第二章 立ち止まるには早すぎる。

第1話 渋谷区、稽古場⑤

 気休めのつもりで置いてみた盛り塩が、ペースは不定期だが踏み荒らされている。すぐに気付けないほどの間抜けではなかった。鹿野も、そして不田房も。


「誰だ? 防犯カメラチェックしたら分かるかな?」

「まあ、やってるのは人間でしょう。幽霊じゃない」


 塩と新しい皿を準備しながら、鹿野は平然と応じる。そう、幽霊ではない。あの老婆がわざわざスタジオがあるビルの中まで入ってきて盛り塩を踏んでいるわけではない。それが分かっただけでも儲けものだ。


「それより不田房さん、大丈夫ですか、今日の稽古」

「んん……」


 演出班の席を立ち給湯室にやって来た不田房は、小さく唸って鼻の上に皺を寄せる。大丈夫ではないだろう。今日は久しぶりに、檀野だんの創子つくるこ和水なごみ芹香せりかが顔を揃える日だ。芝居の精度を上げるためにはできるだけ多くの回数出演者全員が揃った稽古を行う必要があるが、檀野と和水の仲は相変わらず険悪である。特に、檀野は和水──ついでに鹿野──が目撃した老婆の件を持ち出しては、相手を揶揄う。なかなかの性悪だ。和水もいちいち丁寧にブチ切れるので、ふたりが揃う稽古日は開始前から空気が緊張している。

 不田房と鹿野は稽古開始時間より2時間早くスタジオに入り(こういう無茶をしたい場合、スタジオがイナンナの持ち物で良かったと鹿野は考えている。他のスタジオや稽古場を予約している場合大抵は自分たちの前後にも稽古をしたい劇団やユニットが存在しているため、過度な前乗りや居残りは不可能なのだ)、鹿野は盛り塩とコーヒーの準備をし、不田房は困り果てた表情でスタジオ内を歩き回ったり、給湯室に顔を出したりしている。


「鹿野は……今日は見た? その、おばあさん」

「いましたねぇ」

「そうか……」


 不田房は、老婆を目撃していない。一度も。鹿野とともにスタジオ入りするタイミングでも、それ以外でも、とにかく和水が言うような『小豆色の和服姿の老婆』に遭遇していないのだ。とはいえ、不田房は、和水はともかく付き合いの長い鹿野のことを疑いはしない。信じてくれている。それだけは、ありがたい。


「おはぎ持ってた?」

「お弁当箱みたいのは毎日持ってますね、ただ」


 そう──ただ。


「初回以降、私には話しかけてこないんですよね」

「謎だぁ」


 鹿野が淹れたばかりのコーヒーに手を伸ばしつつ、不田房は小さく続ける。


「宍戸さんが言う通り、煙草のけむりが嫌いなのかな?」


 宍戸クサリに相談を持ちかけたという報告は、既にしてあった。和水には伝えていない。和水は宍戸クサリのことをおそらく、知らない。知らない人間に勝手に情報を共有されていると聞いたら、彼女は良い顔をしないだろうから。


「有り得るといえば有り得るのかもしれませんけどね」


 たとえば、ほら、どんど焼き。父・迷宮から聞いたばかりの響きを鹿野は口にする。


「お正月飾りを燃やしたり、餅を焼いたりするアレねぇ」


 コーヒーを啜りながら不田房が応じる。鹿野は軽く頷き、


「まあ正月飾りを燃やしてるからそのけむりは既になわけで……煙草のけむりとは完全に種類が違うんですが……」

「迷宮先生は、なんて?」

「特に神聖なものを燃やしているわけではなくても『けむり』とか『火』を嫌う怪異はいるだろう、との話でした」

「ほーん……」


 鹿野の父、鹿野迷宮は民俗学の学者だ。普段は大学教授として教鞭を取っている。最近の鹿野は一週間の半分をひとり暮らしの自宅、もう半分を父と愛犬・チョッパーがいる実家で過ごしているため、迷宮を顔を合わせる機会も多い。


「おはようございま〜す」

「はよーっす」


 スタジオの扉が開き、声がした。窪田くぼた広紀ひろききさらぎ優華ゆうかだ。


「おはようございます」

「おはよ! 早くない?」


 読み合わせメインの稽古は先週で終わり、動きを付けるための稽古が始まったところだった。長テーブルを凹の形に置き、右側に和水、鬼のアパッシュ勢に加えて窪田、左側に檀野、野上のがみの自警団勢が荷物を置いたり、出番のない際に腰掛けたりしている。不田房を含む演出班は凹の下に位置する長テーブルに陣取って、常に全体の様子を確認したり、場合によっては席を立って演技指導を行う。全体の顔合わせの日から数回しか現れていないが、本番の会場となるシアター・ルチア所属のスタッフたちが稽古場のチェックに来た際も、演出班のテーブルに椅子を増やして座ってもらっている。


「鹿野さん、うちもコーヒー飲みたい〜!」


 ヨガマットを広げながら優華が明るい声で言う。


「素直ちゃん、俺も」


 書き込みだらけの台本を広げながら、窪田が笑顔で挙手する。


「よ〜し! 窪田さんの分は俺が淹れるね!」

「なんで!?」


 今はまだ、スタジオ内は和気藹々としている。だが、イナンナ所属の俳優たちと、それに加えて灘波祥一朗が現れてしまうとそうもいかない。必要な情報交換やコーヒーの配布を、速やかに終わらせる必要があった。


「優華さん、下、どうでした?」

「変わりなし! 一応喫煙所にも入ってみたけど、誰も来えへんかったなぁ」

「……窪田さんは?」

「俺も何も見なかったよ〜。でも俺ってもともとっていうか、昔友だちとそういう……心霊スポット? みたいのに行った時もひとりだけ何も見なかったりしたから、あんまりアテにならないかもしんない」


 不田房が持ってきたコーヒーカップを些か不服げに受け取りながら、窪田は応じる。しかし、アテにならないかも、という自覚があるのは良いことだ。余計な情報を流して現場を撹乱するよりは、ずっと。


「あ、和水さんだ」


 デニムの尻ポケットに捻じ込んであったスマートフォンが震える。「迎えに行って来ます」と室内用スリッパからスニーカーに履き替えながら鹿野は言う。

 スタジオを出て、エレベーターに乗って一階のエントランスに。ビルから少し離れたところに、見慣れた和水のマネージャーが運転するクルマが停まっている。

 ビルの外は寒い。暦の上ではギリギリ秋だが、空気はすっかり冬だ。鹿野は大きく手を振りながら、クルマに駆け寄る。


「おはようございます、和水さん」

「おはよ。毎回ごめんね」

「全然ですよ!」

「じゃ、行ってくるから、元家もとや……」


 元家、というのが和水のマネージャーの名前だ。40代手前ぐらいの寡黙で小柄な男性。静かに首を縦に振った元家が、


「鹿野さん、よろしくお願いします」

「はい。元家さんもお疲れ様です。稽古終わったらご連絡しますね」


 和水がクルマを降り、鹿野の手をしっかりと握って歩き始める。暖かい手をしている。


「今日もドラマの撮影ですか?」

「そう。トラブルがあってちょっと長引いちゃって……あっ! もしかして私、遅刻かな?」

「そんなことないですよ! 今さっき、窪田さんと優華さんが来たとこです」

「そっか。良かった」


 言葉を交わしながらエレベーターに乗り込む。クルマからエレベーターまでの短い道のりを、和水は目を固く閉じて進む。例の老婆は、鹿野を見ない。弁当箱のようなものを抱えて、和水の横顔を注視している。エレベーターの中で和水がようやく目を開けて、小さく溜息を吐く。4階のスタジオに到着し、置いたばかりの盛り塩を確認。何の異変もない。あとは檀野らイナンナ組の到着を待つだけだ──などと思っていた僅か10分後。和水を降ろしたばかりのクルマが追突事故に遭い、運転席に座っていた元家もとやろんが救急車で搬送されたという連絡が、入った。

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