第6話 渋谷区、稽古場⑦

 夜。不田房から「稽古あります」とメッセージが送られてきたため、翌日は渋谷区のスタジオへと向かった。すき焼き会の日に宍戸から受け取ったお守りは、迷宮の助言通り財布に入れていた。スタジオが入っているビルの前にはいつもの通り小豆色の着物を着た老婆が──


(……いない?)


 思わず立ち止まり、小首を傾げる。どこにもいない。あの老婆はおそらくこの世のものではないので、いなくて当然といえば当然なのだが、お守りを持って現場に来た途端まったく姿が見えなくなるというのは、


(ちょっと怖い、かも)


 ぶるりと肩を震わせ、鹿野はビルの管理人室に向かって駆け出した。

 エレベーターを待っていると、「素直ちゃん」と背後から声をかけられた。この調子の良い声音は、


窪田くぼたさん、おはようございま〜す! エレベーターお先にどうぞ〜!」

「ふたりでも乗れるでしょ」

「不田房に、稽古場が燃えても窪田さんとはふたりきりになるなと厳命されておりますので……」

「ふたりして俺のことなんだと思ってんの!?」


 どうでもいい雑談を交わしつつ、結局ふたりでエレベーターに乗り込んだ。ガラス張りの壁の向こうには、渋谷の街並みが良く見える。


「素直ちゃんも貰った? これ」


 と、窪田が肩から下げた鞄の中から、カードケースを取り出した。更にその中から出てきたのは、綺麗に折り畳まれた例のお札だ。狐憑きの市岡神社の。


「貰いました」

「マジか」

「窪田さんは、それ、宍戸さんからですか?」

「うん。昨日も稽古休みだったじゃない? だから俺、新宿の現場の手伝いバイトに入ってたんだけど……」


 新宿区内でも古株の劇場だ。鹿野の脳内にあるスケジュール帳には、映像作品でも活躍しているベテラン俳優率いる劇団の公演の予定が記されているが。


「窪田さん、お知り合いなんですか」

「まあね。この年になると知り合いも増えるわね」


 エレベーターが4階に到着する。先に降りた窪田が、鹿野が降りるまで『開く』ボタンを押して待機していてくれる。

 二日前──もう二日も経つのか──スタジオの扉前に置いた盛り塩は、皿ごと叩き割られていた。誰かが踏み付けて割った、と考える方が早いか。ともあれ、その場にしゃがみ込んで後始末を始める鹿野に「ゴミ袋持ってくる」と言い残して窪田はスタジオ内に入って行った。

 スタジオ内には、まだ誰もいないのか?

 不意に、気になった。

 鍵は誰が開けたのだろう。

 うわ、と大声が聞こえた気がした。いや、聞こえた。

 窪田だ。


「窪田さん!? 何かありましたか!!」

「俺は大丈夫……ていうかなにこれ!?」


 盛り塩の片付けは後回しにして、スタジオ内に駆け込んだ。スタジオを入ってすぐ、左右の壁には大きな棚が備え付けられている。扉はない。スタジオ内で履くスリッパだとか、冷え防止用のブランケットだとか、そういうものを適当に放り込んでおくための雑な棚だ。ただ、備え付けなだけあって頑丈ではある。


 木製の大きな棚に、何かがぶち撒けられていた。何か──液体が。


「な……灯油……?」

「この匂い、そうだよね!? マジ危ない、稽古場爆発が実現しちゃう……スタジオ内禁煙で助かった」


 下がって下がって、と窪田が鹿野の肩を掴む。普段ならば振り払うところだが、今は大人しく窪田の指示に従う。


「棚に置いてあるもの、全部……」

「駄目になっちゃってるね。俺のスリッパとジャージも灯油漬けだ」

「なんで、」


 いや、それ以前に。


「……誰が?」

「ううん」


 唸り声を上げる窪田がデニムの尻ポケットからスマートフォンを取り出し、棚の様子を撮影している。


「動画撮るから、もしアレだったら声」

「はい、黙ってます」


 窪田の動きは的確だ。冷静だし、落ち着いている。とはいえ窪田が灯油を撒いたとは、鹿野には思えなかった。こんなことをする理由が彼にはないからだ。更に言うならば、今回の現場を荒らす意志のなさランキングで窪田はぶっちぎりの第一位だ。やたらと飲みに誘ってきたり、手を握ろうとしたりと迷惑な中年ではあるものの、容疑者リストからは軽快なステップで外れている。正直、助かる。


「──撮り終わった。これ、通報した方がいいかな?」

「今、下に不田房さん来てるみたいなんで、一旦見てもらって」

「OK」


 エレベーターで4階まで上がってきた不田房は灯油まみれの棚を見るなり「なにこれ」と雨に濡れた犬のような顔で言った。


「全焼して全員死ぬやつじゃん……」

「縁起でもないこと言わないでください」

「鹿野大丈夫? 窪田さんに何もされてない?」

「なんで俺のこと心配しないの? ていうか俺が容疑者なの?」


 気を抜くと軽口の方に向かってしまうのは、全員がそれなりに動揺しているからだ。全焼して全員死ぬ。不田房の表現はあながち間違っていない。このスタジオから脱出するには、エレベーターを使うしかない。非常階段もあるにはあるが、階段に通じる扉の鍵を持っているのは灘波祥一朗だけ。或いは、1階の警備員室に連絡をして、4階の扉を開けてもらうか。何はともあれ、これだけ大きな木製の棚に灯油をぶち撒けて火を放てば──すべては一瞬で終わるだろう。


「窪田さんには何もされてません。それよりこれ」

「通報だ。悪質すぎる」

「今日ここで稽古するの無理だよね。俺、まだ来てない子たちに連絡するよ」


 不田房が通報、窪田が稽古場に移動中であろう出演者たちに連絡を始めるのを横目に、鹿野はゴミ袋を手にスタジオ外に向かった。踏み割られた盛り塩と皿の始末は、しなくてはいけない。

 そういえば窪田は、あのお札の件で何か話をしたそうだった。そんな風に思いながらしゃがみ込む鹿野の上を、股下5メートルはあろうかという長い足が跨いで行った。


 顔を上げた時にはもう遅かった。「何なのこれ!」という低く押し殺した怒鳴り声が響き渡った。


 檀野だんの創子つくるこの声だった。

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