八尾比丘尼に恋をして

石堂十愛

第1話 出会い

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者も遂にはほろびぬ、偏ひとへに風の前の塵におなじ。


『平家物語』第一巻「祇園精舎」より。

 

 世界中の人を惹きつけてやまない文化的都市、私が住んでいる京都はとても美しい場所だ。そんな京都に私が懇意にしているホテルがある。初めは懐かしいこの土地がホテルになるという事から興味本位で宿泊を決めたが、美しい空間とホスピタリティの高さに感動し、以来何度も滞在している。ホテルのデザインは香港の有名な建築家が手がけているようで、異文化を取り込み、相反するものが見事に融合した空間はとても心地良い。手入れの行き届いた庭や広い温泉も魅力的である。家族や恋人同士での滞在が多いこのホテルで宿泊者の姿を眺めるのも好きなのだ。私はいつもひとりで訪れる。ホテルにとっては珍しい客人のひとりなのかもしれない。

 

 イ・ジュンに出会ったのもこのホテルだった。

 

 彼は予約日を間違えてしまったようで、レセプションニストに流暢な英語で宿泊交渉をしていた。若く見えるが四十代くらいだろうか。身なりもきっちりとしており、アジア系の男性で整った顔立ちをしている。細身の長身で目を惹くタイプだ。日本のホテルで英語で交渉しているわけなので、日本人ではないのだろう。聞くつもりはなかったが、その時はつい会話が耳に入ってしまった。どうやら彼が予約を間違えてホテルでは明日からの宿泊予定になっていたが、彼としてはどうしても今日このホテルに宿泊しなければならない事情があるようだった。かなり必死に交渉していたので、その姿が印象に残っている。

 

「美山様、お待ちしておりました。チェックインでございますね。」

 聞き耳を立てていたら、顔馴染みのコンシェルジュに声をかけられた。

「はい。あの…彼の部屋は用意が難しいんですか?」

 彼があまりにも必死にレセプショニストに交渉しているのが気になり、ついコンシェルジュに確認してしまった。

「ええ…実は本日はあいにく満室でして、違う宿泊先をご紹介しようと思ったのですが、どうしても当館をご希望とのことで…」

「じゃあ今日は私の部屋を譲ってください」

 今考えると不思議だが、自分でも思いもしていなかった言葉出た。

「え?お知り合いですか?」

「いえ、違うんですが困っているようだし、私は今日からでなくても大丈夫なので、明日からで三泊でなく二泊にします。」

「本当によろしいんですか?」

「彼には急なキャンセルがでたと伝えて譲ったことは内緒でお願いします。」

「かしこまりました。お喜びになると思います。あの、本日の宿泊先をよろしければお探し…」

「大丈夫です。今日は京都の別宅で過ごして、明日また来るので荷物は預かって頂けますか?」

「はい。」

 コンシェルジュはすぐさまレセプショニストに連絡を取り継ぎ、男性は部屋の用意が可能なことを聞くと、大変嬉しそうに喜び何度も頭を下げていた。こちらまで嬉しくなるような喜びようだった。彼に視線を送ると、一瞬目が合った。韓国人だろうか?切長で澄んだ目、やはり整った美しい顔立ちをしている。彼はレセプショニストに何やら英語で話していたが、私はホテルの外のタクシー乗り場に向かったためよく聞き取れなかった。

「美山様、お車ご利用されますか?」

「はい」

 ベルボーイに声をかけられて、タクシーに乗り込もうとしたその瞬間、体が大きく後ろにのけぞり、よろけて転びそうになった。

(え?)

 一瞬、何がおきたのか分からなかったが、どうやら手をひっぱられて、タクシーに乗るのを阻止されたようだった。振り返ると先ほど部屋を譲ったアジア系の男性がよろけた私を抱き止めるかたちで立っていた。ホテルのベルボーイは驚きで言葉を失っている。私も驚いて男性を見つめた。男性も私を見つめている。思ったよりも長い時間、彼が私の手を握ったままなので私は韓国語で彼に話しかけた。

「손 놓아요.(手を離して下さい)」

「미안합니다(すみません)」

 男性は慌てて手を離し、私に頭を下げた。やはり韓国人のようだった。急いでいてタクシーに乗りたかったのだろうか。

「먼저 들어가세요(先にどうぞ)」

「오해예요(違うんです)」

 男性はなんとも困ったという顔をしている。タクシーの運転手もベルボーイも困っていた。当然私も困っているが、とりあえず今はタクシーに乗らないことを合図した。彼はじっと無言で私をみつめている。

「あの…?」

「오늘 여기서 너를 만날 수 있다고 들었어.(今日ここで、あなたに会えると、聞いて来ました)」

「はい?」

「너라면 곧 알았어.(あなただとすぐに分かりました)」 

「왜…(なぜ?)」

「僕に部屋を譲る女性があなただと、ある人に言われました」

 彼は突然流暢な日本語を話した。状況も読めないし、意図も分からないが、彼にそんなことを言う人間に一人だけ心当たりがある。

 彼は胸に手を当てて、私をじっと見つめている。私に話したいことがあるのだろう。

「이야기합니까…(話しましょうか)」

 沈黙に耐えかねて私が折れた。

「감사드립니다(ありがとうございま)す」

 何が事情があるのは察したが、めんどうなことになりそうである。彼へのはじめての印象はそんな感じだった。

 

「美山様」

 コンシェルジュが心配そうにかけよってきて私に謝罪した。

「申し訳ありません。お部屋を譲った方を教えてほしいとイ・ジュン様が仰せで、お断りしたのですが美山様だとお分かりになってしまったようで…」

「大丈夫です」

 とりあえず、事情を聞くしかなさそうだったのでホテルのカフェバーで話をすることにした。ホテルの庭園がよく見える奥まったソファーのテラス席、私のお気に入りの場所だ。

「先ほどは失礼しました。タクシーに乗ってしまったらもう会えないかと思って焦りました…」

「日本語も話せるんですね」

「はい。少しだけ。」

 彼は照れ臭そうに微笑んだ。

「あなたも韓国語が話せますね」

「私も少しだけです。」

 私は韓国語以外も、英語、フランス語、イタリア語が話せる。韓国語はその中では苦手な方だが、一時期使う機会が多かったのでわりと自然に話せているとは思う。

 彼は、正面から見ると本当に整った顔立ちをしている。緊張しているのだろうか、少し手が震えているように見える。

「お名前はイ・ジュンさん?」

「はい。あなたは雅さんですね。」

「私の名前もご存知なんですね。あなたに韓国で私のことをを教えたのは誰ですか?」

「韓国で知り合った人で、実はよく知りません。中世的な人でした。」

 私が思い当たる一人は、あざとく美しい小柄な男だ。名前はたくさんあるので聞くだけ無駄だが、彼こそ中世的の元祖だと勝手に思っている。

「一体その人に何を言われたんですか?」

「探している人に会いたいなら、今日ここに来るようにとだけ。」

 あの男らしい。いつもそうやって意図的に多くの人間を動かしているのだ。

「僕はその人のことは、よく知らないのですが、その人は僕があなたを探していることを知っていました」

「なぜ私を探してたんですか?」

 イ・ジュンはじっと私を見つめる。韓国人は目を見て話す人が多いが、日本が長いとなんだか気恥ずかしい。

「理由は?」

「それは三日後に答えたいです。」

 彼の携帯が鳴った。

「失礼します」

 彼は自分の携帯を取ると、私に会釈し電話に出た。電話の主は彼に安否確認をしているようだった。

「あの、変わってくださいとのことです。」

「え?」

「여보세요?(もしもし?)」

 あの人の声だった。

「やっぱりあなたですか…」

「雅ちゃん!やだぁ。わかっちゃった?久しぶり!」

「今は韓国にいるんですか…」

「やっと見つけたの!はるばる韓国に来た甲斐があったわぁ。」

「なんのことですか?」

「あなたにピッタリのパートナーよ。この私が人肌脱いでブラインドデートをセッティングしたというわけ。」

「はい?」

「とりあえず三日のお試し期間で!」

「いや…話が全く見えないんですが…」

「雅ちゃんお金もあるし、相変わらず暇してるでしょ?長ーい人生の中のたった数日だけ、彼と過ごしてみてくれないかなぁ?」

「あなたは私の事情をご存知でなぜそんなことを言うんですか?」

「雅ちゃんの事情を知ってるから彼なの。今回は私を信じてお願いよぉ。」

「私の長い人生の中で、あなたを信じて良かったことはひとつもありませんが?」

「そんなこと言わないでー。とりあえず今日から京都滞在の予定だし!彼、無理矢理押し倒したりもしないから大丈夫!」

 イ・ジュンはこの男をよく知らないと言っていたのに、相変わらず無責任である。

「はい?そういう問題ではなく、わたしにも予定と言うものが…」

「雅ちゃんが、そこに泊まった時にかならず行く料亭は二人に予約変更しておいたし、部屋も二人で使ったらいいじゃなーい。」

 顔は見えないのにニヤニヤしている姿が目に浮かぶ。本当に腹立たしい男だ。そもそも長年会っていないのに私の予定を把握しているところも、すこぶる気持ち悪い。

「あのですね…なぜ私が知らない男性と一緒の部屋に…」

(ツーツーツー)

「ちょっと…もしもし?」

 こうなると、もうあの人にはつながらない。

「あの…」

 イ・ジュンが申し訳なさそうに私の顔色を伺う。

「あなたが私に会いたかった理由、三日後にはかならず話してくれますね?」

「はい。もちろんです。」

「先にお伝えしておきますが、私はあなたより随分年上ですよ?」

「僕もあなたが思っているより年上です。でも年齢は関係ない。僕はあなたと一緒に過ごしたい。ほんの数日です。あなたの時間を僕にくれませんか?」

 韓国は儒教の文化の影響で男性が主体性を強く持つ傾向があると聞くが、その通りである。だが、わざわざ日本まで来てなぜ私なのか。その答えが三日後にしか聞けないのなら彼と過ごすしかない。私はこの提案を受け入れることにした。こうして、国境を超えて、手の込んだブラインドデートがスタートしたのだ。それに紹介元があの男なら、私にとっては避けては通れない。見知らぬ男性と数日過ごすだけ、しかもイ・ジュンは端正な顔立ちをした美しい外国人である。あの男は絶対に分かっているのだ。私が美しいものを邪険にはしないということを。本当に腹立たしい。

「お待たせいたしました」

 スタッフが美しい器をサーブした。

「와우 멋치다(わぁ、カッコいい)」

 イ・ジュンは女子のようにはしゃいでいる。

「アフタヌーンティー にしました。イ・ジュンさん、甘いものはお好きですか?」

 このホテルではアフタヌーンティー が人気で、私もよく利用する。日本の伝統工芸品の器を用いた和洋折衷のアフタヌーンティー でとても優雅な気分になれるのだ。ポットではなくカップサーブなのも気に入っている。シンガポールの紅茶をはじめ、他にもたくさんのドリンクが楽しめる。スタッフの丁寧な説明に彼は何度も頷いたり感嘆したりしていた。ふと、レストランの中に視線を移すと、遠目から顔馴染みのコンシェルジュが心配そうに私のことを見つめていた。


部屋を譲った初対面の外国人男性にタクシーを乗るのを阻止されて、さらに二人でお茶をしてるのだ。まぁ普通の状況ではないので彼女の心配も最もである。私の視線に気付いたのか、彼が彼女を呼んだ。


「すみません。色々誤解があったんですが、実は僕たちは知り合いでして…」

「そうなんです。会うのがかなり久々だったので気づかなかったんですが、心配しなくて大丈夫ですよ。部屋も同じところに宿泊します。」

「えっ?かしこまりました。ではそのようにご用意いたします。」

 同じ部屋に泊まるという私の言葉に、彼女はかなり驚いたようだが、同時に安心もしていた。トラブルになったらどうしようと内心ハラハラしていたのだろう。

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