第6話 中央区、個室料理店
株式会社イナンナ所属の出演俳優・
「まあ、とにかくね。仲良く、いい舞台を作ってもらうとして」
エグゼクティブ・プロデューサー、灘波祥一朗が笑顔で言い放った。それは無理だろうと鹿野は内心思う。こんな風に派閥がある現場で、仲良く楽しくなんてできるはずがない。本番まで誰も降板しないように、そして稽古場の空気の悪さが客席にまで漏れ出ないよう立ち回る必要があるが、そもそも鹿野は演出助手としてまだ認められていない。灘波は大嶺舞を演出助手に指名しているし、仮チラシにも彼女の名前が載っている。鹿野は、「出て行け」と命じられたら即座に席を立たねばならないほど、部外者なのだ。
檀野と和水が既に揉めているという状況から、軽い顔合わせを終え次第解散する流れとなった。檀野創子も和水芹香も毎日稽古場に来られる人間ではないのに、こんな風に時間を無駄遣いするのは体無い。だが、双方が殺気立っている状態で稽古を進めるというのもあまり賢い判断ではないわけで──
(どうすれば)
不田房が座る演出席の斜め後ろにパイプ椅子を置いて座った鹿野は、静かに頭を抱える。『演出班』と張り紙がされた長机の前に置かれた椅子には、右から順に灘波、不田房、大嶺が腰を下ろしている。エグゼクティブおっさん、おまえが座るんかい、と内心悪態を吐くがさすがに口に出したりはしない。今の時点では。
灘波率いる株式会社イナンナ班──檀野、大嶺、そして野上は本当に速やかにスタジオを去った。シアター・ルチアの音響、照明スタッフ、そして美術担当者、舞台監督も同様に。
「こういう顔合わせのあとは飲み会とかするんじゃないの?」
窪田が拍子抜けしたような声を上げているが、
「今日は無理ですよ。俺らも引き上げます。行こ、鹿野」
と不田房が一蹴し、鹿野を振り返った。
「──
声がかかったのは、その瞬間だった。素直、と。下の名前で呼ばれることはあまりない。そう呼ぶのは父親ぐらいだろうか。驚いて振り向くと、デニムジャケットに黒いロングスカート姿の和水芹香が、ちょいちょいと手招きをしていた。
「この後時間ある? あるよね? 飲も」
「えっ、私ですか」
人気俳優の和水芹香にこんな風にお誘いをされるなんて、予想もしていなかった。返事に窮する鹿野の手首を掴んだ不田房が、
「じゃ、俺も」
「あ〜、男は要らない。帰って」
「その括りだと俺もダメってこと?」
いかにもがっかりした様子の窪田が重ねて尋ねるが、
「決まってんでしょ。あ、オニちゃんはどう? 時間ある?」
指名された鬼優華が「ありまーす!」と嬉しそうに万歳をした。
荷物を纏めた鹿野素直と鬼優華は、和水芹香のマネージャーが運転するクルマに乗り込んだ。スタジオを出る瞬間、「不田房くん俺と飲まない?」「仕方ないですね〜」という会話が聞こえていたが、一旦無視することにした。
中央区、銀座。
看板も出ていない小さな古びたビルの前で、クルマは停まった。
「中華料理好き?」
和水が尋ね、鹿野は肯き、優華は「大好きっす!」と声を上げる。
「ここ、私の行き付け。ふたりも好きな時に来ていいよ、稽古期間中は奢ってあげる」
と、頼りない橙色の明かりに照らされた階段を上りながら和水が言った。
果たして、階段を上り切った先には味も素っ気もない木製の扉があった。
「こんばんは。若い子連れてきたから美味しいもの出したげて」
「餃子ね」
「いつも餃子じゃない、おかあさん」
和水が『おかあさん』と呼ぶ女性は小柄で、痩せ型で、年の頃は例の──稽古場ビルの前に現れる不審な老婆と同じぐらいに見えた。黒いシャツに白いエプロン姿の女性の他に、ひとつしかない客席からも見える場所にある厨房で中華鍋を振るう中年の男性、それに席に着いた3人のところに若い男性が水を持ってきてくれる。
「お酒お酒! あなたたちは? ビール?」
「あ、うち、結構飲めます。白乾児いけます」
優華が相変わらず元気いっぱいに応じ、
「私は……すみません甘めのお酒かノンアルで……」
「いいよ謝んなくて。
阿文と呼ばれた若い男性が「かしこまり〜」と気の抜けた声で応じている。
「はい飲み物。和水、また誰かと喧嘩した?」
「はー? してねーし、この子たち後輩だし」
「ふーん。和水はすぐ人と喧嘩すっから俺は心配だね」
ドリンクを持ってきた阿文と軽口を交わす和水の顔からは、スタジオでの刺々しい雰囲気がすっかり抜け落ちていた。
「じゃ、乾杯しよ、乾杯」
「はーい! 全員集合初日かんぱーい!」
「よろしくお願いします、乾杯」
グラスを軽く合わせたところで、このところ中華料理店が続いているな、と鹿野は不意に思った。
「とりあえず、ふたりとは仲良くやりたいと思って」
和水が言った。「直球っすね」と優華が笑う。
「仕方ないでしょ。あの現場じゃ」
「まあそっすね……まともにオーディションでキャスティングされたの、うちと和水さんだけですもんねぇ」
「あと窪田広紀? まあでもアレはなんかアレで別のコネを持ってそうで」
「同感」
俳優ふたりの言葉を咀嚼しながら、鹿野は前菜の
「素直」
「ふぁいっ」
ジンジャーティーソーダを片手に、鹿野は目をしぱしぱと瞬く。
「確認なんだけど、演出家──不田房栄治とは長い付き合いなの?」
和水の問いに、とりあえず首を縦に振る。
「はい。10年ぐらい、一緒に」
「わっ。ほんとに長い。……付き合ってるの?」
「それはないです。あの人もともと私が通っていた大学に講師として来てた人で」
この説明は不田房と鹿野の関係を疑う人間全員にしているものなので、特に考えなくても言葉を並べることができる。透明のグラスを手に説明を聞いた和水は小さく頷いて、
「了解。なるほどね。じゃあ大嶺なんかより、素直がいてくれた方がずっといいわ」
「いやぁ……そう言っていただけるととても嬉しいんですけど、でも、主催側としては大嶺さんを演出助手として起用したいんですよね?」
したい、というか、既にしている。仮チラシにも、大嶺舞の名前はきちんと入っていた。
肩を竦めた和水は、
「イナンナ側はさ、全員灘波のお気に入りだから」
「あ、うちそういう話大好きっす! イナンナって今結構イケてる会社ってイメージやったんですけど、エグゼクティブおっさんはどういう立場のおっさんなんですか?」
白乾児のグラスと水のグラスを行き来しながら、優華が問うた。和水は長い人差し指で自身の顎をするりと撫でて、
「灘波は、イナンナの代表取締役──の親戚」
「イナンナって親族経営なんですか」
と、鹿野は思わず口を挟む。少し意外だった。イナンナほどの巨大な会社を親族で経営するというのは、なんだか難しそうなイメージがあるが。
「親族経営っていうか……ま、結果的にはそうだね。イナンナの今の代表取締役が、灘波の甥なんだけど」
灘波はもともと、イナンナとは別の芸能プロダクションの社長をしていたらしい。しかしある時、所属していた俳優が覚醒剤に手を出すという事件を起こしてしまう。
「で、会社は解散……というか倒産。特に何もやらかしてないのに行き場を失った所属俳優と灘波を、イナンナが引き取る形になったっていう」
「へえ……」
「知らんかった……」
「でもこれも、それこそ10年ぐらい前の話だから」
ふう、と溜息を吐いた和水が鞄から煙草を取り出す。この店は喫煙可能店なのだろうか──と鹿野と優華が顔を見合わせると、
「和水! 禁煙!」
「阿文、早くこの店も煙草吸えるようにしてよ」
「無理! 店潰れるよ!」
やっぱりダメらしい。世の中は喫煙者に厳しい。
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