第162話 社畜、ようやく危機感を覚える

 食事のあとはアンリ様に一通り風呂やシャワー、それにトイレの使い方を説明した。


 彼女は俺が説明するたび驚いたり感心したりしていたが、結局それらの設備がどう動くかについては、『魔道具の一種だから』と結論付けたようだ。


 まあ、俺もウォシュレットを使用することはできても、その仕組みを完璧に解説することなんてできないからな。


 知識レベルはアンリ様とそう変わらない。


 ……あれは確か、水魔法の応用だったっけ?


 冗談はさておき、『高度に発展した科学は魔法と区別がつかない』という言葉もあるし、彼女の認識からすれば魔法と科学の区別なんて些細な問題なのかもしれない。


 俺だって、いつも利用しているスマホにも実は魔法が使われていました……と言われても不思議に思わないくらいには、この世界の科学技術は発展しているしな。


 ちなみにスマホに『鑑定』を掛けたら、単に『スマホ』と出てきた。


 魔眼先生の力をもってしても、スマホはスマホらしい。


 もっとも、我が社の本社ビルの設備の一部は魔法由来の技術が用いられているのは知っている。


 だから、おそらくこの世界でも一部の業界や界隈とはいえ魔道具の類が普及しているのは間違いないだろう。


 魔法少女の武器などはまさに魔道具の一種だろうし、別の界隈には陰陽師とかもいるらしいし。


 ニンジャは……多分いるんだろうな。いてほしい(願望



 ……なぜ俺が、アンリ様が目の前にいるにも関わらずこのような真面目(?)な考察を脳内で繰り広げているかという話だが。



「ふう……いつでも量を気にせず、どんな身分の者でも温かいお湯に入り身を清めることができるなんて……本当にこの世界は素晴らしいですね……!」



 お風呂上りのアンリ様がほこほこした表情でソファに腰掛けリラックスしている。


 今日は彼女のために、普段は使わないバスタブにお湯を張って入ってもらったのだが、大層気に入ってくれたようだ。


 ちなみに普段シャワー派の俺はクロと一緒に入りササッと身体を洗っただけだ。


 そして今は、二人と一匹でのんびりくつろいでいるのだが……



 彼女には臨時の着替えとして俺のスエットの上下を貸している。


 女もののスエットや寝間着なんぞ、ウチに準備してあるはずもないからだ。



 もちろんサイズは合っていない。


 俺は日本人の成人男子の平均身長より……平均身長くらいだが、アンリ様はそれよりずっと背が低く、華奢な体格だ。


 目測で150cmあるかないか、といったところだろうか?


 なので……要するに俺のスエット上でではブカブカなのである。


 当然、袖も丈も合っていない。


 一応下の方はゴムと紐で調整ができるので今のところズリ落ちたりはしていないが……しないことを祈る。



 何が言いたいかといえば、男物の部屋着を身につけたアンリ様の破壊力が凄い。



 今の今まで、あまりに非常事態だったせいで完全に他人事だったのだが……アンリ様は大変な美少女であらせられる。


 そして、そんな彼女の寝間着姿を目の当たりにして……彼女のあまりの可愛らしさに、俺は我に返って・・・・・しまった・・・・


 そう。


 彼女は、本日お泊りの予定なのである。


 俺の部屋に。



(これは絶対ヤバイ……)



 ここにきて、ようやく俺は危機感を覚えた。


 要するに現実に引き戻された。



 もちろん彼女とどうこうなるつもりはない。


 確かに美少女ではあるが……彼女はまだ16歳。


 俺の感覚からすれば子供の範疇だ。


 さすがにそういう・・・・目で見るつもりはないし、できない。


 だからこそ、気軽に自宅に招いてしまったわけで。



 俺の脳内は、もっと別の危機感で埋め尽くされていた。



 つまり……



 理由はどうあれ、未成年の女の子を連れ込んだ中年独身男性がどのような末路を辿るのか、である。



 浮かんできたのは――『完全なる社会的な死』の文字列。


 そいつが絶望的なほどの圧倒的リアリティをもって俺の目の前に立ちはだかっている。


 今はもう、アンリ様が死神の化身にしか見えなかった。



「…………………………」



 ヤバイヤバイヤバイヤバイ……!!


 もちろん彼女は異世界の住人である以上、そもそも法に触れるとかそれ以前の話ではあるが……


 すでに手遅れのような気もするが、とにかくどうにかしなければ!



「――ロイ様……ヒロイ様?」


「!?」



 すぐ側で声が聞こえ、心が現実に引き戻される。


 声の主は、もちろんアンリ様だ。


 気が付くと、彼女は俺のすぐ側に腰を下ろし心配そうな顔で俺を見つめていた。



「あの、大丈夫ですか? ずいぶんと顔色がすぐれないようですが……」


「ご、ご心配なく」


「そうは見えませんよ……? もしかして、お疲れでしょうか? ……あ」



 しばらく俺を見つめていたアンリ様が、何か察したような表情になった。


 彼女の眉が八の字に下がる。



「ヒロイ様は私を助け出すために……私のために、街からダンジョンまで追いかけてきてくれたうえに、魔物と激しい戦いを繰り広げたのですよね? 申し訳ありません、そこまで気が回らず……お疲れに決まっておりますよね」



 そして今度は慈しむような、それでいて妙に切なそうな表情を浮かべながら、俺の肩にそっと手を乗せてきたのだ。



「ならば、私も誠心誠意ヒロイ様を癒して差し上げなければ申し訳が立たないというものです……何を隠そう、私は治癒魔法だけでなくマッサージも得意なのです。長旅が多かったものですから、どうにか旅の疲労を取ろうとずいぶんと研究したのですよ。ですから……ふふ。今日は、お任せください」



 口を耳元に寄せ、彼女は悪戯っぽくそうささやいた。


 必然的に、彼女の身体が俺の身体に密着することになる。


 体温が、息吹が、とても近い。


 心なしか、彼女の息がいつもより荒く感じる。


 その息遣いが、さらに近づいてくる。



 あの……これ、本当にマッサージなんですよね……?


 本当にお任せして大丈夫なんですよね……?


 というか今日のアンリ様、いろいろと距離が近すぎませんかね……!?!?



 …………いやいや!


 どう考えてもこの流れはマズいだろ!


 何がどうまかり間違ってこういう流れになったのか分からないし全く心当たりがないが、とにかくマズい。


 だが……悲しいかな、これが本能とでもいうのだろうか。


 一瞬だけ我に返るも、俺の心はこのどう見てもマズい流れに逆らうことができなかった。



「…………アンリ様」



 気付けば、俺は彼女の頬に手をで触れようとしていて――



『……フスッ』



 そのときだった。



 俺の膝にトンと乗る、黒い毛玉が視界に入った。


 クロである。


 クロは不機嫌そうに鼻息を鳴らしてから、クァ……と欠伸をした。


 それからじっと俺を見つめてきた。



 そこで正気に戻った。



 壁の時計を見る。


 すでに時刻は夜中の3時を回っていた。


 正直、異世界との時差のせいかあまり眠くはないのだが……クロは別のようだ。


 よくよく見れば、俺に抗議するために必死に瞼を開こうとしているのが分かった。


 めちゃくちゃ眠そうだった。



 ……ふう。


 サンキューな、クロ。



「アンリ様、お気持ちはとてもありがたいのですが……」



 俺は、ほとんど密着状態だったアンリ様の肩をやんわりと押し返してから、彼女に視線を合わせて言った。



「こちらは今、深夜です。今のうちにひと眠りしておかなければ、日が昇ってからお辛いですよ」


「そ、そうなのですか!? 確かに夜だとは思っていたのですが……言われてみれば、とても静かですね!」



 彼女の言葉が心なしかうわずっていたのは、気のせいだろうか。


 まあ、それをあえて指摘する意味もない。



「さあ、今日はもう休みましょう。ベッドはアンリ様がお使いください」


「……分かりました」



 アンリ様はそれ以上食い下がらず、そう言って俺から離れた。


 ふう……


 クロのおかげで、俺はギリギリのところで最低な大人にならずに済んだ。


 そう思い、内心ホッと大きなため息をつく。



「……今日はいろいろなこと・・・・・・・がありました。……私も、疲れているのかもしれませんね」



 そう言いつつ、ベッドにもぐりこんだ彼女は布団から顔だけ出してこちらを見ていた。


 なぜかほっぺたを膨らませ、恨めしそうな表情だった。



 そんなにマッサージに自信があったのだろうか?


 それとも…………いや、よそう。


 俺はソファに自分用の毛布を敷くと、ベッドの方を振り返った。



「……明かりは消しても?」


「はい、お願いいたします」



 そう言うと、アンリ様は布団をすっぽりと頭からかぶってしまった。



『…………』



 そのあとに、クロが彼女の布団に潜り込んでいくのが見えた。


 どうやら今日はそちらで暖を取る心づもりのようだ。


 それを見てちょっと寂しい気持ちになったが、今日のところは彼女を任せたいと思う。



「それでは、おやすみなさい」


「はい、おやすみなさい」



 くぐもったアンリ様の声が聞こえたのを確認してから、部屋の電気を消した。



 暗闇が訪れる。


 もっとも、異世界の夜の深い闇に比べればずっと明るい闇だ。


 今夜の俺は、ちゃんと寝られるだろうか。



「…………のに」



 しばらくすると、アンリ様の布団から小さな声が聞こえてきた。


 あまりに小さな声だったので、俺の地獄耳でもほとんど聞き取ることはできなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る