第2話 都内、鹿野迷宮邸⑤

 鈴井すずい世奈せなは、大学卒業後新入社員という立場で、株式会社イナンナに入社したのだという。


 演劇の『え』の字も知らない。舞台監督という役割があるということすら、知らなかった。どちらかというと、演劇よりも映像作品の方が好きだった。映画とか、ドラマとか。大学の頃は自分で台本を書いていたこともあるのだという。だが、執筆した作品が形になることはなかった。


「大勢で、なにかを、する、のが、苦手で」


 ぽつり、ぽつりと鈴井は語った。


 それでも憧れの映像業界には触れていたくて、就職活動に励んだ。イナンナ以外のいくつかの芸能関係の会社には履歴書の時点で弾かれ、意気消沈した。そんな中、事務員として拾い上げてくれたのが株式会社イナンナだった。


「ま、前の、社長の頃でした」


 今の社長は灘波祥一朗の甥──内海うつみ真琴まこと

 スマートフォンで軽く検索をかけると、すぐに前社長の名前と顔を確認することができた。内海うつみ清蔵せいぞう。厳しい顔をした、いかにも『社長』という面構えの男性だ。優男である孫の真琴の正反対にいる顔付きである。


「事務員で入社して、なんで今」


 鹿野迷宮が訝しげに問う。はぃ、と溜息混じりに応じた鈴井は、


「部署、替えが、ありまして」

「いつ?」

「……10年ほど、前、でしょうか」


 不田房栄治と鹿野素直は思わず顔を見合わせる。ふたりがコンビを組んで仕事をするようになったのも、今から10年ほど前のことだ。


「劇場を、建てるって、社長が──」

「前社長か」

「は、はい」


 鈴井世奈の証言を纏めると、こういうことになる。


 ある時、当時の株式会社イナンナの取締役社長であった内海清蔵が「新しく劇場を建てる」と言い出した。それは決して唐突な話ではなく、内海率いる株式会社イナンナは結果的に映像業界でかなりの力を付けているが、内海本人の中には「演劇を、舞台を作りたい」という気持ちがずっとあったのだという。若い頃には自分自身も俳優として舞台に立っていたという内海は、10年前当時大きな病気を抱えており、無事快癒はしたものの「人間はいつ死ぬか分からない」と口走るようになったと取り巻きたちは証言していた。それで、株式会社イナンナの社長としての最後の仕事として、内海の地元でもある土地・渋谷に劇場と稽古場を作ることになったのだという。


「ううん」


 迷宮が唸る。


「まあ、それ自体は成金の別にどうでもええ話じゃと思うけど──なんでまた、神社を潰すような真似を」


 それは、話を聞いている素直としても疑問だった。イナンナの財力があれば、もっと良い土地を買い上げることだってできたのではないか。シアター・ルチアは渋谷駅から歩くと20分はかかる辺鄙な場所にある。かといって渋谷以外の駅から近いかといえば、そんなこともない。繁華街からは遠く離れた、古くから渋谷で生活をしている人々の家がある住宅街のど真ん中に、シアター・ルチアは佇んでいた。

 劇場よりも、神社の方がずっと似合う。そういう場所に、シアター・ルチアはある。


「の……がみ、神社、は」


 鈴井が掠れ声で続けた。


、神社でした」


 つぶれた。

 つぶした、ではなく?


 今度は迷宮と素直が顔を見合わせる。今の迷宮は父親ではなく、民俗学の教授の顔をしている。


「どがあな意味じゃ、それは」

「僕、も、事務員として、現地に、派遣され、……ました」


 事務員の鈴井、それに『劇場開発部門』という新しい部署のメンバーが、野上神社をはじめとする幾つかの候補地の下見をして回った。どの候補地も駅から近くはなかったが、渋谷は渋谷である。土地の代金はそれなりに高い。だが、内海前社長は「いざとなったら駅と劇場を繋ぐシャトルバスを走らせれば良い」「観客に不便はさせない」と言い放っており、実際、シアター・ルチアで公演が行われる際には『Inanna』と社名が書かれたシャトルバスが何台も走っているのを見ることができる。


「野上神社の跡地を選んだんは、誰じゃ。社長か」


 鈴井が黙って頷いた。迷宮は指先で自身の顎を軽く撫で、


「決定打は何じゃ」

「それは──僕には」

「鈴井くんうたか。今更誤魔化しはよそうで。なんかあったんじゃろ……野上神社を潰してでも劇場を建てたい、理由が」


 俯く鈴井に、迷宮が穏やかな声で尋ねる。

 素直はふとテーブルの上に散らかしたままの市岡神社のお札を手に取り──そうして気付く。


「お父さん!」

「何じゃ素直。今大事なとこじゃけ、後で……」

「こん話もうそれ以上せん方がええかもしれん、これ!」


 欠けている。

 お札の文字が、先ほど確認した以上に、はっきりと。

『_ 岡神社守_ 之攸』


 だったものが、

『_ 岡_ 社_ _ 之攸』


 ──に。


「なんなら……!」

「うわ着信!」

「誰からです!?」

「宍戸さん……!?」


 不田房のスマートフォンの着信音が高らかに鳴り響き、それに重なるように鹿野家のチャイムが鳴る。「なんじゃ、次から次に」と呻きながら立ち上がる迷宮を咄嗟に椅子に押し戻し、素直は震える指でテレビドアホンの通話ボタンを押す。


「どなたですか!?」

『……のがみぃいいいい……』


 女の声が聞こえる。

 液晶画面の向こうに、が立っている。笑っている。

 白目のない真っ黒な瞳をひん剥いて、地獄の底のような真っ黒な口を大きく開けて、ギャ! ギャ! と笑い声を響かせている。


『のがみーーーーーじんじゃのーーーーーー』

「鹿野、どいて!」


 文字の欠けたお札を鷲掴みにした不田房が大股で近付いてくる


『はーーーーづきーーーーいいいいい、い゛、い゛、い゛、い゛、い゛、い゛、い゛、い゛、い゛、』

「うるせえ! 今こっちはそれどころじゃねえんだよ!!」


 叩き付けるように、液晶画面にお札の束を押し付ける。

 次の瞬間、不田房の手の向こうでテレビドアホンが煙を吹き上げて大破した。

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