第2話
「バイバーイ」
子供たちは団地の入り口で別れ、それぞれの自宅に向かった。
瑠々香の家は、4号棟の3階だ。
「ただいまー」
「瑠々香かい、おかえり」
大きなため息とともに迎えてくれたのは、祖母の
――グゥー――
腹が鳴る。でも、お腹が空いたとは言えない。家に食べ物が少ないのは分かっている。わがままを言ったら亜季葉が困るだけだ。
2LDKの室内に、これといった家具はなかった。あるのは小さなテーブルとネットテレビ、それから父親が海で拾ってきた意味不明な機械やオブジェの数々だ。瑠々香にはガラクタにしか見えない。
壁には亡くなった母、
瑠々香はテーブルの前の床に腰を下ろした。
「どこで……」何をしていたのかと問おうとでもした祖母が目を丸くした。「……まあ、どうしたの。その傷?」
祖母がよろけるようにやって来て、傷をよく見ようと顔を寄せた。そうして衰えた視力を補おうとでもするように瑠々香の頬や額にある傷に触れた。
「イタッ!」
激痛が走った。そうして初めて、橋の上でコンクリート片を受けて傷ついたのだと気づいた。
「触ったら痛いよ。おばあちゃん」
「アッ、ごめんよ」
不安と悲しみと愛情、そして怒りが複合した熱い眼差し。祖母の灰色の瞳が刺すようだ。それは母の死の直前のものと同じに見えた。
「ごめんなさい」
「血は止っているようね。この傷はどうしたの?」
亜季葉は言いながら、タオルを濡らして瑠々香の顔を拭き、傷にヨモギの汁を塗った。自家製の薬だ。ジンジンと傷は痛んだが、瑠々香は泣かないように辛抱した。
噓はつけない。……父親なら騙せても、祖母には噓をつけないと思った。
「行ったの。……橋に……」
「エッ……」
亜季葉の瞳孔が収縮し、息をのむのが分かった。
「……どうして?」
「本土に行きたかったの。……自由になりたかったの。……それがいけないことなの?」
「まだ子供なのに……」
「大人は行けないじゃない。子供なら行けるかも……」
じわっと涙が込み上げた。
亜季葉が寂しげな眼差しを向け、ホッとため息をついた。そのため息が誰のためのものなのか、瑠々香はとても気になった。
――ググゥー――
腹が鳴ると、それに気づいた亜季葉が少し笑った。視力は落ちても地獄耳は相変わらずだ。
瑠々香は笑えなかった。むしろ、笑った祖母に怒りを覚えた。
「夕食を作るわね。いつもの芋料理だけど」
瑠々香の怒りを知ってか知らずか、祖母は離れてキッチンに入った。
「帰ったぞ」
玄関ドアが開き、父、
「どうせ、ボウズなんだろう?」
亜季葉が息子をからかった。
「悪かったな……」
彼は床に腰を落とし、ネットテレビのスイッチを入れた。そこで流れる番組は本土の人間を対象にしたものだ。夢島という自治地区の住人は対象ではない。ともすれば、いや、多くの場合、夢島の者は〝敵〟として扱われている。その敵がいかに残虐で、愚かで、貧しいか、本土の放送は報じて
剛毅や瑠々香がそれを視るのは、他に視るものがないからだ。
「剛毅、聞いとくれ……」
亜季葉の声と
橋に行ったことを、祖母が告げ口するのだと分かってその場を離れたかったが、そうしたら夕食が食べられなくなる。瑠々香は、祖母の言葉を封じるために声を上げた。
「ごめんなさい!」
「ん、どうした?」
「橋に行った」
「何だと!」
「ごめんなさい」
父親に向かって頭を下げる。
亜季葉が片膝ついて芋粥の入った椀と芋づるを油で炒ったもの、芋の葉の
「本土に行くつもりだったのよ、この子……」
その時だった。
「……ウッ」
彼女が胸を抑えた。御浸しの入った皿がトレーを滑り落ちて大きな音をたてた。
「母さん、どうした……」
「おばあちゃん……」
声をかけた時には、亜季葉の身体はゴロンと床に転がった。
瑠々香は、祖母の体重でひっくり返りそうになったテーブルを慌てて押さえた。夕食がなくなっては大変だ。
「母さん、しっかりしろ!」
声を掛けながら、剛毅はスマホで救急隊を呼んだ。それはすぐにやってきたが、亜季葉を助けることはできなかった。夢島の病院には満足な治療設備も医薬品もない。
70歳だった。本土の国民に比べれば10歳以上も若くして逝ったが、島の住民としては珍しくない年齢だった。それほど島の生活環境は厳しい。
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