第2話 渋谷区、稽古場⑥
その日、稽古自体は行われた。だが、和水芹香の動揺が激しかったのも事実で、演出家・不田房判断で和水は稽古を早退することになった。マネージャー・
──だからこの話は、
「事故を起こすような人間をマネージャーとして使うなんて……まったく、程度の低い会社はこれだから」
和水と鹿野が退室した途端、
「和水さんのマネージャーが自分から事故を起こしたわけではなく、一方的に追突されたそうですよ。そういう言い方は、あまり好ましくないかと」
不田房が、冷えた声を上げた。ぎょろりと目を剥いた灘波は、
「意見する気かね?」
「事実を述べただけです」
不田房栄治がこんな風に牙を剥く姿を初めて見た。何度か一緒に仕事をしている優華ですら驚いているのだから、彼とはほぼ初対面のイナンナのメンバーはもっとびっくりしているのではないだろうか──
「降板も、有り得るんじゃないですか?」
口を開いたのは、これまでほとんど存在感のなかった
「だって和水さん、碌にお稽古にも参加してないですし。それにこの先、歌も入ってくるんでしょう? 今回、歌劇なわけですから」
鬼優華は、野上葉月のことをよく知らない。株式会社イナンナに所属していて、おそらく歌がうたえるので、オーディションをパスして──エグゼクティブプロデューサー灘波祥一朗権限でキャスティングされた。そういう立場の俳優だと思っている。野上は、原案のタイタス・アンドロニカスではラヴィニアと呼ばれる女性の役──将軍タイタスの愛娘、今回の『花々の興亡』では
「いや降板って」
口を挟んだのは窪田だった。役作りのために髪を伸ばしているという彼は天然パーマの黒髪の先端を指で弄びながら、
「チケットの先行予約だってもう始まってるし……それに俺はあの役を、和水ちゃんは真面目にやろうとしてる、と思うけど」
「真面目にやろうとしてる、って気持ちだけじゃ舞台は成立しなくないですか?」
野上葉月は、薄っすらと微笑んで反論した。怖い顔だ、と思った。パイプ椅子から立ち上がった窪田も、眼鏡の奥の瞳を大きく見開いたままで硬直している。
──その怖い顔、稽古中にも見せればいいのに。
「そう思いませんか、灘波次長」
「葉月ちゃん、早いよ、言い出すの」
灘波祥一朗は次長だったのか、と優華はその瞬間知った。イナンナに所属していない出演者、それに不田房も同じ気持ちだっただろう。ここはスタジオ、稽古場だというのに、いつもかっちりとした背広にネクタイといった格好の灘波が、青いネクタイを弄りながら微笑んだ。
「ま、ボクも同じ気持ちだったがね。和水芹香、アレはもう無理でしょう」
「無理」
不田房栄治が、平たい声で繰り返す。灘波は鷹揚に頷いて、
「得体の知れないおばけが見えるとかいうのも、今回の大舞台のプレッシャーに耐え兼ねてのことじゃあないですかな。そんな肝っ玉の小さい女優に、助演を任せるわけには……」
「何言ってるの、灘波さん」
口を挟んだのは、不田房でも、窪田でも、もちろん優華でもなかった。
自警団側のテーブル前に長い脚を組んで座った、檀野創子だ。
眦を吊り上げて灘波を睨み据える檀野は、その怒りを少しも隠そうとはしなかった。
「あの子を……和水を降板させる? ああそう。だったら。私も降ります」
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