第4話 渋谷区、歌唱稽古スタジオ①
稽古は、粛々と進行した。
一週間に二、三度のペースで株式会社イナンナ内の歌手部門が所持するスタジオに皆で赴き、歌唱指導を担当する
台詞と歌唱のバランスがずば抜けて良いのは、
問題──というほどの大問題ではなかったが、歌唱面に於いて誰よりも四苦八苦しているのは
「で、きみはそんな裏声でラストまで続けられるわけ?」
「は? まだ慣れてないだけだし! いちいちうるっさいな!」
スタジオ内の休憩席で、檀野と和水は今日も揉めている。窪田はもはや割って入らない。このやり取りが彼女たちのルーティンなのだと、ようやく座組の全員が気付いたのだ。
エグゼクティブ・プロデューサー・
「檀野ツクルと和水芹香に歌唱指導できるなんてね〜。いやぁ、歌やってて良かった!」
鹿野が淹れたコーヒーを受け取りながら、穂崎星座が嬉しげに声を上げる。
「ツクル?」
「あ、檀野さんのアイドル時代の……ね。言うと怒られるかな、うふふ」
ふくふくとした丸顔の穂崎は含み笑いを浮かべ、
「ツクルさんってねえ、イナンナ所属になる前は劇団
「……怪獣座?」
聞き覚えのある劇団だ。たしか、
「和水さんが前に所属してた……?」
「そうそう。和水さんは今も怪獣座とは交流があるんだっけね」
黒いスウェットに緑のジャージといった格好の穂崎は笑顔のままで続ける。
「ツクルさんはねえ……正劇団員になれなくってねぇ……」
「えっそんな話。知りませんよ私」
「鹿野さんぐらいの年頃の子はみんな知らないんじゃないかな? ねえ不田房くん!」
「俺も知りません、若いので……」
「なんで嘘言うの。気付いてたでしょキャスト発表の時点で」
くちびるを尖らせた不田房はしばらく天井を見上げていたが、「鹿野、俺にもコーヒーちょうだい」と言って『歌唱指導』と紙が貼られた長テーブル──穂崎の定位置の隣に腰を下ろす。
「ま、気付いてましたよ。檀野さんについては俺はキャスティングに関与してないから、和水さんが決まった時点でイナンナが敢えて出してきたのか──そうじゃなければ、檀野さん本人が名乗りを挙げたんだろうな、とは」
「ツクルさんは気が強くて有名だからねえ。和水さんが久しぶりに大舞台に出るってなったら、絶対自分が相手役じゃなきゃ我慢ならなかったんだろうねえ」
不田房の前にコーヒーカップを置きながら、鹿野は密かに合点していた。あらかじめ決められていた。それは株式会社イナンナの意思ではなく。
言うなれば、演劇の神様がそう定めた。
そういう舞台なのだ、これは。
「穂崎さん、いつまで休憩? 私もうちょっとやりたいんだけど! っていうかこの音痴もう少しどうにかできないの?」
「だから! 誰が音痴! クソ腹立つ……優華! 優華あんたも付き合って!」
「あ゛あ゛あ゛……うちもう声出ぇへん……」
「はいはいはい! 檀野さんはもう少し喉を休めて。
「あ、はーい! 出れまっす!」
泉堂ビルディングの地下稽古場よりよほど広いスタジオで、俳優たちはそれぞれぶつかり合い、歌をうたい、手の中の台本を読み解き──そういえば本来不田房が座っているべき演出班の長テーブルでは、宍戸クサリが打ち合わせを開始している。相手は『花々の興亡』の公演会場となるシアター・ルチアの舞台監督・
「宍戸さん、コーヒー飲みます?」
「ああ。鈴井さんは?」
「……僕、お茶」
「だって」
「りょで〜す」
歌唱稽古にシアター・ルチアの鈴井が参加すると聞いた時には「今更?」と口に出してしまい不田房から注意された鹿野だが、宍戸と鈴井の相性は悪くなさそうだ。優華が欲しがっていた舞台装置のイメージ図も、スタジオ入りした鈴井によってアンサンブル・キャストを含む全員に配られた。「これひとりで書いたんですか?」と尋ねる宍戸に、鈴井は黙って首を縦に振った。「じゃあ、どうしてもっと早く稽古場に来なかったんですか?」と宍戸の顔にはでかでかと書かれていたが、彼はそれを口に出さなかった。鹿野も不田房も、黙っていた。
宍戸のコーヒー、それに鈴井の麦茶を持って演出班の長テーブルに向かう。歌の稽古を確認しながら、舞台監督鈴井とその補佐という立場の宍戸は全体的に横長で奥行きのない会場、シアター・ルチアをどう料理するかを熱心に話し合っている。
「……あのさ」
飲み物を置いて去ろうとした鹿野の背に、声がかかった。鈴井だ。
「はい!」
振り返った鹿野を見上げて、鈴井がマスクの下のくちびるを引き結ぶのが分かる。麦茶は嫌だったのだろうか。緑茶もあったので、どっちにしようか迷ったのだが──
「鹿野、さん、ってさ。鹿野迷宮の、娘、なのかな?」
「……はい?」
突然飛び出した父親の名に、鹿野は大きく瞳を瞬いた。宍戸もぎょっとしたような顔をしている。
鈴井の細い指先が、ゆっくりと自身の黒いマスクを下げた。
薄いくちびるの左側に、大きなケロイドのような傷跡がある、と気付いた。
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