだ。スーツの左胸には、ひまわりと天秤を模したバッジが光っていた。ダークグレーのチェスターコートを小脇に抱えた男性は鹿野に気付くと「こんにちは」と柔らかく笑み、


「それじゃ、また文字が消えるようなことがあったら連絡して」

「悪いな、稟市りんいち

「いや。まあ仕事みたいなもんだしこれも。稽古頑張って」


 そんな風に言い残して、去って行った。

 今のところ、壁に貼られた新しいお札の文字は消えても擦れてもいない。


「こないだの……って人が、市岡神社の人なんですよね?」

「ああ。一応跡取り息子だ。跡は取らないそうだが」

「……弁護士さん、ですよね?」

「なんで、それを?」


 訝しげに目を瞬かせる宍戸に、鹿野は自身の左胸を指先でトントンと叩いて見せ、


「バッジ見ましたよ」

「目敏いな」

「よく観察していると言ってください」

「ああ……そう。そうだ。市岡稟市は弁護士だ」

「稲荷神社の跡取らない息子が弁護士さん、なんか不思議な感じですね」

「ま、色々あるんだよ。それより、本当に迷宮さんはこのお札について何も言ってなかったのか?」


 やけに拘る。迷宮のファンボーイ・鈴井でさえここまでしつこく詰問はしてこない。鹿野はくちびるをへの字に曲げ、


「そがに気になるちゆうなら、自分で訊きに行ったらえんじゃないですかぁ」

「怒るな怒るな。俺だって自分で行けるなら行きたいさ。でもな」


 と、コーヒーカップを長テーブルの上に置いた宍戸が、今度は自分の鞄に手を突っ込む。

 紙が出てくる。

 市岡神社のお札とはまるで違う、年季の入った、黄ばんだ、少し破れた一枚の神。


『野上神社』


 とだけ書かれた、素気ないものだった。筆文字の中ほどと下に朱色の印が押されているようだったが、擦れてしまっていて、文字を読み取ることはできない。


「これ」

「稟市が手に入れてきてくれた。今はもうない、野上神社の貴重な札だ」

「こ……こがなもん持っとって、宍戸さんは大丈夫なんですか!? だって、うちの実家には……!!」

「落ち着け落ち着け」


 鹿野の肩をぽんぽんと叩き、宍戸が声を低めて言う。


「まあ実際全然大丈夫じゃない」

「やっぱり」

「白くなった市岡神社の札、一応全部焼いたんだがな、稟市に立ち会ってもらって……」


 宍戸がもう一枚、白い紙を取り出す。いったいいくつお札を持ち歩いているんだ、この人は。


「見ろ」


 それは、焼かれてもうなくなった市岡神社のお札──のはずだった。


『_ _ _ _ _ _ 之攸』


 空白の部分に、文字が浮かび上がっているのが、鹿野にも見えてしまった。


『野 上 神 社』


「っし、宍戸さん……!?」

「これを持ち歩いていると、。付き纏ってくる、とでも言うか」

「焼いてくださいよそれも!」

「そうはいかん」


 背中を冷たい汗が伝う。自身の顔が青褪めていると、鹿野は分かる。


「勝手に稽古場からいなくなった関係者がもうひとり──演出助手、大嶺おおみねまいはいったいどこに消えた? これを解決するまでは、野上葉月を逃すわけにはいかないんだよ」


 この舞台は、本当に、開演初日を迎られるのだろうか。

 初めて本気で、恐怖を感じた。

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