ツインクル・ツインズ

秋濃美月

第1話 最初の約束



 蛇苺は蛇が食べる苺と言われているが、星宮奏咲ほしみやそなたは蛇でもないのに食べようとして、死にかかった事がある。

 蛇苺の実は真っ赤で美味しそうに見えるが、実はまずい。だが、毒がある訳ではなく、むしろ中国などでは全草が漢方の生薬として使われている。安全な植物で、刈り取られる事もなく、中国のみならずアジア全域に生息し、日本でもそこらの空き地や公園、森の中などに広く分布している。

 だから、奏咲そなたは蛇苺をたらふく食べて中毒を起こして死にかかったとか、そういう訳ではないのだ。

 どういう事かというと--話は、彼女がまだ小児喘息で寝てばかりいた、小学一年生の頃まで話をさかのぼるのだった。




「そな、それじゃ僕、学校に行ってくる」

「お兄ちゃん、早く帰って来てね」

 中学に入る直前まで、奏咲そなたは、家族には下の名前の”そな”で呼ばれていた。

 最初にそなと呼び出したのは誰なのか、はっきりしないが、双子の兄の幸人ゆきとが、一歳ぐらいから妹の名を舌っ足らずに呼んでいるのが両親にうつったのではないかと思われる。

 そなた、よりも、そなの方が発音しやすいのは確かであるし、幼い奏咲そなた本人も嫌がってはいなかった。

 奏咲そなたは、物心つく頃には、すっかり兄の幸人に懐いていた。酷い小児喘息でろくに小学校にも通えず、一緒に遊んでくれる相手が兄ぐらいしかいないようでは、それも当然だと周囲の大人は思っていた。

 また、懐いてくる妹に対して、幸人の方もこの年頃の男の子にしては珍しく、一生懸命面倒を見ようとしていたため、親たちも安心して、幸人に奏咲そなたの吸入薬の使い方を教えてたまに子守をさせていた。


「お兄ちゃん、……いいな」


 パジャマ姿のまま、とてとてと玄関まで見送りに来て、奏咲そなたは幸人の黒いランドセルを見つめた。

「……しょうがないだろ。そなの喘息がちゃんと治ったら、一緒に学校に通えるよ。だからそなは今日は寝てて、ママの言う通りにしていればいいよ」

 困惑した顔で幸人が言うと、奏咲そなたは不承不承、こっくりと頷くのだった。

 その隣にはエプロンを取る仕草をしている母親、星宮則子。当番なので、幸人を通学路まで送っていくつもりである。

 父親の鉄也は仕事に常に忙しく、今日も朝七時前に家を出ている。


「そな、ちょっとの間だけ、いいこにしてベッドにいなさい。ママ、すぐに戻ってくるからね」

 そなの額をつついて、則子が言った。

「やだ、私も行きたい」

「ダメよ、そなは昨夜も、咳が酷かったでしょう。外に出たら、排気ガスでまたゲホゲホよ」

「やだ!」

「ワガママ言わないの。……ちょっとこっちにおいで」


 幸人は奏咲そなたと則子を見比べている。

 本当だったら、幸人も奏咲そなたと一緒に小学校に行きたいのだ。クラスは別だけれど、休み時間に一緒に遊べるかもしれないから。

 則子は外したエプロンのポケットからさくらんぼつきの水色のヘアゴムを取り出すと、奏咲そなたの前髪と顔の横の髪を束ねてくるくるとゴムで結んでやった。


「ほら、見てごらんなさい」


 奏咲そなたは玄関の鏡の前で、髪を結わえた自分をキョトンと見ている。

 なんだか前より可愛くなったかも。


「お兄ちゃん、これ、似合う?」

「うん。そなは可愛いよ」

「ユキお兄ちゃんを通学路まで連れて行くから、ベッドでお利口にして待っているのよ。10時になったらおやつをあげるから」

「……はい」


 奏咲そなたはなんだかまだつまらないような気持ちもしたが、髪を結わえられた事とおやつのために我慢しようと思って、則子と幸人に手を振った。


(そなは、何で喘息なんだろう。お兄ちゃんと一緒に学校に行けたら、楽しい事がいっぱいあるんだろうな……)

 二人を見送ると、奏咲そなたはとてとてと廊下を歩き、階段を上って二階の自分の部屋に向かった。奏咲そなたと幸人は同じ部屋だ。

 埃防止のためにカーテンではなく、ブラインドが下がっているフローリングの部屋。

 夏なので、部屋の中は冷房が効いていた。奏咲そなたはひんやりした床を歩いて行って、ブラインドの紐を引っ張って上げると、窓を開けた。窓から乗り出して外を見ると、則子と幸人が手を繋いで向こうの通りに歩くのが見えた。


「お兄ちゃん!!」


 大声で呼ぶと、幸人はすぐに振り返って、妹に向かって手を振った。則子はしかめ面をしている。奏咲そなたが窓を開けたのが気に入らないのだ。でも、こうしなければ、幸人に気がついて貰えない。

 奏咲そなたは幸人を見送ると、自分のベッドへ行ってピンクのタオルケットの上に座った。

 昨夜、喘息の発作を起こしてしまったから、今日も小学校を休み。奏咲そなたの勉強は家でママが見てくれるけれど、やっぱり幸人がいないのは寂しい。幸人と一緒に学校に通いたい。幸人は今日は学校で、どんな遊びをするのだろう。


「……早く元気になりたいな」


 そう言って奏咲そなたは、窓を閉めると、窓際の空気清浄機のスイッチを押した。それから毎日のように日干しされて念入りに手入れをされている布団の上に寝転がった。

 お薬も絵本ももう飽きた。幸人のように外に出て、学校に行って元気に走り回ってみたい。




 その日、則子は田舎から届け物を受け取った。

 則子の実家の方からは、お中元やお歳暮の他に、年に何回か食べ物や衣服の便りがあるのだった。

 則子は段ボールを開けて中身の確認をしながら、ちょろちょろと動き回る喘息持ちの奏咲そなたの面倒を見なければならなかった。

 少しの刺激ですぐに発作を起こすのに、奏咲そなたは落ち着きのない子供で、六歳らしい好奇心や感情のままに動くのだ。

 則子は娘が可愛くない訳ではなかったが、たまにはちょっと子供から離れて息抜きしたいという願望を強く持っていた。


「ああ……。この荷物のお返しも買いに行かないとねえ。でもあの人は手伝ってくれそうもないし。仕事だから、仕方ないけど」


 ぶつぶつ言いながら、則子は高級茶の袋などを数えていた。それから実家にお礼の電話をして、さらにどこか親戚に電話をして。

 奏咲そなたは母親の注意が自分の方に向かっていないので、それが不満で、余計に外に行って幸人と遊びたいという気持ちを募らせた。

 それから昼時になって、則子は、野菜がたっぷりのバランスの取れた食事を奏咲そなたに取らせた。


「ママ-、プリンが食べたい!」

「ダーメ! この間、食べたでしょ!」

「ママー!」

「三時になったらヨーグルトを上げるから、今は我慢しなさい」


 奏咲そなたは少し膨れ気味になる。


(学校の給食にはプリンが出たよ。この間、行った時、出たもん……)


 だけど、何度も要求すれば怒られそうで、奏咲そなたは仕方なく箸を置いて、お膳を台所の流しの方へ持って行った。


「ママ……」


 ヨーグルトなら、みかんの入っているやつがいい。

 そう言おうと思った時、玄関のドアが開く音がした。


「ただいまー!」

「お兄ちゃん!」


 奏咲そなたはぱっと顔を輝かせると、玄関の方へ走っていった。

 まるで子犬が尻尾を振って飛びつくようにして、兄へまっしぐらに駆けていく奏咲そなたを見て、則子は苦笑する。

 奏咲そなたは、時として、則子よりも幸人の言う事の方をよく聞くのだ。


「おかえりなさい、ユキ。学校どうだった?」

「うん、今日、理科でね……宿題が」


 幸人は玄関でランドセルを降ろして、則子に貰ってきた理科のプリントを見せようとする。


「まず中に入りなさいよ。給食は残さなかったの?」

「嫌いなものは出なかったよ」

「お兄ちゃん、給食にプリン出た?」

「プリンは出なかったなあ。バナナが出た」


 幸人はランドセルを則子に渡して、靴を脱ぎながらそう答えた。則子は幸人が示したランドセルの中のプリントを見ている。


(今の小学生ってこんな問題やるのねえ)


 自分の時と随分、常識が違うらしい。


「そなは、何していた?」


 廊下に上がると、幸人はそなの頭の水色のちょんちょこりんをつつきながら言った。


「えっとね、絵本読んで、積み木して……一人で積み木、つまんない」


 奏咲そなたは順番に何か言おうとしながら、途中で大きな声を立てる。「つまんない」

 幸人もいなかったし、母は構ってくれなかったし。


「そっか。それじゃ、僕と一緒にぐりとぐらを読もう」

「うん!」


 二人は二階の部屋に一緒に登っていった。

 則子はふう、と大きなため息をついた。奏咲そなたはしばらく、幸人に任せておける。




 奏咲そなたは幸人と一ページごとにかわりばんこにぐりとぐらを声を出して読んでいた。


(そなは、ユキ以外に遊び相手がいないからな。大好きなのは当然だろう)


 前に、父親の鉄也が母親の則子にそう言っていた事を、奏咲そなたはふと思い出した。


(そうかしら? ……それだけかなあ。私も、男女の双子なんて身近にいなかったから、よく分からないけどさ。そりゃ、兄妹仲がいいのは嬉しい事なのよ。仲が悪いよりはずっと手がかからないもの。そなは、ユキの言う事ならよく聞くし、ユキは大人しくて、所謂いい子の類だからね)

(双子の手こずり具合は一人の二倍どころか、二乗だって言うしなあ。頼りにしているよ、則子)

(うーん。あなたは仕事があるもんねえ。でも、私、女の子の母親として、そなのユキへの懐き方って普通かなあって思うのよねえ)

(何がおかしいんだ? 妹が兄貴に懐いているなんて、いいことだろう。兄を嫌いとか冷たいよりも、何倍もいい)


 鉄也は男兄弟しかいないため、則子の言っている意味がピンと来なかった。それに、自分が兄と弟しかいなかったので、妹というものに憧れを抱いてもいるのだ。

 逆に、則子は弟がいるのだが、自分達はもっとドライだったと思っている。しかし、鉄也の不思議そうな表情を見て、自分の違和感は通じないだろうと妻は判断した。


(そうなんだけどさ……)


 曖昧に笑う。そのあと、則子は鉄也に「パートに出たい」といつもの話をし始めた。則子自身は、奏咲そなたの喘息さえ落ち着いたら、教育費のためにも外で働きたいらしいのだ。鉄也は分かっているよと繰り返しながら、とにかく奏咲そなたの喘息が治ってからだと言っていた。


(そなの喘息って、悪い事なんだな。早く治すように、そなも頑張らなきゃ)


 それで、奏咲そなたはそういう空気を読み取った。勿論、六歳の頭であるから、詳細まで理解出来ている訳ではない。ほとんどは、大人達の話す時の口ぶりや顔つきから情報をくみ取って頭の中で整理しているのだ。


(でも……? そながお兄ちゃんと遊ぶのはいいことならしいけど、それって何かおかしいの??)


 則子は、奏咲そなたが幸人にくっついてまわることを、喜んでいるのか困っているのか、よく分からない。

 奏咲そなたが幸人の言う事をよく聞くのはどうやらいいことであるらしいのは、分かる。だけど、なんだか則子は、奏咲そなたの事を普通ではないだと思っているような雰囲気がある。何か引っかかりを感じているような……。


(そながお兄ちゃんを好きなのは、いいことだよね? パパは喜んでいるし)


 そのとき、一緒に遊びながら、奏咲そなたは頭の片隅に「?」がずっと浮かんでいた。

 二人の部屋のドアがノックされた。


「ユキ、そな、麦茶入れてきたから飲みなさい。あと、そな。さっき、薬飲むの忘れていたでしょ。はい、これ、ちゃんと飲んでねー」


 則子が盆の上に麦茶と水のコップ、それに奏咲そなたの飲み薬を乗せて現れた。


「はい」

「はい」


 子供達は素直に、コップの方に手を伸ばす。


「ユキ、それでね、母さんこれからちょっと出かけるんだけど」

「え?」

「おばあちゃんのところから届け物が来たのよ~、それで、及川さんのところへお裾分けを届けてくるから、ユキはそなとお留守番していてくれる?」

「え……うん。いいよ……」


 そのとき、ユキの顔がわずかに曇った。


(お兄ちゃん、そなといるの、いやなの?)


 及川さんというのは、則子のいわゆるママ友であり、頻繁に交流がある。及川さんの息子の弘樹は一学年上なのだが、幸人と仲が良く、母親同士も自然と近づくようになったのだ。


「どうしたの?」

「あ、うん、宿題……」

「宿題は来週までって書いてあったじゃない。今日じゃなきゃいけないって事はないでしょう」

「うん……」


 幸人はなんだか歯切れが悪い。


「うん、分かったよ。ママ。そなのことは、僕が見ているから、ママは出かけてくればいいよ」


 結局、幸人は、母親に向かっていい子の顔をしてそう言った。


「ありがとうね~、ママ、すぐに帰ってくるからね~」


 ママ友宅で息抜きをする気である則子は、満面の笑みである。

 幸人と奏咲そなたはそれを空気で感じながらも、取り立てて不満を言う事もなく、彼女が出かけるのをそのまま見送った。


「お兄ちゃん、何して遊ぼうか」

 奏咲そなたは早速、わくわくと言う。

「うん、それじゃ、あやとりしようか?」

 手先が器用な幸人は、女の子のするような遊びでも平気でこなす事が出来た。


 奏咲そなたがあやとり紐を持ってきて、幸人の指に絡めた。

 しばらく、二人は指先を絡め合うようにして、あやとりを続けた。

 富士山、盃、七つのダイヤ……。

 様々なあやとりをしながら、奏咲そなたは夢中になっていく。

 午前中、ほとんど則子に構ってもらえなかったために、幸人と無心に遊ぶのは楽しかったのだ。

 しかし、幸人の方は、今ひとつ表情が曇っていた。

 奏咲そなたは遊べる事に夢中でそれに気がつかなかった。


「そな、次は、そうだ。僕のゲーム貸してやろうか?」


 一通り、あやとりで遊び終えると、幸人がそう言った。


「ゲーム? そなだって、DS持ってるよ??」


 今時の子供であるから、携帯ゲーム機の一つや二つは持っている。


「ゲームソフトは違うだろ。前に、僕のゲームもやりたいってそなが言っていたじゃないか」

「いいの!?」


 奏咲そなたは嬉しくて、幸人の腕に飛びついた。


「いいよ。そなが、やりたいんだろ。僕のだけど」


 それは、一週間ほど前の二人の誕生日に、鉄也が一人一個ずつ別々に買ってきたゲームだった。

 ゲーム機の本体自体は、去年のクリスマスに色違いの同じモノをプレゼントされている。

 そのときは同じレースゲームのゲームソフトを買ってきたのだが、奏咲そなたはあまり好みじゃなかったため、鉄也が思った程は喜ばなかった。

 それで、鉄也は今回は気を利かせて、店員に「男の子向け」「女の子向け」を聞き出して、幸人にはモンスターを集めるゲーム、奏咲そなたには有名な猫のキャラクターが村を作って喫茶店を開くゲームを買ってきたのである。

 本当は子供を連れて店に来て、一緒にゲームを選びたかったのだが、企業戦士で多忙な鉄也にはそういう時間が取れなかったのだ。

 今回は、奏咲そなたは大喜びした。だが、同時に、幸人のゲームにも興味を持った。


(お兄ちゃん、そなのゲーム貸してあげるから、お兄ちゃんのゲームやらせて)


 そう言ってねだったのだが、珍しく、幸人は抵抗した。


(嫌だよ。これは僕のゲームだもの。まだレベル上げの途中だし)


 それで喧嘩になったりもしたのだが、則子はかえってほっとした。出来のいい『いいお兄ちゃん』の幸人の子供らしい面が見えたと思ったのである。

 そうして頑迷にそのゲームに触らせてくれなかった幸人が、奏咲そなたに貸してくれると言ったので、奏咲そなたは一気にテンションが高くなる。


「本当に、させてくれるの」

「うん。そうだよ。今、これ……」


 幸人はソフトをさしっぱなしのゲーム機を奏咲そなたの方へと差し出した。

 奏咲そなたはゲーム機に飛びつく。

 早速、立ち上げるとジャジャーンと鳴る画面を食い入るように見つめた。


「ねえ、これ、どうやるの」

「ちょっと貸してみて、ここはね……」


 しばらく、幸人はゲームの遊び方をレクチャーしてやった。

 奏咲そなたは今時の子供であるから、すぐにゲームのシステムを理解して、せっせとモンスターを集めて自分のキャラを育て始めた。

 幸人はやはり、いいお兄ちゃんの顔をして、そんな妹を見守っている。

 ずっとやりたかったゲームに触れて、プレイをしながら、いつしか奏咲そなたは周囲の様子に気がつかなくなっていった。

 幸人は奏咲そなたの集中する様子をじっと見ていて、あるタイミングでそっと立ち上がった。


「そな、僕、トイレ」

「うん」


 奏咲そなたは上の空で返事をする。

 幸人は、ランドセルから音を立てないようにプリントと筆箱を取り出すと、静かに部屋を出て行った。

 幸人には、大事なものはそんなにない。まずは妹。次に、大事なのが、植物についての自分の世界である。




 幸人は、生まれつき、植物が好きだった。

 ひょっとしたら、人間よりも植物の方が好きかもしれない。

 幸人は人間が嫌いな訳ではない。級友もいるし、学年の違う弘樹ととどこおりなく遊ぶ事も出来る。


 だが、草花や、樹木や、なんということのない雑草の根の方が、幸人はよっぽど友達らしく感じられる事があった。そういう独特の感性の持ち主なのだが、他人は何故か、そういう幸人をすんなり受け入れる事が出来た。幸人の周囲には、不思議なことに常に穏やかで上品な空気があり、人の攻撃性をふんわりとなだめてしまうのだった。

 そういう訳で、幸人は六歳にして既に植物オタクと言っていい特異なキャラクターであり、その日の小学校の理科の宿題は、「近所の植物を十種類調べて、絵に描いて提出すること」だったのだ。


 植物オタクの幸人は俄然張り切っている。


 勿論、妹は大事である。

 だが、植物の事も大事なのだ。

 彼としては、クラスメイトの誰も知らないような凄い植物を近所から十個見つけて、完璧に調べ上げて提出したいところなのである。

 提出日まで期限があるとしても、絶対に、クラスメイトの誰にも見つけられないような植物十個にする気であるならば、既に時間は足りないと言えよう。


 妹の奏咲そなたは、さっきあやとりでたっぷり遊んでやったし、自分の一番気に入りのゲームソフトだって貸してやっているのだ。充分義理は果たしたと思っていた。

 プリントやノートや筆記用具を鞄に入れて携帯し、幸人は真っ直ぐ、近所の自然公園の方に向かって行った。

 自然公園といいつつ、あまり手入れのされていない山林である。

 だが、幸人の家の近所から子供でも勝手に入っていける位置にあった。

 幸人は近所は近所なのだから、その自然公園の中を駆け回って、見た事もない度肝を抜くような植物を探し出そうと思った。

 服も夏なのに長袖長ズボンに着替え、軍手を嵌めて完全に武装し、幸人は山の中に入っていった。

 普通の人間が見れば、なんということのない、名前も知らない樹木が生い茂っているだけのただの山だが、幸人にとっては財宝の宝庫である。彼はたちまち、妹の事など半分忘れて、目をギラギラさせながら植物を探し回ったのだった。




 一方、奏咲そなたの方は、ひとしきりレベルが上がると、手が痛くなってきた。ゲーム機は六歳児の手には結構重たい。

 ゲームで興奮したので喉も渇いてきた。

 奏咲そなたは床の上にゲーム機を置くと、盆の上の麦茶を取ってごくごくと飲んだ。

 そこではたと気がつく。


「お兄ちゃん?」


 ずっと傍にいると思っていた幸人の姿がなかった。

 奏咲そなたは目をぱちくりさせた。

 幸人がいなくなったとはすぐには分からなかったのである。

 奏咲そなたは不思議そうな表情で、まずは部屋の中を見回した。


(トイレ行ったんだっけ?)


 それからパジャマ姿のまま、一階に降りていってトイレやキッチンや、客間などを見て回った。

 しかし、幸人はいなかった。

 奏咲そなたは訳が分からなかった。

 さっきまで一緒に楽しく遊んでいたのに。


(お兄ちゃん、さっき、そなと遊ぶのいやそうだった……)


 そのことを思い出して、奏咲そなたは不安になってきた。

 トイレとリビングを行ったり来たりして、それから、奏咲そなたはリビングのテーブルに置いてあったプリントを見つけた。

 幸人の小学校のプリントだ。

 奏咲そなたは、学校には行っていないが、家でよく本を読んでいるので、漢字も既に三年生ぐらいまでなら普通に読みこなせる。

 それは、幸人が学校から親に渡すように言われた理科のプリントであった。

 小学生に近所の草花を採取させるが、親は危険なところに立ち入らないように気をつけてやって欲しいという注意喚起のプリントである。

 奏咲そなたは難しい漢字は読み飛ばしながらも、どういうことか理解してしまった。


(お兄ちゃん、そなのこと置いて、外に遊びに行った! 植物を採りに行った!)


 奏咲そなたは驚いた後、裏切られたという一瞬の怒りに突き動かされて、プリントをくしゃっと掴んだ。

 それから不安な気持ちが沸き起こり、幸人を追いかけてやるという猛烈な執着心が湧いてきた。


(そなを何で置いていくの? そなが外で遊びたいの知ってるくせに。そなだって、外に行けるもの。お兄ちゃんを追っかけていって、驚かせてやる。そなだって……)


 一緒に遊んでいたのに、突然いなくなって、勝手に一人に外に出かけられた。

 そのことが、奏咲そなたに見境をなくさせ、突発的な大きな行動力を巻き起こした。

 奏咲そなたは階段を駆け上がって二階の部屋に行くと、クローゼットを開けて、滅多に着ない表着を着た。

 しかし、奏咲そなたは普段から、外で走り回ったりするような事はないため、水色のふんわりした夏物のワンピース姿になった。

 それから玄関に駆け下りていって、あまり履き慣れないボタンのついた靴を履くと、奏咲そなたは外に飛び出て行った。


 行き先は、自然公園だと大体見当がついていた。


 奏咲そなたは、体の調子がいいときに、何度か自然公園の入り口まで幸人と歩いた事があったのだった。

 幸人は、普段はいいお兄ちゃんであるから、日頃自分が遊びに行く場所に連れて行ってやったりもしていたのである。

 だが、自然公園の中までは、病弱だし喘息持ちの奏咲そなたには入ってはいけないと言ってあった。森の中にどんな喘息のアレルゲンがあるのか分からないからだ。

 奏咲そなたはそんなことはすっかり忘れて、夢中で走って自然公園の中へと飛び込んで行った。




 自然公園の森の中は、奏咲そなたには、薄暗くて不思議な場所だった。

 初めての場所だが、恐怖心は感じなかった。幸人が日頃から通い詰めて、遊んでいる場所だと知っていたからだろう。

 幸人はこれまでにも何度か、自然公園の中で見つけた大きくて見事な花や、見た事のない草などを、奏咲そなたの前に持ってきてくれた事があったのである。

 奏咲そなたは、自然公園の奥へと向かう舗装もされていない小径を、どんどんどんどん歩いて行った。


「お兄ちゃん--」


 時々、兄の事を呼びながら。

 奏咲そなたの声を聞きつければ、幸人はすぐに飛んでくるはずだ。

 最初は、兄の事ばかり気にしていたが、やがて奏咲そなたは、日頃訪れる事のない未知の場所に対して興味が湧いてきた。

 きょろきょろと辺りを見回しながら、足取りはゆっくりになっていく。


(これ、樅……なんだよね。樅とか、杉とかばっかりってお兄ちゃん言ってた)


 他にはアカシデなどもある。丈高く生い茂った木々を見上げながら、奏咲そなたはそう思う。

 向こうにカタクリの花の群生を見つけたりしながらも、奏咲そなたは、最初はちゃんと、小径の上を歩いて行った。

 森の植物は、奏咲そなたの目には刺激に満ちていた。

 幸人が花などの一部を持ってきてくれた植物もあり、幸人から話だけ聞いていた植物もある。

 そうでなくとも、大きく聞こえる鳥の声や小動物の気配、虫の羽音など、普段、家から出る事のない奏咲そなたには珍しいものばかりだった。


「お兄ちゃん--」


 兄を呼びながらも、奏咲そなたは落ち着き無く前後左右を見渡しながら、小径を歩いて行く。


「あ、あれ」


 奏咲そなたは立ち止まった。

 茂みの向こうに、蛇苺がたわわに実っている。

 前に一度、幸人がどこからか、蛇苺をいっぱい毟って持ってきた事があった。

 食べたらそれほどおいしくはなかった。


(蛇が食べる苺だから、蛇苺って言うんだよ)


 幸人はおいしくないと言う奏咲そなたに笑いながらそう教えてくれた。

 だが、真っ赤に実っている蛇苺は、遠目から見ても立派なイチゴのようで美味そうに見えた。


(ひょっとして、もぎたてなら、甘いかも)


 まだ六歳の奏咲そなたは、そんなことを考えた。

 それで、深い考えもなしに、そのまま茂みの方にとことこと歩いて行った。

 蛇苺に釣られたのだ。

 途端に足下が滑った。


「!?」


 奏咲そなたは何があったのか、一瞬、分からなかった。

 気がついたら、奏咲そなたは斜面の上を転げ落ちて、穴の下まで落下していた。

 手足が痛いと気がついた時は、遅かった。

 こんもりした緑だった茂みの下は、想像もしなかった大きな陥没だったのだ。

 蛇苺はその向こうにあった。

 奏咲そなたが見上げると、遙か情報に茂み、その上に木々の枝と葉に覆われた青空見えた。

 奏咲そなたは慌てて、斜面に手足を突き立てて登ろうとした。しかし、爪に砂が入っただけで、努力は虚しく、奏咲そなたは斜面を登る事が出来なかった。


「お兄ちゃん!」


 奏咲そなたは叫びだした。


「お兄ちゃん! お兄ちゃん! どこ!?」


 この自然公園のどこかには、幸人は絶対いるはずだった。奏咲そなたはそう思った。

 幸人なら、自分に気がついて、絶対に穴から救い出してくれるはず。


「お兄ちゃん! ……お兄ちゃん!」


 奏咲そなたは叫び続け、やがて大きく咳き込んだ。


「ゲホッ、ゴホッ」

 咳き込みながら、奏咲そなたは気がついた。

 寒い。

 森の中は夏なのに涼しかった。

 そして奏咲そなたの四方の地面は冷たかった。

 喘息の発作につきものの気温差、寒さ。

 それが奏咲そなたを覆い尽くし、襲いかかった。

「ゲホッ……ゲホッ、お兄ちゃん! ……ゴホッ」


 大きく咳き込み、奏咲そなたは穴の中で両手を地面についた。何度も何度も激しく咳き込み、肺が潰れるような思いをした。


「お兄ちゃ……」

 最悪だ。

 奏咲そなたはそう思った。

 誰も知らないような穴に落ちて、喘息の発作。薬なんて当然持ってきていない。

 昨夜も発作を起こしたばかりだったことを、今更思い出した。

 体を何とか起こしながら、奏咲そなたは穴の上を見上げる。


(お兄ちゃん--)


 既に声は立てられなかった。咳をとどめようと必死の努力をしながら、奏咲そなたは頭が異常に熱くなってくる事に気がついていた。




 幸人は歩き慣れた小径を行ったり来たりしながら、めぼしい植物を一つ二つ見つけて、ビニール袋の中に土ごと入れて、鞄の中にしまった。

 それから、そろそろ奏咲そなたが気がつくかもしれないと思って、家の方角へと小径を急いだ。


(そな、僕が置いていった事に気がついていたら、怒るかも……ゲームに夢中になっているといいけれど)


 そのとき、幸人の視界を蛇苺が過ぎった。


(そうだ。蛇苺をお土産に持って帰れば、そなは怒っていても機嫌なおすかも)


 そう思い、幸人は、茂みの方に近づいて行って足を止めた。こういう時に慎重にならなければ怪我をすることを、経験上知っているのだ。

 幸人は、足下を確かめようと、茂みをかき分けた。

 そして絶句した。

 まず、足下には思いも寄らない大きな穴が広がっていた--そして、その真ん中に、奏咲そなたが座り込んで上を見ていた。

 激しく咳き込みながら。


「そな!?!?」


 何故に、家でゲームをしているはずの妹がここにいるのか。

 勿論、その疑問はすぐに氷解した。どう考えても、自分に置いて行かれた事に気がついて、怒って追いかけて来たのだろう。

 そしてどういう訳か穴に落っこちて、そこで喘息の発作を起こしているのだ。

 奏咲そなたはじっと自分の方を見上げている。

 何か言いたいらしいが、咳が酷くて声が出ていない。

 ゼエゼエヒュウヒュウ言っているのを見て、幸人は自分も声が出なくなって口を開けたり閉めたりした。


(落ち着け! 落ち着け--)


 幸人は深呼吸を繰り返して、穴の中の妹を見つめた。


(まずは薬だ、それを持って来なきゃ。それに、そなを助けるには、ロープがいる。僕が飛び込んで行って、背負いながら斜面を登るのは無理だ。そなを助けなきゃ--)


 幸人は、穴に向かって叫んだ。


「そな! 僕が薬を持ってくる! それまで、我慢出来るな!? いいか、余計な考えを起こすんじゃないぞ! 僕が必ず、薬を持ってきてお前を助けるから、そこでじっとして待っているんだ!」


 勿論、奏咲そなたの方だって、体を動かしたり暴れたりするどころではなかった。

 ただ、大好きな兄の方に向かって、強く頷いた。

 幸人は鞄をその場に置いて走り出した。

 運動の苦手な幸人だったが、このときばかりは鉄砲玉のような勢いで走り、家に着くとすぐに奏咲そなたの吸入薬や錠剤を準備した。

 それから納戸の中に飛び込んで、父親が若い頃キャンプの際に使っていたというロープを持ち出した。

 ほとんど息もつかずに幸人はまた玄関から飛び出すと、走りに走って奏咲そなたの落っこちている穴に向かった。

 奏咲そなたは、立っている元気もないのか、穴の中にうずくまっていた。

 自分の気配を感じると、顔を上げたが、その顔は真っ青だった。

 幸人は、一回目を閉じて深呼吸をまた繰り返す。それから目を見開き辺りを見回すと一番近くにある杉の木にロープの片方の端を巻き付けた。念を入れて、以前に父に教わった通りにふた結びでしっかり結んだ。

 それから、ロープの片方の端と薬を持って、斜面をロープに支えられながら伝い落ちて行った。

 そのとき、突き出ていた木の根が幸人の手の甲をざっくりと裂いた。だが、幸人はそんなことには構っていられなかった。


「そな。薬だ。こっち。落ち着いて」


 幸人は、奏咲そなたの口の方へと、吸入器をそっと差し出した。

 キャップを開けて奏咲そなたの口へ、薬の口を差し出す。奏咲そなたが大きく息を吐き、吸い込むタイミングでミスト状の薬をシュっと吹き込んだ。効くまでは時間があったが、幸人は適切に薬を使い、奏咲そなたの発作がおさまるのを待った。

 幸人は、則子を手伝って、何度か奏咲そなたの発作の際に薬で鎮めた事があったのだ。そのときと同じ手順を繰り返した。

 奏咲そなたは、薬を吸うと、次第に呼吸が楽になってきて、頭の熱さや痛みも解けていった。

 まだ調子が悪かったが、周囲の状況が分かる程度には、落ち着きを取り戻した。


「お兄ちゃん……」


 奏咲そなたはさすがにすまなそうに、兄の方を見た。

 そしてまた、喘息を起こしそうな表情になった。


「お兄ちゃん! 血!」


 ざっくり裂けた兄の左の手の甲を見て、奏咲そなたは叫んだ。


「こんなの平気だ。それより奏咲そなた、お前は早く穴を上がっていって、家に帰って、ママに病院に連れて行ってもらうんだ。僕の言う事をよく聞くんだ。このロープを持って」


 幸人はてきぱきと言った。


「でも--」

奏咲そなた、僕の言う事を聞いて。また発作が起こったらどうするんだ。家に戻って、病院に行くんだ」


 幸人が断固として言うと、奏咲そなたは黙って、彼の方を見て頷いた。


「さあ、こっちのロープをしっかり持って」


 幸人は、奏咲そなたの両手にロープの端を持たせた。


「ロープに掴まって、よじ登るんだ。落っこちたら、僕がすぐに受け止めてやるから。そながちゃんと登れたら、僕も登っていくよ。そな、落ち着いて、注意しながら、ゆっくりこの崖を登って。出来るね?」


 本当なら奏咲そなたを背負って登りたいところだが、男女とはいえ、六歳の双子の体格差はほとんどない。無理をして、二人して転げ落ちて地面に叩きつけられたらシャレにならない。


「うん、お兄ちゃん」


 奏咲そなたは言われた通りにロープを掴むと、靴の先を崖にめりこませ、全身の関節を使いながらよじ登り始めた。

 何度か、爪先から崖が崩れていくのを感じたが必死にへばりついた。こんなに全神経、全筋肉を使った事はなかった。

 だが、奏咲そなたはやりきった。

 喘息の発作がぶり返さなかったのは奇跡だったが、あまりにも集中していたため、起きるどころではなかったのかもしれない。

 奏咲そなたはしっかりと崖を登り、大きく肩で呼吸した。

 それから穴の中の幸人を見下ろした。


「お兄ちゃん! そな、登った! お兄ちゃんも!」


 見下ろした瞬間に、奏咲そなたは水色のワンピースがボロボロになっている事に気がついた。だがそんな事には構っていられなかった。幸人は、手に怪我をしているのだ。それなのに。

 幸人は安心したように笑うと、ロープにつかまり、今度は彼がクライミングを始めた。

 奏咲そなたは、幸人の傷ついた手が気になって仕方なかった。

 崖っぷちに張り付いて、奏咲そなたは幸人が登ってくるのを見守った。

 幸人はやはり手が痛むのか、じりじりとゆっくりと登ってきた。

 奏咲そなたは登ってくる彼に、精一杯、右手を伸ばして差し出した。

 幸人は、ためらうことなく、奏咲そなたの手をつかんだ。

 奏咲そなたは渾身の力をこめて、兄の事を引っ張り上げた。

 幸人は、彼も肩で息をしながら、登ってきて、膝を地表の地面についた。

 その左手は、血塗れだった。

 それを見て、奏咲そなたは泣き出した。


「お兄ちゃんっ……おにいちゃ……」

「ああ、うん。見た目ほど、痛くないよ。奏咲そなた、大丈夫」


 それを聞いて、立っていた奏咲そなたは、ぺったりとその場に座り込んでしまった。

 えぐえぐと泣きながら、奏咲そなたは、幸人の方を見ていた。

 幸人は困ったように笑っている。自分が、妹を置き去りにしたために、こんな事が起きたのだ。金輪際、妹をそっちのけにしたりしないと胸に誓った。この子、ほっとくと何やらかすか分からない。


「……結婚する」

「え?」

「大きくなったら、そな、おにいちゃんと結婚する」


 放っておかなくても、ちゃんと見ていても、奏咲そなたは何をやらかすか分からなかった。

 幸人は、六歳にして、妹からプロポーズを受けた。


「…………」


 幸人は冷静に考えた。

 可愛い妹の事ではあるが、妹は妹である。


「そな、知らなかったのか。日本じゃ、兄妹は結婚出来ないんだよ。だから、僕達はずっと兄妹のまんまだ」


 奏咲そなたは本当に知らなかったらしく、ぽかんとしたあと、大きく息を吐いて脱力してしまった。

 がっくりと全身の力が抜けるのを見て、幸人は思わず笑ってしまった。


「でも、大丈夫。兄妹だからこそ、ずっと一緒にいられるからね。結婚しても、離婚はあるけれど、兄妹の絆は、死ぬまで切れないんだから」


 妹を力づけるためにそう言うと、奏咲そなたはほっとしたように笑った。


「約束だよ、お兄ちゃん。ずっと一緒だからね」

「うん、約束だ」


 幸人も微笑んだ。


「さあ、家に帰ろう。病院で見てもらわないと、奏咲そなたの体が心配だ」

「うん!」


 奏咲そなたは、幸人の右手を左手で握った。

 さすがに、左手を握ったら痛いだろうと思ったのだ。

 二人はボロボロの格好で、手を繋ぎながら帰宅した。

 家に帰ると、顔面蒼白の則子が出迎えた。帰宅すると玄関の鍵が開いていて、家にいると思った六歳の双子が、吸入器ごと消えていたからだ。

 しかも、双子達は衣服をボロボロにして、幸人は手から流血しながら帰って来た。ママ友とのんびりお茶をしていた則子の心境はいかほどであろうか。




 その日はずっとバタバタしていた。

 奏咲そなたは勿論、則子にかかりつけの病院に連れて行かれたし、それとは別に、幸人も外科にかからなければならなかった。

 奏咲そなたは検査を受けたが異常はなく、薬を多めに渡され、安静にするように強く言われて帰された。

 幸人の方は、二針縫ったし、痕が残るだろうと言われた。だが、幸人本人がけろりとしたものだったので、則子はそれが救いだった。

 当然、双子は母親に受けるべき説教を受けて、その日のおやつは抜きだった。

 騒ぎを聞いた父親の鉄也が、その日は残業をかなり早めに切り上げて帰って来た。

 それから、二階の部屋に謹慎させられている双子のところへ向かい、自分の前に並べて正座させた。


「話は聞いたぞ!」


 鉄也はせいぜいしかめっ面を作って言った。


「お前達も、ママから散々叱られただろう。だから、パパは大事な事だけを言う。よく聞きなさい」


 鉄也に恐い声で言われて、双子はさすがにうなだれた。


「幸人、お前、宿題のためとはいえ、ママの言いつけを破って、奏咲そなたを置いてこっそり森に抜け出すとは何事だ。ママや妹の信頼を裏切ってまで、やりたいことだったのか?」

「ごめんなさい」

「まあ、お前も、奏咲そなたが穴に落っこちていたんだ。もう懲りただろう。今後、森に行きたい時は、ちゃんと親の許可を得てから行きなさい。それに、おかしなやり方であちこち誤魔化すんじゃない。いいね?」

「はい」


 幸人は神妙な顔をして言った。

 それから鉄也は、奏咲そなたの方へ向き直った。


奏咲そなたも、もう分かっているだろう。お前は、まだ、一人で森に行って遊べるような体じゃない。幸人に置いて行かれて悔しかったからと言って、自分の体調も考えず、親の言いつけを破って、勝手な事をするんじゃない。お前も、これから、外に出たい時は親の許可を得るんだ。それと、自分の喘息の事を甘く考えない事」

「……ごめんなさい」


 普段は自分に甘い父親に恐い顔をして言われたため、奏咲そなたはすっかりしょんぼりしてしまう。

「分かったんなら、いい。あともう一回、母さんに謝って、今日はもう寝なさい。母さんは凄く驚いたし、心配したんだからな」

「「はい」」


 双子は声をそろえてそう言って、ほとんど同時に立ち上がった。

 それから、笑顔をかわして、楽しそうに則子のいるキッチンへと向かった。

 鉄也は、何であんなに楽しそうなんだろうと、双子の事をいぶかった。

 ピンチに遭ったというのに、双子の間には、鉄也でも怪訝に思うような、今までにない親しさと信頼感があった。


(幸人は奏咲そなたを面倒なお荷物に思ったかもしれないし、奏咲そなただってお兄ちゃんに裏切られたせいで、と思わないものかな……?)


 不思議に思ったが、それでも、父にしてみれば、兄妹の仲が良いのはいいことだった。

 それに二人とも、素直に反省して謝ったし。

 キッチンの方からは、則子が、双子の謝罪を受け入れて、愚痴を言いつつも可愛がっている様子が伝わってくる。


(幸人は……それにちょっと、妙なところがある)


 普段、あまり家にいない父親だったが、鉄也は少し気がかりを覚えた。

 幸人は、大人しくていい子だ。運動神経はそんなによくはない。

 だが、何故、今回、いったん家に帰ったのに、大人を呼ばずに一人で奏咲そなたを救い出そうとしたのだろう。則子はちゃんと近所づきあいもしているのに。

 あんまり大人しくて引っ込み思案のため、大人に助けを求める事が出来なかったのか。単純に、パニックを起こして気がつかなかっただけなのか。

 結果的に、きちんと奏咲そなたを助け出せたからよかったようなものの、一歩間違えば、何が起こっていたか分からないのだ。なんだか、まるで、奏咲そなたを助けるのは自分だけでなければならないとでも言うように感じる。

 それに不思議な事に、言おうと思っていても、鉄也は幸人の前に出ると、何故かその疑問を口にすることが出来ないのだった。幸人が、穏やかな顔で自分を見つめているのを見ると、何故か逆らえないような気分にさせられるのだ。


(まあ……幸人はいい子だ。それに、奏咲そなたも。かけがえのない、子供達だ。これから大切に見守って、出来る限りの事をしよう……)


 父親として、鉄也はそう思い、それ以上、幸人を責めるような事を考えるのはやめた。




 その夜、奏咲そなたは、幸人の左手の包帯に触ってからベッドに入った。


「痕が残るんだよね」

「うん、お医者さん、そう言っていた」


 幸人は気にしていないように言った。


「……ごめんね」

「謝らなくていいよ。僕だって悪い。そなの事、置いていった」


 奏咲そなたは微かに頭を振った。

 そういう問題ではないと思う。


「そな、早く、喘息なおすね。そうしたら、森に連れて行ってね」

「パパとママがいいって言ったらね。それまでは、僕が、植物をたくさんとってきてあげるよ」


 二人はくしゃりと笑顔をかわして、それぞれのベッドに入っていった。

 奏咲そなたは、どうして兄妹は結婚出来ないのだろうと、布団の中で思った。

 きっと、様々な理由があるんだろうが--六歳児の頭には、よく分からない事だらけだった。

 だが、世の中というのは、よく分からない事が大半で回っているのだと思う。大人になったら、よく分からない事が全部消えるということは、多分ないのだと、思った。

 隣のベッドから、幸人の微かな寝息が聞こえて来た。

 それが奏咲そなたを、自然な眠りに導いていく。兄の寝息を聞きながら眠りに落ちるのは、その後、何年間も、奏咲そなたの変わらない習慣だった。

 双子はそのまま健やかに育つ。

 父と、母と、大勢の人々に見守られて。--やがてその成長の暁に、一体何が起こるのか、気がつく者はまだ誰もいなかった。

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