第5話 渋谷区、稽古場④

「おはよ〜! なに盛り上がってんの〜? みんな元気だね〜」

「ああ、窪田くぼたくんか……」


 天然パーマの黒髪に、黒縁の丸眼鏡。上背は175センチ前後といったところで、檀野、和水両人との身長差はほとんどない。年の頃は40代半ば。不田房よりも少し年上だ。

 ほっとした様子で名を呼ぶ灘波に柔らかく微笑みかけた窪田は、


「あれ? 不田房くん、彼女もしかして……?」


 とずいずいと『演出班』の長テーブルに近付き、


「素直ちゃんじゃん! 久しぶり〜!」

「はあ……どうも……」


 包帯を巻かれていない方の手を取って、窪田が嬉しそうに言った。不田房は彼にしては珍しく顔を顰め、頭痛を堪えるかのように人差し指を自身のこめかみに押し当てている。


 鹿野素直と窪田くぼた広紀ひろきは、初対面ではない。


 鹿野がまだ大学生の頃。つまり、不田房が大学で講師をしていた頃でもある。鹿野は大学4回生。就職活動はしていなかった。大学を卒業したら、すぐに不田房と仕事をすると決まっていた。不田房と鹿野は大学の講師と生徒として出会い、学内で行われる公演の演出家と演出助手という関係になり、その後正式なビジネスパートナーとして同じ船に乗ることを決めた仲だった。不田房の演劇講座を受講していた面々も、ひとり、またひとりと公演からの引退を表明し(座学もあったため、単位取得を目的とした多くの同期生は『』からは身を引いたものの、授業そのものを捨てはしなかった)、気付けば鹿野の同期で公演に関わっている人間は数えるほどしか残っていなかった。しかし、後輩は大勢いた。単位を取得しつつ演劇の公演に関わることができるなんて面白い、という口コミが広がっていたようで、不田房の授業を目当てに進学先を決めたという後輩の発言に鹿野は卒倒しそうになったのを覚えている。不田房はではないが──さほどでもない。この業界にいる者は、鹿野も含めて全員そうだとも言えるけど。

 そんな中、4回生を主体に行う公演が行われることになった。卒業論文の代わりに卒業公演を打つ、という理屈だ。鹿野は不田房と知り合った最初の公演の時からずっと、演出助手として仕事をしていた。卒業公演にももちろん、演出助手として関わった。


 その、卒業公演の際。外部からの助っ人として、数名のスタッフが招聘された。不田房栄治は演出家である。音響、照明、それに舞台装置にメイク、衣裳といった技術が必要な仕事について、知識はあっても指導はできない。そこで音響には海野うんのすみれ、照明には道原みちはら克夫かつお、そして衣裳メイク舞台装置その他諸々をすべてまとめた舞台班指導には窪田くぼた広紀ひろきという、それぞれ不田房と個人的に仕事をしたことがあるスタッフたちが大学にやって来た。

 音響の海野、照明の道原は、不田房が講師を始めた年から大学に出入りしていた。だが、窪田とは初対面だった。舞台監督を含めた舞台班を指導する人間だけが、どうしても定着しなかったのだ。


「窪田さん、普段の仕事は役者なんだけど、舞台監督のバイトでめちゃくちゃ稼いでる人だから」


 と、当時の不田房は言っていた。たしかに鹿野が個人的に見に行く舞台でも、舞台監督や、舞台班協力、という形で『窪田広紀』という名前がクレジットされているのを見かけることがあった。

 海野や道原と同様に、窪田は頻繁に稽古場を訪れ、舞台装置について不田房と打ち合わせをしていた。メインは役者、というだけあって、彫りの深い、端正な顔立ちをした男だった。大して好みではないがカッコいいな、と不田房の傍らでダメ出しのメモを取りながら鹿野は思った。思ってしまったのだ、カッコいいな、と。


「演出助手ふたりになるの? また素直ちゃんと仕事できるの嬉し〜」

「いや……あの別に普通に馘になる可能性もあるわけでして今回は……」

「え? そうなの? 別に助手ふたりいてもいいじゃんね、灘波さん?」


 喋り続ける窪田は、鹿野の手を離さない。不田房が大仰に溜息を吐いた。


「窪田さん、その手、ハラスメント」

「え? あ〜ごめん! いや素直ちゃんに会うの何年ぶり? 3年ぶりぐらい? だからついテンション上がっちゃって!」


 と、名残惜しげに鹿野の手のひらをするりと撫でて、窪田は離れた。


 窪田広紀とはこういう男なのだ。目の前に異性がいれば平気で口説く。窪田に対して少しでも「いいな」と前向きな感情を抱いてしまった人間を、絶対に逃さない。卒業公演の際の鹿野もそうだった。「大して好みではないが、仕事をしている姿はカッコいい。あと俳優をやってるだけあって顔もいい」という気持ちを読み取られ、千秋楽後の打ち上げの席で窪田に口説かれた。交際が目的ではない、というのは分かっていた。そのうち時間を合わせてデートをして、それから……というあまりにも露骨な誘いに、学生の鹿野はひどく困惑した。成人していて、間もなく卒業するとはいえ、学生は学生である。それにこの窪田という男とは、今後不田房と仕事をするに当たって現場でまた出会ってしまうような気がする。その際、『過去に肉体関係を持った女』という立場にされるのは嫌だった。


 迷いに迷った鹿野は、打ち上げを途中で抜けて帰路に着く不田房を追った。本当なら後輩たちと朝まで飲みたい気持ちもあったのだが、その夜のうちに窪田のことを相談したかったのだ。

 追いかけてきた鹿野をタクシーに乗せた不田房は車内で行われた打ち明け話に血相を変えた。そうして新宿ゴールデン街の小さなバーに鹿野を伴って入り、その場で窪田に連絡を入れた。窪田も既に学生だらけの打ち上げを抜けて、別の場所で飲んでいるらしかった。「鹿野には絶対に手を出すな」という不田房の強い口調に、鹿野は安堵した。不田房は味方で、信じても良いのだという気持ち。


 しかし窪田とは大学卒業後も何度か顔を合わせる機会があり──スタッフ同士だったり、キャストとスタッフだったり、客とスタッフだったりと関係は様々だったが、会う度に口説かれた。あれほど不田房が怒っていたのに、びっくりするほど窪田には響いていなかった。もはや才能である。不田房が主宰する『スモーカーズ』の公演に窪田が出演するからという理由で、演出助手としての参加を取り下げたこともある。


 窪田は別に、鹿野に惚れていない。ただ、鹿野は、窪田にとっては『あの日狩ることができなかった獲物』なのだ。だから執着する。厄介だ。


 ──しかしこれはとしての窪田広紀の話であり、としての窪田の印象はまた異なる。窪田は、演技がうまい。空気を読むのがうまい。時折「個性がない」などとSNSに悪口を書かれているのを見かけることがあるが、窪田は故意に自身の個性を殺している。だから、ストレートプレイから歌劇。小劇場に大劇場、時にはテント公演まで、様々な舞台に客演として招かれる。今回、窪田が演じるのはタイタス・アンドロニカスの登場人物の中でいうならローマ新皇帝に該当する役──自警団のトップを勤める男性と、ゴート族の女王の愛人──アパッシュの女性リーダーの愛人役という相反する二役だ。窪田なら演じられる、と不田房、そして灘波が判断したのだとしても、鹿野は驚かない。窪田の演技にはそれだけの説得力がある。


 だからできれば、演技だけをしていて欲しい。妙な色目を使わないで、大人しく芝居に専念して欲しい。鹿野の切なる願いは、今回も窪田には届きそうになかった。


「窪田さん、あの」

「ん? なになに?」


 満面の笑みで返事をする窪田を見上げ、鹿野は言った。


「下の……1階のエレベーター前で、誰かに会いませんでしたか?」


 問い掛けに、窪田は穏やかな笑顔のままで首を傾げる。


「いや? 誰にも?」

「そうですか……」

「ほらやっぱり、妄想じゃない」

「っるせえな、ほんとにいたって言ってんだろ!!」


 窪田の肩の向こう側で、檀野と和水が怒鳴り合っているのが見える。包帯を巻かれた手のひらを撫でながら、鹿野はちらりと不田房に視線を向ける。不田房もまた、困惑したような表情で鹿野を見詰めていた。

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