フィリッポの卵

@aterui1104

第1話

    『フィリッポの卵』

           城場調布

西暦一四九三年。スペイン王国マドリードのオリエンテ宮殿で、新大陸発見を祝う式典が催された。主賓は、もちろん新大陸発見の功労者たるクリストファー・コロンブスだ。

 式典が滞りなく進み、やがてイザベル女王が退席すると、それまで会場に漂っていた硬い空気が一気に緩んだ。とりわけ、両腕が抜け落ちてしまうほどに肩から力が抜けてしまったのが、コロンブスだった。何せ、彼の席から僅か数メートルの所にイザベル女王が座っていて、時折女王が彼の方を向いては、微笑み掛けてきたりしたのだ。

 だが、女王が退席して肩から力が抜けても、コロンブスの居心地の悪さはまだ続いた。会場を埋めているのは自分などとは住む世界の異なる、着飾った貴族の男女ばかりだったのだ。自分が、舞台の上にうっかり迷い出てしまった鼠のようで、何とも落ち着かなかった。

 だが待てよ、とコロンブスは思い直した。……今日の俺様が、鼠などであるものか。主賓なのだ!  

命懸けで大海原を渡り、未知の新大陸を発見したのは、この俺様なのだ。これから、この国にぞくぞくと送り込まれて来るはずの金や銀や奴隷などの数多の財物は、すべて俺様が発見した新大陸からの物なのだ。

そう思い直せば気は幾分大きくなり、コロンブスはグラスの飲みかけのワインを、グイとやった。すると、間髪を容れずに背後からワインのボトルを持つ給仕の腕が伸びてきて、コロンブスのグラスを満たした。

これが五遍ほど繰り返されると、気分はもう大西洋の大海原だ。目の前のこいつ等が着ている、よく見りゃあ少々時代遅れの服もドレスも靴も、新大陸から到来する俺様の富で、残らず新調してくれるわい。

 と、大広間の後ろの方で、かなり酔っている風の若い貴族が立ち上がった。

「コロンブス提督閣下! 西へ西へと船を進めていけば誰でも厭でも、無人の幽霊船でも新大陸に行き着いたのではありませんか?」

 ……ふん、そんな言い掛かりなど、こちらの想定内だわい。コロンブスは、大広間を見回した。

「どなたか、ここに卵を持って来ては頂けませんかな?」

 ほどなく、コロンブスのテーブルに卵が一個、届けられた。コロンブスはそれを手に取って、そして頭上に掲げた。

「さて、皆さんの中で、この卵をテーブルの上に立てられる方は、おられますかな?」

 大広間は一瞬静まり返り、やがてざわめき始めた。

「無理だ! そんな事、出来るわけがないっ」

 大広間の、誰かが叫んだ。そうだ、そうだという声が、大広間に満ち溢れた。

 すると、コロンブスは手に持つ卵をコツ、コツとテーブルの角に打ち付けて、殻に穴を開け、そして指をそっと卵から離した。……卵は、見事にテーブルの上に立った。

「インチキだあ! それなら、誰でも出来るぞ」

 誰かがそう叫ぶと、それを聞いたコロンブスはほくそ笑んだ。……ふん、その声が出て来ん事には、俺様の話は先に進まんのだよ。

コロンブスは、大広間を見廻した。

「私がやる前には、あなた方は無理だと言った。だが私がやったのを見て、そんな事なら誰にでも出来る、と言う」

 コロンブスは、もう一度大広間を見廻した。

「誰かがやって見せた後なら、新大陸の発見も卵を立てるのも、誰にでもできる事です」

コロンブスはそう言って、今度は少々胸を反らし過ぎて、後ろにひっくり返りそうになった。だが、持ち前の船乗りのバランス感覚で、何とか上半身を引き戻した。

 と、大広間の最後列で老人が立ち上がった。

「コロンブスさん、あんたの負けじゃ」

「私の負け? 一体、何の事ですかな?」

「フィリッポ・ブルネレスキという建築家を、あなたはご存じかね?」

「いや、知りませんな」

「フィレンツェの大聖堂の、ドーム型の天井という大難題の建築に、彼は手を挙げたのだが、肝心の図面を見せようとはしなかった。私にこの仕事を任せてくれるのでなければ、私の設計図は誰にも見せない、と言ったそうだ。タネを明かせば誰にでも出来る、だが明かさなければ絶対に思い付かない、というアイデアだったのだ。そこで彼は卵の質問と実演をしてみせて、図面を見せない理由を説明したのだそうだ」

「で、私の負けというのは……?」

「これは、今から七十年も前の話だ。だからあんたの今の話は二番煎じ、という事になる」

 と、窓の外の庭で餌を啄んでいた雄鶏が、雌鶏に言った。

「暇な人間共が、こっちが先だ、いや後だなどと、下らん事で揉めておるようだぞ」

「ふん。ならば、単純で古典的な、こっちの問題の方を、先に決着させて欲しいものよねえ。卵が先か、それとも鶏が先か……」

―了―

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