第108話 社畜、動きだす

 土曜。


 朝寝覚めると、すでに午前9時を回っていた。



「ふぁ……寝坊したな」



 ぼんやりした頭のまま身体を起こし、欠伸をひとつ。


 ふと布団をめくってみると、クロはまだスヤスヤ寝息を立てていた。



「……起きるか」



 とりあえずベッドから這い出て、朝食の準備を始める。


 それにしても、以前とくらべ最近は休日は寝起きが悪くなったというか、ぐっすり眠れるようになった気がする。


 前職場にいたころは、どんなに寝不足でも休日でも、なぜか朝早くに目覚めてしまっていたからな。


 今考えると、あれは神経が尖り過ぎてリラックスできていなかったからだったように思える。



「…………フスッ」



 食事の支度をしていると、背後からクロの不満げな鼻息が聞こえた。


 布団を剥がれたままだったのが寒かったらしい。


 とはいえクロも目が覚めたようで、キッチンに立つ俺の足元にちょこんと座り込んだ。


 じっとこちらを見上げるその目は、どう考えても朝食を催促している。



「おいクロ、危ないからもうちょっと離れてくれよ」


「…………」



 だがクロは「平気だ」とばかりに足元から離れない。


 寝坊したのもあって、腹が減っているのだろう。


 まあ、俺もだ。


 手早く料理をしていく。



「よし、できた」



 今日の朝食は、トーストと目玉焼き、それにカリカリに焼いたベーコン、レタスのサラダにインスタントのコーンスープ。


 何の変哲もない朝食ではあるが、これこそが朝食の王道。


 昨日炊いたご飯が残っているので和食でもよかったのだが、今日の気分は洋食だった。


 ちなみに平日はシリアルに牛乳をかけて流し込むだけなので、この丁寧なライフスタイルは休日限定である。



「おっと、お前にもちゃんと準備してあるからな」



 クロは塩気の強いベーコンを抜く代わりに卵を三つ使った特大目玉焼きを作ってやった。


 正直、人間に変化できることを考えると食事はそれほど俺と変わらなくても大丈夫な気がするが……クロからも特に不満がないのでこのままにしている。


 まあコイツも魔物といえば魔物だし、しょっぱくても辛くてもタマネギでもニンニクでも余裕で食べられる気がするが……わざわざ与える必要はないだろう。



「ふう……ご馳走様」



 朝食を食べ終われば、休日は異世界に入り浸ると決めている。


 すぐにクローゼットから装備品を取り出してクロと一緒に家を出る。



「転移魔法陣、家とつなげられたら便利なんだけどなぁ」



 外から自宅のアパートを振り返り、独りつ。


 とはいえ、さすがに現実世界と異世界をつなぐ転移魔法陣の敷設にはいろいろとリスクが付きまとうからな。


 そもそも賃貸アパートだと魔法陣の痕が残りそうでハードルが高い。



「やっぱり戸建てが欲しいな……」



 切実にそう思う。


 色々な都合を考えれば『ポツンと一軒家』みたいな立地が望ましいのだが、さすがに通勤圏内にそんな辺鄙な場所はない。


 とはいえ、移籍後の給与額ならば少し貯金すれば中古戸建ならどうにか手が届きそうでもある。


 どこか、探してみるか。




 ◇




「さて……気合入れていきますか」



 今日の異世界訪問は、『塔ダンジョン』だ。


 ダンジョン外周路に空いた明り取り用の小さな窓の向こう側は闇に覆われている。


 時差的に、宵の口だろうか。



「さて、まずは……と」



 外周路から塔の内側に入り込む。


 だだっ広い円柱状の内部は、静けさに包まれていた。



「……『鷲蝙蝠イーグル・バット』は昼行性なのかな」



 階層の天井には、百匹近いイーグル・バットがぶら下がっている。


 しかし、俺たちに向かってくる個体はいなかった。


 というか、こちらに気づいた様子はない。


 動きも鈍いし、寝ているように見える。


 いずれにせよ隙だらけである。



 このチャンスを生かして連中を殲滅することも可能ではあるが、今日はあいつらを退治するつもりはない。



「クロ、いざという時は頼むぞ」


「……フスッ」



 クロはすでに巨狼の姿に変じている。


 了解の鼻息にちょっぴり「やれやれ」みたいなニュアンスを感じたが、一応付き合いはしてくれるらしい。


 人化して文句を言ってきたりもしないし。



 というわけで今日のミッション「『深淵の澱』威力偵察」のスタートである。


 今回の『塔ダンジョン』来訪は、深淵魔法『奈落』が『深淵の澱』にどの程度有効なのかを試すのが目的だ。



「…………」


「…………」



 階段を静かに下り、漆黒の沼地が見える場所までやってきた。


 沼地の正体である『深淵の澱』は、凪いだ海のように穏やかである。



 もしかしたら、コイツにも活動時間というのがあるのだろうか?


 いずれにせよ、これはチャンスだ。



「…………」



 静かに『奈落』を準備状態にする。


 座標と攻撃範囲を慎重に定める。


 今回は即時撤退を念頭に、水面からひとまず水深30センチほど、1メートル四方の範囲を削り取ることにした。


 以前確認した水面の波立ち具合からして、少なくとも数十センチ以上の水深があると判断したためだ。


 一番怖いのは、水底……つまりダンジョンの床ごと削り取って『深淵の澱』が下の階層に漏出してしまうことだからな。



「よし……いくぞ」



 いったん深呼吸。


 それから『奈落』を黒い水面に向かって発動させた。



 ――ばくん。



 鈍く湿った音とともに、想定通りの黒い孔が穿たれた。

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