第7話 新宿区、泉堂ビル①

「ものすげえ豪華メンバーだな」


 泉堂せんどう一郎いちろうの囁き声に、鹿野は曖昧に首を振って見せた。

 備え付けの棚が灯油塗れになったスタジオでの稽古は不可能だった。駆け付けた灘波祥一朗は「誰がこんなことを」と大騒ぎをしていたが、「犯人探しはあとでいいでしょう。防犯カメラだって付いてるんだから」と不田房が珍しく一蹴した。それから「とにかく今日も稽古はしなきゃいけません。すぐに使えるスタジオはありますか?」と尋ねたものの「あるはずない」と今度は灘波が即答し──


泉堂ビルウチが空いてて良かったなぁ」


 とコーヒーが入ったマグカップを片手に泉堂一郎が笑う。泉堂は、不田房とは付き合いの長い照明技師だ。有限会社泉堂舞台照明の代表であり、泉堂ビルのオーナーでもある。泉堂ビルの地下には株式会社イナンナの渋谷のスタジオほど大きくはないが板張りの稽古場があり、不田房が主宰しているスモーカーズの稽古は大抵泉堂ビルの地下で行われていた。


「本当に空いてて良かったです。今日、このあとは……?」

「午前中は予約が入ってたけど、午後は特に何もなくてね。掃除でもしようかと思ってたとこ」

「ほんとにラッキー! 掃除は私がしますね!」


 鹿野のいらえに、髭面に長髪、グリーンのベースボールキャップを被った泉堂はカラカラと笑う。


「じゃ、手伝ってもらうかな」

「はい!」

「鹿野〜! テーブル並べるの手伝ってえ!」

「あ、はーい!」


 不田房からのSOSが階下──地下の稽古場から聞こえてくる。鹿野は慌てて、階段を駆け降りた。

 地下の稽古場には窪田くぼた広紀ひろき檀野だんの創子つくるこ野上のがみ葉月はづき大嶺おおみねまい──それに灘波祥一朗の姿があり、窪田以外は誰も不田房の手伝いをしようとしない。テーブルを並べたり、パイプ椅子を出したりするだけなのに。


「お客様じゃないんですから」


 と、鹿野は彼らに聞こえるように呟いた。


「ちょっとぐらい動いたらどうなんです?」

「なんだ、きみ。誰に言ってるのかね」

ですよ」


 苛々した様子で問い返す灘波に、鹿野は即答する。ここは、株式会社イナンナが所持しているスタジオではない。つまり遠慮をする理由は、どこにもない。


「自分が座る椅子並べたり、机出したり! 減るもんじゃないんだから手伝ってくださいよ!」

「そういうの〜……スタッフの仕事じゃないんですかぁ?」


 野上葉月が、笑いの混ざった声音で呟く。長い黒髪の先端を弄りながら、


「ていうか、ここ、狭すぎ」

「分かる!」


 大嶺舞が同調し、ふたりはきゃらきゃらと声を上げて笑う。パイプ椅子をひっさげた窪田が、さすがに呆れた様子で顔を上げた。


「きみたちねぇ……」

「いやあ! ほんとに、狭くて悪いね!」


 窪田の苦言を遮ったのは、稽古場の主人あるじ──泉堂一郎だった。


「こんなね、狭くてきったない稽古場、天下のイナンナのみなさんには本当に申し訳ないけど」

「あ、いや、そんな、泉堂社長……」


 2リットルの水のペットボトルを手に現れた泉堂は、稽古場内に置いてあるコーヒーメーカーの前に向かいながらニコニコと笑っている。本当に満面の笑みだ。怖いほどに。その彼に縋るように駆け寄ったのは、灘波祥一朗だった。


「申し訳ない、うちの若いのにはボクからきちんと説教しますから」

「説教? 別にいいよ。この稽古場ゴキブリ出るし」

「泉堂さん、何言ってるんですか。それはないです。みんなで夏にいっぱいホイホイ仕掛けたんだから」


 泉堂の軽口に、鹿野は思わず割って入る。泉堂ビルは確かに新しい建物ではないし、稽古場だってイナンナのスタジオに比べれば古い。だがこの稽古場を使う人間たちはいつもきちんと清掃を行っているし、家主の泉堂は害虫駆除には熱心だ。今年の夏、鹿野は有限会社泉堂舞台照明の若手社員たちと一緒になって害虫──おもにゴキブリを倒すための罠を仕掛けて回った。その成果は出ているはずだ。


「ゴキブリ!?」

「やだぁ!!」

「舞、葉月、!!」


 悲鳴を上げる大嶺と野上を、灘波が怒鳴り付けた。演出助手と俳優であるふたりの女性は、呆気に取られた様子で野上を見詰める。彼に怒鳴られたことなど、これまで一度もないのだろう。溜息を呑み込んだ鹿野は「窪田さん、椅子こっちにもください」と声をかけてパイプ椅子を受け取った。


「だ、だって……ゴキブリぃ……」

「こんなところで稽古できないですよぉ」

「おまえたち……本気で言ってるのか!?」


 灘波が血相を変える理由も、分からなくはない。少なくとも鹿野は。だが演出助手大嶺舞と、俳優野上葉月は、本当に知らないのだろう。泉堂一郎が何者なのかを。


 泉堂一郎。演劇にまともに関わった人間であれば、彼の名前を、もしくは『泉堂舞台照明』の名前を一度も耳にしたことがない、などということは有り得ないだろう。北海道から沖縄まで、日本全国のありとあらゆる劇場に泉堂は関わっている。分かりやすいところで言うならば、人気芸人が多く所属するチェカプロダクションが東京と大阪に持っている漫才専門劇場の照明プランを全面的に任され、東西のチェカ劇場では常に泉堂舞台照明のスタッフたちが調光卓にしがみ付いている。泉堂本人は「俺は舞台の人間だから」と言い張っているが、舞台の関係で知り合った人間──戯曲作家や演出家が関わる映像作品のために明りを作ることも珍しくはない。


「泉堂社長、申し訳ありません、本当に」

「だからいいって。鹿野ちゃん、コーヒー任せていいか?」

「はあい!」

「うおっ、ほんまにみんなおる! あっ泉堂さん、おっはようございま〜す!」


 階上から、きさらぎ優華ゆうかの声が聞こえた。「おはよー」と泉堂は明るく返しながら、地下稽古場を去って行った。

 ふ、と小さな笑い声が聞こえた。不田房だ。不田房栄治が笑っている。


「うっ……ふふ……ふふふ……」

「なぁにがおかしいんです、不田房さん?」

「いやさぁ……泉堂さんのこと知らないとこういう……いや別に泉堂さんのことを知らないのは悪いことじゃないんだけどさぁ……?」


 いかにも居心地悪そうに視線を合わせる大嶺と野上、ふたりを背にして灘波が深々と頭を下げた。


「申し訳ない、不田房くん。いや、……まさか泉堂社長と昵懇じっこんだったとは……」

「そんなめちゃくちゃ勢いよく良く手のひら返していただかなくても大丈夫ですよ、勢い良すぎて元に戻っちゃう」


 パイプ椅子に腰を下ろした不田房が、久しく見ていなかった華やかな笑みで応じた。


「別に泉堂さんは『俺のことを知らない俳優なんて出禁だ!』とか言い出したりしませんし。若い俳優さんが、って思い込んでいても仕方ないと思いますし」


 うわあ、と窪田が大仰な仕草で両手を口に当てている。階段を降りてきた鬼優華も、黙って両目を瞬かせている。


「そういうのぜえんぶ、だなんて俺も思っていませんしっ!」

「韻踏みました?」


 不田房の前に、コーヒーカップを置きながら鹿野は尋ねた。不田房は大きく笑って、「鹿野、?」と言った。鹿野素直は首を縦に振り、灘波祥一朗は声もなく項垂れる。ようやく棒立ちをやめた檀野創子が窪田広紀に「私にも椅子ちょうだい」と言った。

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