第4話

「おとうさん」


 瑠々香が二度目に声をかけたのは、1時間も歩いた時だった。足が疲れていた。眠気もある。普段なら深い夢の中を彷徨っている時刻だ。半分眠りながら歩いていた。


「着いたぞ。ここだ」


「え?」


 剛毅は一軒の建物の前で足を止めた。夢島では唯一、海に出られる北の浜に近い物置だった。夢島のトレジャーハンターたちはそこに私物を置いている。


「ウッシ……」


 剛毅は重い扉を開けると中に入り、ランプに火を入れた。屋内がぼんやりと明るくなり、ロープやうきかごもりといった道具が浮かび上がった。


「ここに隠しておいたが……」


 彼は背伸びして、天井板の裏側からいくつかのペットボトルを取り出した。


「これ、なあに?」


「ペットボトルだ。昔はこれに飲み物を入れて売っていたんだ。海に浮遊していたものを集めておいたのだ」


「へー、汚れているけど、何に使うの?」


「つないでいかだを作る」


 ペットボトルは8個ほどあった。剛毅はそれらを一本の角材の左右に、口の部分が角材に向くように並べて、ロープでつなぎ始めた。


 どうやらそれを使って海を泳いでいくつもりらしい。二人乗るには小さすぎると思うけど。……疑問はあったが、黙って父親の作業を見つめていた。浜に打ち寄せる波の音が、海の生物の誘惑に聞こえた。ともすれば眠りにおちそうだった。


 沖を光の点滅が流れていく。沿岸警備隊のドローンだ。


 あれに見つかったら。……眠気が飛んだ。


「おとうさん、大丈夫?」


 瑠々香はドローンを指差した。


「ああ、その対策も考えている」


 彼は家から持ってきた防水シートを顎で指した。


 ペットボトルをつなぎ終えた彼は、防水シートを二人の背丈に合わせて切り分けた。それの端をハンガーの山形の部分にしっかり括り付ける。


「いいか……」


 剛毅はそう言うと、作ったばかりの物の使い方を説明した。ハンガーを両手で持ち、防水シートに隠れて泳ぐのだと。


「……ドローンのセンサーは、浮遊物がゴミだと判断するだろう」


 そんなことができるかな?……説明を聞きながら、瑠々香の胸は不安でいっぱいになった。それを吹き飛ばすように、剛毅が白い歯を見せて笑った。


「行くぞ。暗いうちに海を渡ろう。きっと今なら、ばあさんが守ってくれるさ」


 彼はランプの火を消し、ペットボトルの筏と防水シートをくくりつけたハンガーを手に、波打際に向かった。瑠々香もハンガーを握って父を追った。防水シートがずるずると地面をって引っかかる。手を頭の上に掲げると防水シートはマントのようにたなびいて、擦ることがなくなった。


 海岸はごつごつした岩場だ。足をとられないように慎重に足を進め、波が瑠々香の腰をかすめるほどのところで剛毅が足を止めた。筏を浮かべると、「これに胸を当てて泳ぐのだ」と説明した。


 瑠々香は言われた通りにした。筏の端が顎にあたるところで横になると、お腹の部分までそれに乗った。体重をかけると中央の角材は少し沈んだが、ペットボトルの両端は浮き上がって身体を支えてくれた。


「オー、浮いてる。楽チンだ」


 声を上げると剛毅が笑った。しかし、防水シートを被っているために、瑠々香が父親の顔を見ることはできなかった。


「バタ足、できるな?」


 夢島にプールはなく、泳ぐのはこの浜辺でだけだった。外海のために波が荒く水泳を覚えられるような場所ではない。そんな場所でも子供たちは、上級生を真似て小魚や貝を獲るため海に潜った。飛び込んだ勢いで潜るのだ。息が苦しくなったら岸に上がる。


「ウン」


 瑠々香は応じた。すでに腰から下は水に沈み、波で上下していた。貝を求めて水中を移動するときのように左右の足を上下させると身体が進んだ。実際は、剛毅が背中を押してくれている効果だったが、瑠々香は気づかなかった。


 やがて剛毅の足が海の底に届かなくなる。そこから彼も泳ぎ始めた。トレジャーハンターだけあって泳ぎは上手い。


 2枚の防水シートの進みは遅かった。その上を、何度かドローンが横切っていった。


 瑠々香は懸命にバタ足を続けていた。とても疲れていたが、父親が筏を引っ張ってくれているので、愚痴は言わなかった。自分より父親の方が疲れているのに違いないのだから。自分はなまけても平気だが、父親はそうではない。怠けたら、海の勝手にされてしまうだろう。


 とはいえ、2時間もすると口を開かずにいられなかった。


「まだ着かないの? もうダメだ」


 つい言ってしまった。しかし、父親の応答はなかった。


 波の音で声が届かなかったのだと思ったが違った。彼の筏を引っ張る手に力がこもったのを感じた。それで安心したのか、瑠々香は寝てしまった。


 波で大きく上下するのは、泳ぐのには辛いが、身体を預けると心地よく、彼女は泥のように眠った。


 目覚めたのは、大きな波がくずれて水を被り、海水を飲んだからだった。一瞬、息がつまり、ゲホゲホと水を吐いた。驚いたのは、足に何かが触れたことだった。地面だった。


「やった!」


 喜び勇んで立ち上がろうとしたができなかった。疲れた足は棒のようになっていて、膝が曲がらない。防水シートの端から頭を出すと朝日がまぶしかった。


 背後からくる波に押されて浅瀬に進む。振り返ると、波が崩れてできる白い泡立ちが目に留まった。あそこで水を飲んだのに違いない。


 砂地を這うようにして筏が底につくところまで進んだ。目の前には砂浜が広がっている。小さなカニが穴から姿を見せていた。ハサミを振る様子は、歓迎してくれているようだ。


「おとうさん、着いたんだよね?」


 尋ねたが返事がない。防水シートを放って、上体を起こした。


 目の届く範囲に人影はなかった。遠くに島影が見えた。太陽がそこから昇っていた。


「おとうさん、どこー!」


 心細くて叫んだ。


 防水シートが波にさらわれ、沖に向かっていく。


 瑠々香の頬を涙が伝った。


「おとぅさぁーんー!」


 悲痛な叫びは、寄せては返す波にのまれた。

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