第25話

 市長の浜口は青山たちの足元にいた。


 市庁舎の床は二重構造になっていて、様々な配管やケーブルがふたつの床の間の空間を走っている。上部の床板は、ケーブルのメンテナンス時にははずせる仕組みだ。その上にカーペットやリノニウム素材のシートが敷き詰められているため、一見、床下に空間があるのは分からない。その狭い空間に浜口は身を隠していた。


 市庁舎の機能が停止してから、手探りで執務室からロッカールームに移動し、カーペットをはいで点検口から床下に潜り込んだのだ。


 床を這って非常階段のある方向に移動したのだが、廊下の当たりで太い光ケーブルの束に行く手を遮られた。隙間が狭く、どうしてもそこを乗り越えることができなかった。


 暗闇と頭の上を移動する靴音に怯えながら、じっと息をひそめ続けた。


 まるで討ち入りに怯える吉良上野介きらこうずけのすけだ。……古い映画を思い出し、自分を笑った。そうして泣きたくなる自分を奮い立たせた。


 気持ちを落ち着かせて思考力が戻ると、戦うと豪語しながら、一発の電磁パルス・ボムでフィロとメタルコマンダーの両方を失う可能性を想像できなかった自分の未熟さに腹が立った。


 敗因は武器や戦争の知識がないことだが、今の今まで、そんな知識のないことが自分の人生に影響をもたらすとは考えてもいなかった。こんなことなら軍事の勉強もしておくのだったと後悔したが、しばらくすると本当に武器や戦争の知識が必要なものなのだろうか、と疑問を覚えた。


 平和な世界に、武器やその知識など無用なはずだ。ところが現実は平和に見えても反撃が怖いから、武器をもちながらじっとしているにすぎない。それで武器は常に最新のものに置き換えられていく。負けないためには武器が優れている必要があるからだ。


 それは軍事産業にとっては利益の源泉でも、社会全体にとっては非生産的なものだ。使いもしない武器に社会資源が使われ消耗していくのだから。そうした武器の発展の先には、社会による人命軽視と精神的、経済的貧困があるだけだ。そんなことは、歴史が何度も証明している。


 ふと現実に戻る。……どれだけの時間が過ぎただろう。


めてください」


 女性のくぐもった声を真上に聞いた。床板があるのではっきりしないが、ルカの声だろう。反射的に身体が動き、起こした頭がゴツンと床を打った。


「この下にいるぞ」


 兵士の声がした。同時に耳をつんざく爆音がした。


 ――ドドドドド――「出てこい」「ヤメテ!」――ドドドドド――


 浜口は咄嗟とっさに頭を手で守った。その耳に声は届かない。風圧と頭部や手の甲にあたる小さな破片による痛み、……目には見えないが、何が起こっているのかは分かった。兵隊が床に向かって自動小銃の弾を撃ち込んでいるのだ。


 音が消える。乱射が済んだのか、鼓膜が破れたのか分からない。ただ、下腹部に焼けるような痛みを覚えた。


 ――ドドドドド――


 聞こえないだけで、乱射は続いていた。


「井上、止めろ。止めないか!」


 その怒鳴り声で、初めて銃声は止んだ。


§   §   §


 ――ドドドドド――


 銃口からほとばしる発火光に世界が点滅する。


 ルカの瞳に映るのは、飛び散る床の破片と兵士の赤い影。鼓膜を打つのは狂気。


 脳裏に、20年前の橋の景色が蘇る。額にはヒリヒリする痛み。


「ヤメテ!」


 ルカは叫んだ。目が回った。倒れなかったのは、兵士に腕を握られていたからだ。


 ――ドドドドド――


「井上、止めろ。止めないか!」


 耳元で瑠香の腕を握った兵士が怒鳴った。


 そうして訪れた静寂と闇。


「暗視装置を切れ」


 ルカの腕を握る兵士の喉元から漏れ聞こえた。


 暗闇に光の矢が走る。ルカにはそう見えた。


 市長執務室から新たに二人の兵士が現れた。光が増える。ヘルメットについているサーチライトは通路の左右を警戒していた。


 通路の奥に職員たちの気配があった。彼らは夏の夜の虫のように光を求めながら、自動小銃の爆音に怯えて動けないでいる。そう思うルカ自身も身動きできずにいた。


 ルカを押さえる兵士のサーチライトが照らしたのは、穴だらけになった床だった。奇麗な穴ではない。不均一に破壊された床はささくれだっていて、解体工事現場のようだ。


 井上という兵士が自動小銃を腰の後ろに回して屈む。手袋をした手が破損した床板に差し込まれた。彼が床板を持ち上げると、合成木材のそれはメリメリと悲鳴を上げ、リノニウムのシートごとあっけなく引きはがされる。


 床下から現れたのは、黒や赤、青色といった様々な色のケーブルに絡めとられたような浜口市長の上半身だった。彼は頭を両手で覆っていた。そこに傷らしいものは見られなかったが、彼はピクリとも動かない。


「出てこい」


 井上が声をかけ、穴を広げる。


 ――メリメリ――


 めくりあがった床の下から、下半身が現れる。腰の下、コンクリートの床は血の海だった。それが赤黒く、サーチライトを反射した。


 ルカの目が見開かれた。眼球がこぼれ落ちそうなほど。脳は目を背けようとしたができない。視界を通し、徐々に現実が侵食してくる。


「ヒャー!」


 悲鳴が極度のストレスを低減する。


「肝臓をやったようだ。死んじまった……」


 井上が市長の首筋に指をあてて言った。


「バカ者が……」


 耳元でつぶやくような声がした。


「こいつは非国民です。首相だって、死体でもいいと言っていたそうじゃないですか」


 井上の反応は反抗的なものだった。


「実際に殺せとは命じられていない」


「フン……」


 彼は市長の指に小さな機械を当てて指紋から個人を特定し、死亡記録を作った。


「……ヘイ、死亡記録はOK」


 彼の声には、戸惑いも憐れみも、後悔もない。


「加賀美さんですね。不慮の事故です。忘れてください」


 ルカの腕を握っている兵士が言った。


「……事故ではありません」


 ルカは勇気を振り絞り、精一杯抵抗した。


「そこに市長がいると我々は知らなかった。加賀美さんだってそうでしょう?」


 彼の意見を認めたくなかった。それで尋ねた。


「あなたは誰です?」


「陸軍中尉、青山です。加賀美さんのことは知っています。これからは私の指示に従ってください」


 彼はヘルメットのバイザーを開けて素顔を見せた。といっても、ルカから見えるのは目の周囲だけだ。マイクを通さない声は、バリトン歌手のような響きをしていた。


 何に従えというのだろう?……彼の目をまっすぐに見ていた。誠実そうな目をしていると思った。


「市長が亡くなったので、あなたには市長代理としてTokio-Cityに来ていただくことになる」


 彼はそう言うとバイザーを元に戻した。


 代理?……意味が理解できない。市長の代理なら副市長であるべきだ。唇からは「そんな……」と空気のようにあやふやな言葉が漏れた。嫌だ、と声にならない。


「拘束具を使うかい?」


 立ち上がった井上が言った。


「まがりなりにも市長の代理だ。丁寧に扱え」


 彼は、ルカの身体を井上に渡した。


 そして井上がルカの右腕を握った。市長の血で汚れた手だ。人の呼吸と体温がその時ほど生々しく不気味に感じたことはなかった。


「中尉」


 兵士の一人が青山の耳元でささやいた。小さな声だったが、雑音が無いためにという言葉が意外と大きく漏れ聞こえた。


 青山はうなずくと一人の兵士の肩をたたいた。


「岩本、土田、井上の3名は加賀美ルカをTokioに移送しろ。他の者は俺に続け。1班の援護に向かう」


 青山の声は小さかったが、バリトン歌手のような低音は静かな室内に響いた。


 ルカが質問する間もなく、青山は非常階段を駆け下りて行った。

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