第155話 聖女の巡礼【side】

「存外に早く着きましたね」



 アンリは巨石群の入口に立ち、ふんす、と鼻息を吐いた。


 この『ボイラ祭祀場跡』は、これまでにも何度か訪れたことがある。


 寒空の下、夜を徹してここまでやってきたのには理由がある。



 アンリは空を見上げた。


 西の空はいまだ夜の闇が濃いが、東の空はすでに淡い紫と橙に彩られていた。


 さらに少し視線を下に向ければ、空と大地の境界から溢れた光が波打ちながら、平原を黄金色に染め上げている。



「はあ……素敵です」



 彼女は何度も深呼吸して、爽やかな風を胸いっぱいに吸い込んだ。



 アンリは思う。


 あと何度、この美しい光景を見ることができるだろうか……と。


 今のうちに目に焼き付けておかねば。



「さて、始めましょうか」



 太陽が完全に地平線から顔を出したあと、アンリは中央の巨石まで歩み寄った。


 近くの石畳の一角に、木の板が敷いてあった。


 簡素なものだが、おそらくダンジョンへの入口だろう。


 彼女はそれを踏み抜かないように巨石のすぐ側まで近づくと、跪いた。


 ここからが『巡礼』の本番だ。


 彼女は目を閉じ、静かに祈り始めた。



 神々へ捧げる言葉を口ずさんでいると、やがて身体の感覚が曖昧になってゆき――音が消えた。


 まるで自分の存在が闇に溶け出してゆくような感覚をおぼえるが、不安はない。


 アンリの『祈り』とは、ただの瞑想や内省ではない。


 この地に宿る『それら』――古の神々や精霊とされる存在に触れ、その魂と交流する代わりにその力を分け与えてもらう行為だ。


 もっともほとんどの場合、『それら』の気配はとても弱く、ただ祈るだけでは感じ取ることはできない。


 深く深く意識を大地の下へと沈み込ませ、『それら』の存在を捕まえる必要があった。


 ゆえに彼女は気づけなかった。


 二人の男がすぐ背後まで近づいていたことに。




 ◇




「はあっ、はあっ……!」



 アンリはダンジョンの狭い通路を駆け抜けてゆく。




 ――男たちの襲撃を紙一重で躱すことができたのは、決して偶然ではなかった。


 祈りの最中、急に『それら』が騒ぎ出したのだ。



 〈ねぇねぇ、来てるよ〉

 〈来てる〉

 〈怖い人〉

 〈殺されちゃうよ〉

 〈入っちゃいなよ〉

 〈君ならいいよ〉

 〈いいかも〉



 あまりの騒がしさに意識が地上へと引き戻された。


 何事かと目を開くと、男の凶刃が首元に迫っていた。



「……ひっ!?」



 小さく悲鳴を漏らしてしまったが、ギリギリで回避。


 『それら』に誘われるまま足元の板を跳ね上げ、ダンジョンに飛び込んだ。


 途中で男たちに追いつかれそうになり、そのさいに右のおさげを剣で切断されてしまったが……それでもどうにか首だけは死守することができた。



 〈こっち〉

 〈こっち〉

 〈そっちは罠〉

 〈あっちは魔物の巣〉

 〈左に曲がって〉

 〈次は右〉



「この声……?」



 アンリは首を傾げつつ、ダンジョンの通路を駆け抜けてゆく。


 祈りをやめたのに、いまだ耳元で『それら』の囁きが聞こえる。


 こんなことは初めてだった。


 そういえば、『祈り』を中断してダンジョンの中に入ったことは、これまでなかったな、とアンリは気づく。


 最初はこれが幻聴か、本当に聞こえているのかの判断がつかなかった。


 しかし、声は明らかにアンリを追手から護るようにダンジョンの奥へと誘導していた。


 もちろん彼女もダンジョンという場所の恐ろしさは知っている。



 ――棺を埋める深さよりも下は、人の世の理から外れた世界。



 修道院で学んでいた子供の頃に、教育係の修道女にさんざん言われたことだ。


 だから、巡礼の際は決して深入りしないよう気を付けていたのに。



「待てやコラ!」


「大人しく捕まれや!」



 だが、今はそんな忠告を守っている余裕はなかった。


 男たちは、いまだアンリを追い立てている。


 しかし、入り口付近で攻撃されてからは、なぜか積極的に襲ってくることはなかった。


 おそらくダンジョンに追い込んだことで退路を断つことができたと考えてたのだろう。


 あるいは、自分を追い立てることを楽しんでいるのか。



 いずれにせよ、捕まるわけにはいかなかった。


 振り返った時に見えた彼らの下卑た表情。


 追いつかれたあとにどんな恐ろしい目に遭うかは……想像するまでもない。



 もっとも、どんどんとダンジョンの奥深くまで進んでいるにもかかわらず、なぜか魔物と遭遇することはなかった。


 一方、アンリが走り去ったあとに、急に男たちの前に魔物が現れ彼らに襲いかかることが何度かあった。


 最初は偶然かと思ったが、何度も続けば『それら』の仕業であることは察せられた。


 おかげでどうにか彼らとの距離は稼げていたのだが……



「クソ、なんだコイツら!」


「雑魚が、邪魔だッ!」



 魔物の足止めは気休め程度にしかならなかった。


 男たちにとって、このダンジョンの魔物は道端の小石程度の障害にしかならないようだった。


 出現してもあっさりと蹴散らし、追いすがってくる。


 そのせいで、撒くことができない。



 気が付けば、ダンジョンの奥深くまで入り込んでいた。



「ここは……?」



 どのくらい、走っただろうか。


 通路を抜け、深い落とし穴を飛び越え、ちょっとした小部屋や大広間を抜け……急に視界が開けた。


 そこは、寺院の礼拝堂をさらに大きくしたような大広間だった。


 見事な彫刻の彫られた壁面や天井。


 奥には、地上にあったものと同じような巨石の祭壇が見える。



〈もっと進んで〉

〈早く〉

〈あれは僕らじゃないから〉

〈祭壇の裏〉

〈早く〉

〈早く〉

〈隠れたら祈って〉

〈それで見つからないから〉



「祭壇の裏……?」



 広間に入ったとたん、『それら』の声が騒がしくなった。


 とにかく、祭壇に近づいてみる。


 裏側に回り込むと、拳大の石が積み上げらえているのに気づいた。


 よく見れば、それらは小さな石像のようだ。


 古の神々か精霊を模したものだろうか。


 そのうち半分は欠けたり壊れたりしていたが、まだ無事なものもあった。


 それらを眺めていると、なぜかふるくから知っているような、奇妙な感覚をおぼえた。


 とにかく、祈らなくては、と思った。



「…………」



 アンリは跪き、目を閉じた。


 いつものように周囲から音が消える、その直前。


 ズズンと地面を揺るがす大きな音が響き、同時に男たちのものと思しき絶叫が上がったが……


 すぐに『それら』の囁き声が彼女の周囲を満たし、外界の音は気にならなくなった。

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