第58話
コンビニを出た二人は飲食店街に向かった。その通りは酔って千鳥足のサラリーマンやカラオケ店から出てきた学生や高齢者のグループで賑わっていた。
「ここは平和ですね。私たちとは別の時空で生きているみたい」
「皆、他人のことには無関心です。Cityで起きていることにも」
「そうですね」
ふと、二階堂が戦闘服のままなのに気づいた。それから大塩警視を病室に置いてきてしまったことも思い出したが、それは忘れることにした。引き取りに行くのは彼の怪我が治ってからでいいだろう。
「軍服のままでいいのですか?」
灰色の戦闘服のままの二階堂に尋ねた。
「普段はこんな格好では歩きません。が、見てください。今のTokioじゃ、この程度の格好では誰も振り向いてくれませんよ」
すれ違う人間や追い越す人間は多いが、スーツのサラリーマンと同じぐらい奇抜な衣装を身に着けた若者も多い。中にはミリタリーファッションの男女もおり、その衣装や見せ掛けだけの装備は、二階堂よりも軍人らしく見せている。
「きょろきょろしないでください。顔認証システムが生きていたら、不審者認定されて住民情報を照会されてしまいます」
住民情報が紹介されたら、それがソフィに認知されるということだ。
二階堂は監視カメラの少ない道を選んで歩いているようだった。しかし、セキュリティーを重視する首都で、監視カメラのない道などあるのだろうか?
「街も古くなって、半分のカメラは死んでいますよ。政府には、それを修理する予算もない」
彼は、ルカの疑問に気づいたようだ。
二人は人ごみをかき分けるようにして移動した。
「やっぱり首都は人が多い。若者が集まるのも無理がないですね」
ルカは自分が年寄りのような口を利いたので思わず笑った。
「人が多いと、若者が集まるのですか?」
彼が足を止めた。ルカを不思議そうな顔で見つめている。
「私、おかしなことを言いましたか?」
尋ねると、二階堂の顔が紅潮した。通りすがりの若者が二人に向かって口笛を吹いた。
それから二人は通行人に見とがめられることもなく、路地を入ったところにあるカウンターだけの古い中華料理屋に入った。店には客が一人もいなかった。
店主が、カウンターの向こうで二人を睨んだ。店主の愛想が悪いので客がないのだろう。おまけに、客を追い払うかのように、ゴキブリ用の殺虫剤がカウンターの端に鎮座していた。
「いらっしゃい」
まるで恫喝するような声だった。彼の顔つきは60代だが、身長が2メートルほどの巨漢で猛牛のようだ。
二階堂がドアを開けたときに飛び込んだ一匹のハエが、猛牛の頭の上を数度旋回してから油にまみれた壁に止まった。
「おやじさん、俺はいつもの。こっちの人はチャーシューメン」
「へい。まいど」
店主は麺をつかむと眉間にしわを寄せ、それが長年追いかけた
「さっきの話ですが……」
二階堂が口を開き、ルカはグツグツ煮える湯から視線をはずして彼に向いた。
「東京に若者が集まるという話です。何故ですか?」
「万有引力です」
「物理学ですか?」
二階堂が眉根を寄せる。彼は壁を飛び立ち、目の前を横切ったハエに視線を移した。
「私と二階堂さんの間には一つの人間関係がある」
二階堂がうなずき、カウンターの殺虫剤を手に取った。それを素早くハエに向かって噴射する。ところがハエは、噴出したガスをかいくぐり、天井から下がった照明器具に隠れた。
「二人だけの人間関係の所にオヤジさんを加えると……」
ルカは中華鍋に向かう店の主人を指す。
「三人の間には関係性が三つ」
ルカは
「胡椒さんを加えると、四人の間には関係性が六つ」
「点と点を結ぶ線が増えるわけですね。数学の問題によくあるやつだ」
二階堂の返事に、ルカはうなずき返した。
「同じことが人間関係にも言える。人が百、千、億と増えるとその関係性はいくつになるのか分かりますか?」
「公式がありましたね。忘れたけど。……でも分かります。答えはとてつもない巨大な数です。1億角形なんて想像もできない」
「もちろん。角形の頂点が増えると、理屈の上では角形でも見た目は円になってしまう。そこに引かれる対角線は、もはや線ではなくて面です。それが集合意識になる」
「社会心理学ですか? まるでアニメだ」
「もちろんそんな意識が実在するわけではありません。でも想像してみてください。大きな事故が発生して人々がパニックに陥った瞬間。或いは危機を暗示されて起きる集団ヒステリー。根拠のない風評、差別、移民や他種族に対する憎悪、カリスマ賛美。……そういったものは集団の雰囲気の中に自然に生まれる。ゴミためにウジ虫が湧くように……。人と人との対角線が重なり合い、境界が消し飛んで面になった時、それは起きやすい。その面は曖昧だけれど、だからこそ論理的欠陥を覆い隠し、線を超越した強い力を発揮してしまう」
「ゴミためにウジ虫とは、食事前の例えとしてはひどいですよ。しかし、それならTokioは面を超えて球です」
照明器具の影からハエが飛び立った。
「そうかもしれませんね。湧くウジ虫も、……ごめんなさい、悪意の塊といったらいいでしょうか。あるいは、悪の組織と言うべきかもしれませんが、それも大きい。……人は誰かに自分の存在や個性を認めてもらいたいと思いながら、同時に集団と同化したいと思っている。弱い人ほど、その集合意識の中に自分を求めて溺れてしまう。……自己が確立していないうえに地域にも根ざしていない、責任も義務も感じていない若者が、そこに魅かれ、自分を重ねて安堵する。あるいは、それを自分の力と錯覚する。……Tokioが魅力的なのは自明です。結果、巨大な人間関係の圧力ですりつぶされるか、ウジ虫の餌になるとも知らないで……」
ルカは、いつの間にか夢中になって語っていた。それを止めたのは、大きな影の動きだった。
「チャーシューメン、お待ち」
巨体の主人に握られたドンブリは小さく見えた。
汚れているのではなく古びて表面の印刷が擦り切れたドンブリは、中華料理屋の歴史を物語っているのか、それともドンブリを洗う主人の馬鹿力の証明なのか……。
ヤダ!……彼の親指が、第一関節までスープの中に浸かっている。脳裏を巨大なウジ虫の影が動いた。
「いつもの、お待ち」
二階堂の前に中華丼とキーホルダー、そして何故かライターが置かれ、彼がライターを握る。
どうしてライターなんか?……その手を見ていると、二階堂がぎこちないウインクを飛ばした。
「ゲッ……」
予想外のセクハラ行為にルカは肝をつぶす。
今までの軍人らしい所作はどこへ消えたの!……心の中で叫びながら、状況を変えるために割り箸を手にした。それから主人の親指の出汁の入ったスープをすすって店に客がいない理由の核心にたどり着いた。……不味い!
顔を上げると主人は背中を向けていた。
不味さを自覚しているのは良いことだ。早く店をたたむべきだ!……再び叫んだ。
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