第160話 社畜は地獄耳

「ここが、ニホン……ヒロイ様の世界……」



 アンリ様が周囲を見渡して、小さく呟く。


 周囲は俺にとっては見慣れた街並みだが、彼女にとっては未知の世界だ。


 ビル街。


 アスファルトの黒々とした道路。


 等間隔の枯れた並木と、白く冷たい光を放つ街灯。


 日本語や英語などの言葉で書かれた看板や標識。


 彼女はしばらく異世界の光景に見惚れていた。



「不思議な気分です。目に入るそのどれもが見たことがないものなのにあまり違和感がないのは、ここが確かに人の住む場所だからでしょうか……あの、一つ気になる点が」



 そして、はた、と気づいたように心配そうな顔になった。



「何でしょうか?」


「私はヒロイ様のように黒髪でも黒目でもありません。もし他の人に出会ったら、とても目立ってしまうのではないでしょうか?」


「それについては、まあ大丈夫ですよ」



 異世界人であるアンリ様は、お世辞にも日本人らしい風貌とは言えない。


 金髪だし、瞳の色も青い。


 だがその考えは杞憂だ。


 俺は頷いてから、続ける。



「確かに、この地に住む人々は私のように黒髪黒目の者が多いですが、他国には金色の髪を持つ人たちもおります。それらの人々もこの国に住んでいたり旅で訪れたりすることが多いですから、アンリ様が特に目立つようなことはないと思いますよ」



 それよりも、アンリ様が純粋に美少女なのが別の意味で問題といえば問題かもしれないが……


 それはまあ、人種とは関係ない話だ。



「それは安心いたしました。……そのあたりはあまり王国とも変わらないのですね」


「まあ、いろいろな国があって、さまざまな人種がいるのはこちらも同じですよ」



 さすがに、獣人はいないが。


 ……いないよな?



 まあそれは差し置いても、結局のところ、現実世界こちら異世界あちらの違いなんて言語と文化程度なのかもしれないな、などとふと思う。


 魔物とか魔法も、結局こちら側もこちら側なりに存在することが分かっているし。



 というか、アンリ様の言葉が本当ならば、昔から定期的に『こっち側』の人間が『向こう側』に誰かが召喚されていたんだよな?


 もしかして、王都とかに行けば日本人がいた痕跡があったりするのだろうか。


 もっとも異世界召喚の対象が少年少女ならば、持ち込める知識なんてそう大したものだとは思えないが。


 それに十年前の前回はまだしも、それ以前は現代日本から召喚されたとは限らないわけだし。


 五十年前か、百年前か。


 昔というのが平成や昭和の時代ならばともかく、明治初期や江戸時代、あるいはそれ以前ならば……異世界側の文明の方がずっと進んでいた可能性が高い。


 チート能力を持つサムライ……ロマンの塊ではあるが、向こうの人たちから蛮族とかバーサーカー扱いされていたかもしれないな。



「あの、ヒロイ様」



 そんなことを考えていると、クイクイと袖が引っ張られた。


 見れば、アンリ様が少し青白い顔で自分の腕を抱いていた。


 吐く息が白い。



「ニホンという国は、ずいぶん寒いのですね。かなり北の国なのでしょうか?」


「いえ、季節が冬で……と、気づかず申し訳ありません」



 ノースレーン王国は比較的温暖で、気候でいえば5月くらいだった。


 それゆえ彼女は冠頭衣のような簡素な服に薄手のローブを身にまとっている。


 どう考えても、日本の真冬の、それも深夜のシンと冷えた空気には不向きな衣服だった。



「どうぞ、これをお使いください」



 俺は荷物の中からダウンジャケットを取り出して彼女の肩に掛けた。


 異世界でもダンジョンの環境によっては必要かと思い、コンパクトに畳み込めるライトダウンを荷物に入れていたのだが、正解だったようだ。


 自分用なので彼女にはサイズが大きすぎるが、この程度の寒さなら十分しのげるはずだ。


 その証拠に彼女はダウンを羽織ったとたん、ホッと安堵したように息を吐いて……それから俺を見た。


 なぜか驚きと不安が入り混じった顔をしていた。



「驚きました……たいしてローブと変わらない厚みなのに、ほとんど寒さが気にならなくなりました。それに羽根のように軽いですし、手触りも滑らかで……おそらくは『耐寒』や『重量軽減』の魔法が付与されている魔道具とお見受けします。……そのような大変高価な服を、私などに貸し与えてしまって大丈夫なのでしょうか?」



 なんかアンリ様、ドン引きしてない?


 これは『絶対に汚してはいけない』みたいな緊張の入り混じった顔だ。


 ……ダンジョンで泥まみれになることを想定した使い捨ての装備だと伝えたら、彼女はどんな顔をするだろうか。



「いえ、これは……比較的手に入りやすい服ですし、それほど高くないですから気にしないで大丈夫ですよ」


「そ、そうなのですね……これほどの魔道具が、一般に普及しているとは……ニホンという国はとても豊かなのですね」


「そ、そうですね……」

 


 ダウンを羽織ったアンリ様の無垢な瞳に耐えられなくなり、俺は言葉を濁しつつ視線を逸らした。


 自分の国というか世界を褒められるというのは、悪い気はしないものの胸が痒くなるというか、妙な気分で反応しづらい。


 まあ、俺自身のことじゃないからな。


 魔道具のくだりは……まあ、あとでネットを検索してダウンジャケットの保温性について調べておこう。


 羽毛が断熱効果を生み出している、くらいしか分からないからな……



「それに引き換え、わが国は……魔王軍の侵攻により存亡の危機に瀕していると言うのに、貴族同士の権力争いにかまけている暇などないはずなのに……」



 ……と、急に彼女が俯きブツブツと呟き始めた。


 口の中で転がすようなとても小さな声だったが、俺の地獄耳には明瞭に聞こえてしまう。


 表情は分からないが、声色から強い怒りと悲しみが伝わってきた。



 実際、前線……ロルナさんとフィーダさんがいる砦は厳戒態勢だ。


 これから戦が始まろうとしているのに、後方で内輪もめなんかしているのを見たくもないだろう。



 ……しかもその手段が、敵対勢力(?)の聖女様の暗殺だ。


 聖女様って魔王特効のリーサルウェポンなんだよな?


 言ってはなんだがそんな貴重な戦力を自ら磨り潰すような真似をして、ノースレーン王国のお偉いさん方の頭は大丈夫なのだろうか?


 昔いた勇者様にも当時の聖女様が随行したと聞いたし、アンリ様や白銀の聖女様がいなくなっても代わりが用意できるのかもしれないが……


 異世界というか、ノースレーン王国もかなりのブラック国家のような気がしてきたぞ。


 そうであればむしろ、魔王軍の魔の手がすでに王国の中枢に及んでいて人間同士で争わされている、とかの方が救いがある……まである。



 そんなことを考えていたら、どこからともなくグウゥ……と不機嫌そうな音が聞こえてきた。



 もちろん俺じゃない。


 クロでもない。


 犯人はすぐに判明した。



「あっ……」



 アンリ様が小さく声を上げ、サッとお腹を押さえたからだ。


 ……そういえば、彼女は街を出たあときちんとした食事を摂ったのだろうか。


 それは彼女のお腹の虫が教えてくれていた。



 そして俺もまた、腹が減っていることに気づいた。


 よく考えたら、異世界では昼食の時間をかなり過ぎてしまっている。



「はは……人間、どんなに困った状況でもお腹だけは減るんですよね」


「うう……恥ずかしいです……」



 言って、アンリ様は顔を真っ赤にして俯いてしまうが、俺としてはなんとなく気持ちが楽になった気がする。


 今はとにかく、食事にしよう。



「さあ、私の家へご案内しましょう。暖かい食事をご馳走しますよ」



 ……などとカッコつけて言ったものの、長期で家を空けるつもりだったから冷蔵庫空っぽである。


 あとでコンビニに寄っていろいろ買って帰ろう……アツアツおでんとか……



「あ、ありがとうございます……」



 そんな俺の心中を知らないアンリ様は、真っ赤な顔で俯きつつ、消え入りそうな声でそう答えたのだった。

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