第122話 社畜、激怒する

「ありがとうございました~」



 会計を済ませ、店を出る。


 課長イチオシの南欧風レストランはなかなかのものだった。



 特に海鮮パエリアとアサリの白ワイン蒸しは食べた瞬間、桐井課長と一緒に地中海に意識が飛んで行ったくらいだ。


 完全に白い断崖とか青い海とかが見えた。


 今でも外の肌を刺す寒さも気にならないほどには、まだ余韻が残っている。



「ふぁぁ……口コミどおり、完全に大当たりのお店でしたね」



 美味しい料理で満腹になったからか、桐井課長はうっとりとした様子だ。


 ちょっぴりだがワインを頼んだのもあるかもしれない。


 さすがに先週のこともあり、泥酔するほどは飲んでいなかったが。


 まあ、乾杯には必要だからな。お酒。



「課長、今日はごちそうさまでした。お店を選ぶセンス、さすがでしたね」


「うふふ、そうでしょうそうでしょう! 私も上司ですから、どんどん頼っていいんですよ!」



 俺の言葉を受けて、胸を張りドヤ顔で何度も頷く課長殿。


 先週のお礼である以上「俺が払います」と切り出すのは野暮なので、ありがたくご馳走になったのだが……



 ……なんだろう、このヒモになった気分は。



 まあそう思ってしまう時点で、俺はそっちの才能が欠片もないのだろうが。



「さて、帰りましょうか」


「ですね」



 店の前でたむろするのは迷惑なので、駅に向かって歩き出す。


 夜になって外はかなり冷え込んでいる。


 けれども俺の隣を歩く課長の幸そうな笑顔を見ているせいか、なんだか俺の胸の奥も温かいままだ。



 ……『彼女』がいる生活ってこういう感じなのだろうか。


 ……などと夢想してしまう。



 もちろん桐井課長が俺のことを部下として見ているのは分かっているし、別に今後どうこう……という話ではないのだが。



「……それにしても、廣井さんは不思議な人ですよね」



 駅に向かう途中の路地に入ったあたりで、桐井課長がそんなことを言ってきた。



「不思議……ですか?」


「もちろん、変な意味じゃないですよ!」



 慌てて桐井課長が両手を振ってフォローする。


 もちろん俺も彼女が変な意味で言っているわけではないことくらい分かっている。



「今だから言えるんですが……なんていうか、最初はちょっと頼りなさそうな人だなぁ、って思ってたんですよ。もちろん廣井さんの経歴は社長から話は聞いてましたけど、見た目からはまったく想像できなくて」


「はは……割とよく言われます」



 実際、想像できなくて当然ではあるわけで。


 『魔眼』がなければ、ただの冴えない見た目のおっさんだし。


 接待とかで着ていた一張羅、去年のうちに新調しておいてよかった……


 でも、と桐井課長が続ける。



「私はちゃんと見てましたからね? オフィスでの仕事ぶりや魔法少女の皆さんへの指導ぶり、それに……妖魔にもまったく動じないところとか。ちょっと……じゃなく、この人は普通じゃないんだって思いました。……もちろんいい意味で、ですよ!? あれっ、私何を言ってるんだろう……」



 と、自分の言っていることがよく分からなくなったのか、彼女は妙に顔を赤らめ、わたわたと手を振る。


 うーむ、やはりこの人、小動物みたいで可愛い。上司だけど。


 つーか絶対酔ってるだろ、このテンション。



「…………ふふ」



 などと思っていたら。


 なぜか桐井課長がその先を続けず、微笑みながら、ただ俺を見ている。


 その様子は、まるで――



 俺もそんな彼女の様子に言葉を続けることができず、妙な沈黙が流れてしまう。



 とはいえ、気まずさはない。


 なんとなくフワフワした……妙に落ち着かない感覚。


 なんだろう。


 今、俺……ラブコメしてる?




 なんて浮かれていたせいか。



 路地の向こう側から近づいてくる二人組の男に気づくのが遅れてしまった。



「いてえええええぇーーーッ!?!?」



 桐井課長の横を、二人組が通り過ぎようとして……そいつらのうちの一人が派手にすっ転んだ。


 ……どちらも二十代半ばくらいの男性だ。


 見た目は、チャラ男……なんかじゃない。


 首元には、びっしりとタトゥーが彫られていた。


 完全にチンピラとか輩の類だ。


 ……まずいな。


 そう思った途端、転んだ男が叫び声を上げた。



「ぎゃあああぁぁ、腕がおれちまったああああああ(棒」


「おいてめぇ! ツレに何しやがんだコラァ!」


「えっ……!? ええーーっ!?」



 わざとらしくのたうち回る男を指さし、無事だった方が桐井課長に怒号を浴びせている。


 当然いきなりのことに、彼女はなんのことか分からずフリーズしてしまった。



 ……誓って言うが、彼女は男たちに一瞬たりとも触れていない。


 気付くのが遅れはしたが、連中がすれ違う瞬間を俺の『魔眼』が視界に捉えていたから分かる。


 自分からすっ転んだのだ、ヤツは。



「えっ……じゃねえよ! あーあ、コイツ腕が折れちまってるわ……え? どうすんの? どう責任取るのお前?」


「あの……?」



 顔を近づけ一気にまくしたててくる男に、困惑する桐井課長。


 怖がっているそぶりは見えないが、予想外の出来事すぎて頭の処理が追いつかないように見えた。



 一方、俺はというと。


 不思議なほどに冷静だった。


 さきほどの浮かれた気分がさっぱりと消え失せている。



 たぶん、連中の目的がうっすらとだが透けて見えたからだろう。


 ようするにカツアゲだ。



「おい聞いてんのか! てめぇ、そこのおっさんもだよォ! 治療費出せよ。持ってんだろ、金!」



 未だ下手な演技でのたうち回る男を指さしながら、桐井課長に絡んでいた男が今度は俺に食って掛かってきた。


 グイ、と胸倉をつかんでくる。



「……ちょっと貴方、やめなさい!」


「あぁ、俺は大丈夫なんで……桐井課長は早く逃げてください」



 俺はともかく、桐井課長は本社ビル内でなければただの一般人だ。


 普通の女性よりは動けるだろうが、それでも男二人がかりはキツいだろう。


 だが彼女は臆することも逃げ出すこともなく、毅然とした表情で素早くスマホを取り出した。



「部下を置いて逃げる? そんなことできるわけがないでしょう! もしもし警察ですか!? 今、暴漢に襲われて――きゃっ!?」


「何してんだアマ! こっちは被害者だぞ、サツなんざ呼んでんじゃねえぞ!」



 さすがに警察を呼ばれるのはマズいと思ったのか、倒れていた方が起き上がると、桐井課長のスマホを奪おうと掴みかかった。



「お前ら、いい加減に――」


「おいおい待てよおっさん。これ何かわかる?」



 さすがにマズいと思い課長を助けに行こうとしたとき……ピタピタと頬に冷たいものが当たる感触があった。


 見れば、俺の胸倉を掴む方と反対の手に、刃渡り10センチくらいのナイフを持っているのが見えた。



 ……マジかよ。


 さすがにそれはシャレになってないぞ。


 そういえば先週観たローカルニュースで、市内で強盗事件が発生したとか言ってたけど……犯人捕まってなかったよな。



「おっさん、先週のニュース観た? 俺さ、もう一人ヤっちゃってんだよ。だからよ、もう一人や二人ぐれーどうでもいいんだよ。……オラ早く金だせよ! あ、そっちの女はさらってくから」


「…………あ?」



 ――もうちょっと穏便に事を収めたかったのは事実だ。


 せっかくの桐井課長との食事だったし、どうせスキルで強化された身体だ。


 だから俺が謝って済むなら……ちょっとくらい金を出して、一発か二発くらい殴られて、それで連中の気が済むならば構わないと思っていた。



 だが。


 桐井課長を……どうするって?



 ぱちん。



 頭の中で、何かが外れる音がした。



「そうか。じゃあ遠慮はいらないな」



 自分でも驚くほど、穏やかな声が出た。


 それから俺は男のナイフを持った方の手首を掴み――



 それを握りつぶした。



 まるで熟したトマトみたいな感触だった。


 カラン、とナイフが地面に落ちる音がした。



「…………え?」



 何が起きたのか、男は分かっていないようだ。


 キョトンとした様子で、男が自分の手を見る。



「…………え? なんで? どうして、俺の手、ゆれ、て……」



 俺の胸倉を掴んだまま、ポカンと口を開ける男の目の前で。


 ありえない方向に折れ曲がったそいつの手が、まるで熟しすぎて腐り落ちる寸前のリンゴのようにプラプラと揺れている。


 数秒ののち。


 男の顔が恐怖と苦痛に歪み、ぶわっと脂汗がにじみ出た。



「ぎッ――、ぎゃあああああぁぁぁぁ!?!? お、俺の手がああぁぁーーッッ!?!?」



 絶叫が、暗い路地に響き渡った。

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