第59話

 ――ブーン――


 ハエの羽音が空調の音に重なる。ハエはチャーシューメンを狙って降下していた。


 刹那、二階堂がカウンターの殺虫剤を左手に取って噴射させた。ほぼ同時に右手でライターの火をつける。火が殺虫剤のガスに引火、スプレーは火炎放射器に変わった。


「キャッ」


 ルカはのけぞる。


 ハエが火だるまになってチャーシューメンに水没した。


「あー、私のチャーシューメンが……」


 嘆いたものの、心中、喜んだ。これで不味いチャーシューメンを食べずに済む。


「加賀美さん、合図をしたはずです」


 ぎこちないウインクが合図だったのか。……気が抜けた。


 二階堂が割り箸でハエの死骸をつまみ上げる。いや、それは死骸ではなかった。


「スパイロボットですよ。軍のものだ」


 ルカは、顔を近づけて見た。外皮が焼けたそれは、虫の形をした精巧な機械だった。


「へー、これが……」


 小さなスパイロボットが開発されて50年以上たつ。それの使用はプライバシーを侵害する可能性が高いため、法律はそれの使用を厳しく限定していた。禁じられているはずのそれを目の前にして、ルカは言葉を失った。同時に、それを使ったのは国軍なのか、ソフィなのか、頭の中でクルクル思索が回った。


「これ一つで、軍人100人の給料相当だ」


 二階堂が呆れたように言った。


 我に返ったルカは、彼とラーメン屋の主人の顔を交互に見た。ライターを提供した主人も只者ではないに違いない。


「ご主人も、ハエがロボットだと気づいていたのですね?」


「あぁ、滅多に見ないが、不良軍人や反政府主義者の周囲を良く飛んでいるよ」


 野太い抑揚のない声だった。


「誰が不良軍人だって?」


 二階堂が苦笑した。


「壊してしまって、のではないですか?」


 チャーシューメンもけど。……我ながら上手いジョークだと思うけれど、店主の手前、最後までは口にしなかった。


「今はフィロの情報収集マシンかもしれない……」


 二階堂も同じことを考えているようだった。


「……軍が自分を監視しているのだと、尚更、腹が立つ。自分を信用していないということだからな。……ともかく、壊したことについては、今なら言い訳ができる。フィロに乗っ取られているのかもしれないからな」


 二階堂はそう言って、中華丼を食べ始めた。


 店主はチャーシューメンを作り直してくれたが、それも不味かった。


 二人は食事を済ませると代金を払わずに店を出た。店の主人が請求しなかったからだ。


 不味かったから代金を請求しないのだろう。……ルカは都合よく解釈した。


「食事をしたら落ち着きました」


 二階堂が無邪気に言うのでルカは驚く。彼の舌は壊れているのか、それとも軍人とはそんな人種なのだろうか?


「中華丼は美味しかった?」


「ええ、いつもの味です。チャーシューメンも美味しかったでしょ?」


 二階堂は味覚障害に違いない。……ルカは確信する。


「ま、まあね……」


 彼の未来を案じて答えは濁した。味の解釈を巡って、常連客が店主と殺し合うことになっては大変だ。


「代金を払わなかったけど……?」


 念のために訊いた。立場上、食い逃げはまずい。味も不味いけど、とジョークを重ねて心の中でプッっと吹く。


 私、気持ちに余裕ができた?……なんとなく未来が、上手くいきそうな気がした。


「そのうちに払いますよ」


 彼はそっけなく答えた。


「いろいろありがとうございます。それでは、ここで別れます。私は駅に行きます」


 頭を下げると、彼が肩に手を置いた。


「送りますよ」


 二階堂が、ラーメン屋の主人から受け取ったキーホルダーを掲げて見せた。


「この車ならフィロ、……いや……」彼は少し首を振った。「……フィロかソフィか分からないが、そいつに見つからずにF-Cityに入れます」


 彼は彼なりに案じていてくれた。ルカは嬉しかった。ラーメン屋での下手なウインクを思い出し、それがハエを落とす合図だったとしても、右脳はあれを男性の好意の印と解釈しているのだろう。体温が上がった。


 なんて自惚うぬぼれやなの! 体温が上がったのは、きっと暖かいチャーシューメンの影響だ。……左脳が、緩みかけた頬を引き締めた。


「ありがとうございます」


 彼の好意を素直に受け入れることにした。……理由は何であれ、F-CITYまで送ってもらえるのはありがたい。お返しにチャーシューメンが不味かった思い出は、誰にも語らず墓場まで持って行こう。


 二人は地下駐車場に下りた。その一角に古い水素電池車が停まっている。真っ黒にぬられたワゴン車だ。


「この車、時々借りるのですよ。本来は8人乗りですが、後部は貨物席に改造してあります。それで、5人乗り」


 二階堂がドアを開けて内部を覗いた。ルカは助手席のドアを開けた。


 シートは2列しかなく、室内は錆びと日本酒の匂いがする。


「貨物席って、引っ越しのアルバイトでもするのですか?」


 冗談のつもりだったが、二階堂は「色々運びます」と真面目に応じた。


「軍の給料が安いのですね。可哀そう」


「市長代理よりはもらっていると思いますよ」


 彼は言い返し、エンジンを起動させた。それから車内の無線端末を使って軍の総務部門を呼んだ。しかし、そこに繋がることはなかった。


「まだ復旧していないな」


 彼は篠塚個人の端末を呼び出す。それは普通につながった。


「しばらく休暇を取る。……そう、個人的な用事だ」


 短く告げて通信を切った。


 古いワゴン車は、動きも乗り心地も古さを感じさせなかった。整備が行き届いているのだ。


「ラーメン屋のおやじは元兵隊です。一緒に働いたことはないが、何かと自分の面倒を見てくれるのです。おやじはマシンが好きで、暇を見ては改造しているのですよ」


 二階堂が車の乗り心地の良いわけを説明してくれた。それからこの車を借りて海釣りに行くのだと話した。アルバイトをするというのは嘘だった。

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