第四章 見るまえに跳べ。

第1話 新宿区、泉堂ビル③

 キャスト変更は、不田房栄治が独断で行った。株式会社イナンナの難波祥一朗は激怒していた。


「野上を降板させるだと!? 俺に無断で!?」

「稽古場に出てこない人間をどうやって舞台上に立たせるって言うんですか?」


 怒鳴りつける灘波を睨み据える不田房の傍らに、鹿野は立っていた。


 野上のがみ葉月はづきは降板した。代打の俳優は既に決まっている。


 フルカラーの本チラシには野上の写真が使われてはいるが、名前は掲載されていない。入稿直前に、不田房がイナンナ内の宣伝美術部──ではなく、その補佐を担当していた四宮しのみやという女性に連絡を入れたのだ。不田房は、野上葉月が稽古場に現れなくなる以前から警戒心を持っていたらしい。「この俳優はいずれ姿を消すのではないか」という。それは演出家としての直感だった。そして、当たった。

 株式会社イナンナの来客室で、灘波と不田房は睨み合っていた。


「だいたいこの……誰だ! 澄田すみたウグイスってのは!」

歪座ゆがみざ、ご存じないんですか?」

「知ってる! だがあんなのは……所詮アングラ劇団だろう! ウチの芝居には合ってない!」

「しょ・せ・ん」


 心底呆れ返った様子で、不田房がソファにふんぞり返る。珍しいな、と鹿野は思う。不田房は苛ついている。それに腹を立てている。


「澄田ウグイスさんは劇団歪座の看板俳優です。以前、翻案ではない『タイタス・アンドロニカス』にも出演した経験があります」

「不田房……不田房栄治! 自分が何を言ってるのか、何を仕出かしたのか分かってるのか!? これは、我が社の舞台だ!」

「だから!」


 灘波の大声を打ち返すようにして、不田房が怒鳴った。


「公演そのものが中止にならねえように動いてんだろうが俺が!」


 沈黙が落ちた。

 鹿野は溜息を吐く。


 野上葉月はもう戻らない、というのが稽古場に集う全員の意見だった。檀野だんの創子つくるこさえも同意した。


「私も、実は野上のことってあんまり知らないんだ」


 例の『野上神社の巫女騒動』の後。歌唱指導の穂崎ほさき星座せいざも含めてできるだけ多くの関係者を集めた泉堂ビル地下にある稽古場で、檀野はそう呟いた。


「イナンナ組って実はあんま情報交換とかしとらん感じですか?」


 きさらぎ優華ゆうかが尋ね、「まあね」と檀野は小さく頷く。


「まあそもそも、私と野上、それに舞……大嶺おおみねまいとは年齢差もあるからさ。そんなしょっちゅう連絡取り合うこともないし。今回も、同じ事務所から参加するメンバーだから、できるだけフォローはするつもりだったけど」

「実際こう、訳の分からんことが続くとどうしようもないよなぁ」


 窪田くぼた広紀ひろきが言い、「たしかに」という呟きが稽古場になんとなく広がった。


「で、どうするの不田房さん。考えは?」

「もう決めてます」


 檀野の問いに、不田房はあっさりと応じた。


「そろそろ来ると思いますよ」

「え?」

「不田房ー! ウグイス来たぞー!」


 階段の上から、泉堂の声が響いた。墨染めの着物に身を包みシルバーアッシュの長髪をふわりふわりと揺らす女性が、踊るような足取りで稽古場に現れた。


「お邪魔いたします、澄田ウグイスと申します」

「悪いなウグイス、急に呼び付けて」

「いーいええ。デュボアの作品なら宮内みやうちさんのところでお腹いっぱい演じさせていただいてますし、今回の台詞も、もうぜえんぶ入ってますのよ!」


 頭を下げる宍戸クサリに、澄田すみたウグイスは朗らかに応じた。そう。ウグイスは宍戸がコンビを組んでいる演出家/劇作家/俳優の宮内くり子──今回のデュボア作『花々の興亡』の翻訳者でもある──が主催する舞台の常連俳優だった。万が一野上葉月が降板するようなことがあったら、と不田房は以前から宍戸に相談し、ウグイスとも連絡を取り合っていたらしい。


「歪座!?」


 和水芹香が嬉しそうに声を上げる。ウグイスは優雅に一礼し、


「左様でございます」

「嬉しい! 私良く見に行くんだ、怪獣のメンバーもお世話になってるし!」

「こちらこそ嬉しゅうございます。怪獣さんにはいつも良くしていただいて……」

「はいはいはい分かった分かった、怪獣と歪座が仲良しなのは分かったから!」


 和水とウグイスの会話に檀野が勢い良く割って入り、


「檀野ですよろしく。ウチの後輩がほんとすみません」

「檀野創子さん、ご活躍拝見しております。よろしくお願いしますね」


 ──といった具合で、稽古場にはこれっぽっちも波風は立たなかったのだ。


「チラシまで勝手に書き換えるなんて!」

「写真は残してあるんだからいいでしょ。万が一野上さんが戻ってくるようなことがありゃあ、そのまま出てもらえばいい」


 あの程度の稽古量で舞台に立てるのであれば、と不田房はとどめのように吐き捨てた。灘波祥一朗との会談は、それで終わった。

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