第4話 渋谷区、歌唱稽古スタジオ①

 稽古は、粛々と進行した。


 一週間に二、三度のペースで株式会社イナンナ内の歌手部門が所持するスタジオに皆で赴き、歌唱指導を担当する穂崎ほさき星座せいざ──バリトン歌手であり、オペラにも良く出演している俳優、演出家でもある。不田房、宍戸とはともに仕事をした経験がある──率いる、彼自らがオーディションで選んだ歌唱担当のアンサンブル・キャスト──役名を持たない出演者たち。さまざまな衣装を身に纏い、あらゆる場面に登場する──と合流し、役名を持つ出演者たちも歌の稽古に励んだ。


 台詞と歌唱のバランスがずば抜けて良いのは、檀野だんの創子つくるこだった。檀野にとってはあまり触れてほしくない過去かもしれないが、デビュー当時の檀野は俳優ではなくアイドル、歌手として売り出されており、有名作詞家・作曲家がプロデュースしたアルバムを何枚も発売していた。現在の檀野は、歌の仕事はしていない。昔取った杵柄とは大したものだ、と鹿野はしみじみ噛み締める。檀野に食らい付いていくのは意外にもきさらぎ優華ゆうかで、本人曰く、「不田房さんに声かけられるまでは父の知り合いの舞台にばっか出とって……それが全部ミュージカルで!」とのことだった。、とわざわざ付け足すということは、ミュージカルそのものに出ていたわけではないのだろう。しかし、歌の稽古はしっかりと受けていたらしい、というのは音楽劇やミュージカルの素人である鹿野にも理解できた。鬼の声は低くハスキーで、特にしゃがれることもあるのに、良く通る。自分の意思を持たず、命令されるがままに暴力行為を繰り返すアガト役にはぴったりの歌声だ。


 窪田くぼた広紀ひろきも、意外と歌える。すぐコミカルな雰囲気になってしまうのが玉に瑕だが、彼もまた「前所属してた劇団がやたらと歌のシーン入れるの好きだったんだよね。だからかも」とへらへらと笑っている。「もうちょっと深刻に頼みますよ」と不田房及び歌唱指導の穂崎から注意を受けているが、窪田はやればできるタイプの俳優だ。本番までにはきっちり調整をしてくることは分かっている。


 問題──というほどの大問題ではなかったが、歌唱面に於いて誰よりも四苦八苦しているのは和水なごみ芹香せりかだった。和水もかつては劇団に所属しており、円満退団した後も頻繁に客演俳優として交流をしているそうなのだが、件の劇団は、劇中で歌ったり踊ったりをしない。舞台上で歌をうたうのは今回が初めて──と和水自身もこぼしていた。


「で、きみはそんな裏声でラストまで続けられるわけ?」

「は? まだ慣れてないだけだし! いちいちうるっさいな!」


 スタジオ内の休憩席で、檀野と和水は今日も揉めている。窪田はもはや割って入らない。このやり取りが彼女たちのルーティンなのだと、ようやく座組の全員が気付いたのだ。

 エグゼクティブ・プロデューサー・灘波なんば祥一朗しょういちろうが「和水芹香を降板させる」と言い捨てた際、檀野は一瞬も迷わず「私も降ります」と言い放った。あの時は、檀野の意図が良く分からなかった。鹿野はもちろん、不田房にも。


「檀野と和水芹香に歌唱指導できるなんてね〜。いやぁ、歌やってて良かった!」


 鹿野が淹れたコーヒーを受け取りながら、穂崎星座が嬉しげに声を上げる。


?」

「あ、檀野さんのアイドル時代の……ね。言うと怒られるかな、うふふ」


 ふくふくとした丸顔の穂崎は含み笑いを浮かべ、


「ツクルさんってねえ、イナンナ所属になる前は劇団怪獣座かいじゅうざの研究生だったんだよね」

「……怪獣座?」


 聞き覚えのある劇団だ。たしか、


「和水さんが前に所属してた……?」

「そうそう。和水さんは今も怪獣座とは交流があるんだっけね」


 黒いスウェットに緑のジャージといった格好の穂崎は笑顔のままで続ける。


「ツクルさんはねえ……正劇団員になれなくってねぇ……」

「えっそんな話。知りませんよ私」

「鹿野さんぐらいの年頃の子はみんな知らないんじゃないかな? ねえ不田房くん!」

「俺も知りません、若いので……」

「なんで嘘言うの。気付いてたでしょキャスト発表の時点で」


 くちびるを尖らせた不田房はしばらく天井を見上げていたが、「鹿野、俺にもコーヒーちょうだい」と言って『歌唱指導』と紙が貼られた長テーブル──穂崎の定位置の隣に腰を下ろす。


「ま、気付いてましたよ。檀野さんについては俺はキャスティングに関与してないから、和水さんが決まった時点でイナンナが敢えて出してきたのか──そうじゃなければ、檀野さん本人が名乗りを挙げたんだろうな、とは」

「ツクルさんは気が強くて有名だからねえ。和水さんが久しぶりに大舞台に出るってなったら、絶対自分が相手役じゃなきゃ我慢ならなかったんだろうねえ」


 不田房の前にコーヒーカップを置きながら、鹿野は密かに合点していた。あらかじめ決められていた。それは株式会社イナンナの意思ではなく。

 言うなれば、演劇の神様がそう定めた。

 そういう舞台なのだ、これは。


「穂崎さん、いつまで休憩? 私もうちょっとやりたいんだけど! っていうかこの音痴もう少しどうにかできないの?」

「だから! 誰が音痴! クソ腹立つ……優華! 優華あんたも付き合って!」

「あ゛あ゛あ゛……うちもう声出ぇへん……」

「はいはいはい! 檀野さんはもう少し喉を休めて。きさらぎさんも座って、コーヒーでもお茶でもなんでも飲んで。蜂蜜舐めて。窪田さんはいける? 和水さんとのオープニングシーン」

「あ、はーい! 出れまっす!」


 泉堂ビルディングの地下稽古場よりよほど広いスタジオで、俳優たちはそれぞれぶつかり合い、歌をうたい、手の中の台本を読み解き──そういえば本来不田房が座っているべき演出班の長テーブルでは、宍戸クサリが打ち合わせを開始している。相手は『花々の興亡』の公演会場となるシアター・ルチアの舞台監督・鈴井すずい世奈せなだ。年の頃は不田房や宍戸と同じぐらい。小柄で痩せ型、色白の顔に黒いマスクを着けている。灰色のニットキャップを深く被り、偶然だろうが、宍戸が使っているものと良く似た丸眼鏡をかけていた。


「宍戸さん、コーヒー飲みます?」

「ああ。鈴井さんは?」

「……僕、お茶」

「だって」

「りょで〜す」


 歌唱稽古にシアター・ルチアの鈴井が参加すると聞いた時には「今更?」と口に出してしまい不田房から注意された鹿野だが、宍戸と鈴井の相性は悪くなさそうだ。優華が欲しがっていた舞台装置のイメージ図も、スタジオ入りした鈴井によってアンサンブル・キャストを含む全員に配られた。「これひとりで書いたんですか?」と尋ねる宍戸に、鈴井は黙って首を縦に振った。「じゃあ、どうしてもっと早く稽古場に来なかったんですか?」と宍戸の顔にはでかでかと書かれていたが、彼はそれを口に出さなかった。鹿野も不田房も、黙っていた。

 宍戸のコーヒー、それに鈴井の麦茶を持って演出班の長テーブルに向かう。歌の稽古を確認しながら、舞台監督鈴井とその補佐という立場の宍戸は全体的に横長で奥行きのない会場、シアター・ルチアをどう料理するかを熱心に話し合っている。


「……あのさ」


 飲み物を置いて去ろうとした鹿野の背に、声がかかった。鈴井だ。


「はい!」


 振り返った鹿野を見上げて、鈴井がマスクの下のくちびるを引き結ぶのが分かる。麦茶は嫌だったのだろうか。緑茶もあったので、どっちにしようか迷ったのだが──


「鹿野、さん、ってさ。鹿野迷宮の、娘、なのかな?」

「……はい?」


 突然飛び出した父親の名に、鹿野は大きく瞳を瞬いた。宍戸もぎょっとしたような顔をしている。

 鈴井の細い指先が、ゆっくりと自身の黒いマスクを下げた。

 薄いくちびるの左側に、大きなケロイドのような傷跡がある、と気付いた。

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