第3話 都内、鹿野迷宮邸③
演出助手・
「母親は違うんだがね」
と、煙草を片手に灘波は呟いた。株式会社イナンナの社長、灘波祥一朗の甥、スマートフォンで検索するだけですぐに名前が出てきた。現社長と大嶺舞には親子ほど──まではいかなくとも、それなりの年齢差があるように見える。
「なぜ彼女を演出助手に?」
ソファに深々と腰掛けた不田房が尋ねる。灘波は大きく顔を顰め、
「舞の希望としては、出演者として参加したいという話だった」
「いやそれは無理でしょ」
一蹴する不田房を止める気はない。鹿野は手元のメモ帳に、灘波の証言を取り留めなく書き残している。大嶺舞。灘波の姪。株式会社イナンナの現社長、
「そ…‥そんな、即答で無理という言い方はないんじゃないか!? 舞にはドラマ出演の経験もあるし……」
「あのですね、経験の話をしてるわけじゃないんですよ俺は。稽古場──スタジオでのあの態度。俺に言わせれば、公演が決まっている芝居の稽古場に入っていい人間じゃないです、大嶺さんは」
怒鳴り付けるでもなく淡々と、不田房は食い下がる灘波を切り捨てた。そう。不田房の言い分も、怒りも、鹿野には分かる。大嶺舞は、明らかに演出助手というポジションを馬鹿にしていた。自分が出演者でないことを、不満に思っていた。毎日彼女の隣に座っていた不田房には、それらの感情が嫌というほど伝わっていたことだろう。
「『花々の興亡』」
上着のふところから台本を取り出した不田房が、低く言った。
「企画、制作はあなた方──株式会社イナンナだ。
「分かった。分かったよ不田房くん。こちらの目が曇っていたのは認める」
「何も分かってないですね。今行方不明になっているのは
どういうつもりだったんですか。
不田房の怒る顔を久しぶりに見たな、と鹿野はぼんやりと思う。
イナンナの事務所を出たタイミングで、宍戸に連絡を入れた。「どこかで合流できないか」とメッセージが来たので「うちはどうですか?」と鹿野は返信した。
うち。実家。鹿野迷宮邸。
「大勢じゃな……」
玄関まで娘を迎えに出てきた迷宮が、不田房、それに宍戸の顔を見上げて呆れ声を上げた。
「すみませんお父さん、ちょっとお邪魔します!」
「不田房さん、あんたにお父さんて呼ばれる覚えはないんじゃが」
「迷宮さん、急に押しかけて申し訳ない。ちょっとご相談したいことがありまして」
「刺青の……宍戸さんじゃったか。なんじゃ。おれに相談?」
「とにかく中、中入ろ! 寒い!!」
普段は父・迷宮と娘・素直、それに愛犬・チョッパーだけで過ごしているリビングに不田房・宍戸という高身長の成人男性が加わることで、一気に部屋が狭くなってしまった。
「素直はこっち……あんたらはそっちのソファに」
いかにも面倒臭そうに娘をリビングの定位置に座らせ、不田房と宍戸をテレビ台前のソファに追いやろうとする迷宮に、
「迷宮さん。民俗学のご研究をされてますよね」
「ああ? ああ……まあなあ。ただの趣味じゃったのに、気付いたらガッコのセンセよ」
タブレットを片手に近付いてくる宍戸を見上げ、迷宮が気のない声で応じる。「お茶淹れてくるわ」と素直が席を立ち、「手伝う〜」と不田房がキッチンに着いてくる。
「ついでにピザ取ろ、ピザ」
「不田房さんの奢りならええですよ」
「経費で落としちゃお〜」
スマートフォンをタップする不田房と素直のやり取りを他所に、リビングでは宍戸クサリが鹿野迷宮の前にタブレットの画面を指先で示していた。
「先々週まで渋谷の──このビルの中にあるスタジオで稽古をしていたんです」
「うん? ああ、素直に聞いたわ。霊道があるとかいう」
画面に表示されているのは、地図だ。『イナンナ第一ビルディング』というのが以前の稽古場、4階にスタジオが入っていたあのビルの正式名称である。
手元に置いてあったケースの中から鼈甲ぶちの眼鏡を取り出した迷宮は、
「素直から話はまあ……聞きましたわ。軽くじゃけど」
「俺も鹿野さん──素直さんには軽くしか説明していません。迷宮さん、これが現在、2023年の地図で」
と、宍戸はタブレットを手早く操作し、
「これが30年前の同じ場所の地図」
「……おん?」
迷宮が、妙な声を上げた。4人分の紅茶を淹れて戻ってきた素直は、
「お父さん、どしたん」
「いやぁ……神社があるなぁ、と
「神社?」
「これね」
宍戸の長い指が液晶画面を軽く叩く。黄ばんだ、古い地図を撮影した画像が表示されていた。
「野上神社」
「
立ったままで紅茶を飲もうとしていた不田房が、裏返った声を上げる。素直もまた、定位置に腰を下ろして大きく両目を見開いた。
野上。
野上葉月。
姿を消した俳優の名前。
ああ、野上神社、と迷宮が自身の顎をざらりと撫でながら応じた。
「思い出してきたわ。このビル建てる時に、ぐっちゃぐちゃに揉めとった」
「お父さん、知っとるん?」
「10年……20年ぐらい前じゃったかな、ビルは。おまえがほんの子どもん頃よ。そん時おれは東京にはおらんかったけえ、同業の知人に聞いたんじゃけど……」
タブレットを覗き込んだ迷宮が、まるで世間話のような口調で続ける。
「野上神社の八月踊り言うたら芸能関係者のあいだでは有名で。その神社を潰してビル建てようなんてずいぶん罰当たりなことをする連中がおるもんじゃ、って今でも飲みの席では話題に……」
野上神社の、八月踊り。
素直と不田房は思わず顔を見合わせていた。
野上葉月。
その名前が、すべてじゃないか。
野上葉月は3年ほど前から株式会社イナンナに所属していると灘波祥一朗は言っていた。人事を担当しているというスタッフも会議室にやって来たが、3年前で間違いない、だが、いったいどういう経緯でイナンナに所属したのかは分からない、という、霞を掴むような言い方で──
「舞が」
青褪めた顔の灘波祥一朗は呻き声を上げた。
「舞が連れて来たんだと思ってた。大学の友だちだとか言って」
だがその大嶺舞は、稽古場に現れない。野上葉月も所在不明だ。
すべてが、あまりにも曖昧だ。
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