第86話 社畜、羨む

 翌日。


 職場には遅刻することなく出勤することができた。


 もっとも、まだ元の会社があった駅で降りようとしてしまうので気が抜けない。


 それと……朝早く出勤しなくてよくなったものの今度は通勤ラッシュに巻き込まれるようになったのが、目下の悩みである。



「おはようございます、桐井課長……お早いですね」


「あ、おはようございます」



 オフィスに入ると、課長殿はすでに出勤されていた。


 まずい、もっと早く出てくればよかったか……と焦ったが、すぐに彼女が苦笑しているのに気づく。



「あ、気にしないでくださいね。今日はどうしても定時に帰らなくてはならなくて、30分ほど早出にしておいたんですよ。……今夜は昔の仲間と飲み会なので」



 ウフフ、と笑みを浮かべる桐井課長。


 その様子を見ていると、なんだかこちらまでホッコリしてくる。


 背景にお花とかがフワフワ浮かんでそうな空気感だ。



 ……それだけに、昨日の塔ダンジョンでの出来事を話せずにいることがとても悩ましい。



 とはいえ、妖魔消滅の報告をすると『魔眼』や『扉』の説明もセットになるからな……さすがにどちらも、今は誰かに話すつもりはない。


 最低でもソティの素性くらいは確認してからでないと、どう転ぶか分からないからな。


 まあ、考えても仕方ないことはひとまず置いておこう。



 今はそれより桐井課長の交友関係だ。


 気にならないかと言えば……まあ、気になる。



 そんなわけで、俺は自分の席で仕事の準備をしつつ彼女に応じる。



「昔の仲間……いいですね。学生時代のご友人ですか?」


「はい。皆、中学生の頃からの親友で、当時一緒に組んでいた魔法少女の子たちです。もう、十年以上の付き合いになりますねぇ」



 桐井課長はいろいろと思い出したのか、懐かしそうな様子で窓の外を眺めている。


 十年以上、が十年なのか二十年なのかは分からないが、当時の付き合いが社会に出てもずっと続いているのは純粋に羨ましい。



 俺なんか、中学の同窓会に呼ばれたこと一度もないからな?



 そう、きっかけは中二の春。


 俺は当時流行っていたマンガのキャラがカッコイイと思い、彼と同じように怪我もしていないのに片腕に包帯を巻いて通学し、生活指導の先生に見つかり担任に報告されたあげくお調子者の矢田の野郎に見つかりクラスのさらし者に――



 ――いや、よそう。


 思い出すと『深淵の澱』に逆探知されたときよりも心臓がキュッてなるし。



「廣井さん? 顔色が悪いですけど大丈夫ですか?」


「だ、大丈夫です気にしないでください……」



 過去のトラウマのせいで桐井課長に心配されてしまった。




 その後は課長と仕事の内容について打ち合わせをしたり事務作業をこなしているうちにあっという間に終業時間になった。


 余談だが、打ち合わせの際に昨日の加東さんの戦闘指導については大層なお褒めの言葉を頂戴した。


 前の職場では上司に褒められた記憶がほぼ皆無だったので、ちょっとグッときてしまったのは内緒である。



「うーん……さて、そろそろ私は上がりますね」



 時計の針が定時を差した瞬間、課長が伸びをして、席を立った。



「あ、お疲れ様です」


「廣井さんはまだかかりそうですか?」


「もうあと十分くらいで片付くと思います。課長はどうぞ先に上がってください」



 今日は特に何事もなく過ぎたので、俺もあと少しで片付きそうだ。


 定時近くに上がるのはこれが初めてかもしれない。


 とはいえ、ウキウキ状態の課長殿を待たせるつもりはない。



「そういえば、オフィスの閉め方はお伝えしていましたっけ?」


「ええと……それは大丈夫です」



 確かマニュアルの最後の方に書いてあったから把握済みだ。


 もっとも、空調のスイッチだとかPCの電源を落としておくだとか、最後にセキュリティをONにしておくとか、ごく一般的なことだったけども。


 と、そういえば、確認しておくことがあった。



「そういえば、『遮音結界』はどうすればいいですか?」



 これはマニュアルに載っていなかったからな。



「ああ、『結界』については気にしないで大丈夫です。私が帰ったら自動的に消滅するので」


「そうなんですか?」


「そもそもこのフロア自体のセキュリティがかなり厳重ですからね。結界は、私が静かに仕事をしたいから張っているだけなんですよ」



 言って、桐井課長が金属製のキーホルダーをデスクの引き出しから取り出し、見せてくれた。


 キーの表面には、例によって魔法陣が刻まれている。



「おお、すごいですね」



 オフィスに張られた『遮音結界』は『別室』の業務上必要な措置だと思っていたが、どうやら個人的な理由だったらしい。


 まあ、元魔法少女らしいといえばそうなのだが。


 なるほど。


 オフィス内にマスコットが見当たらないにも関わらず『遮音結界』が展開されていたのは、こういうカラクリだったというわけか。



「これ、『別室』のメンバーは希望すれば社長からもらえるんですよ? もちろん魔力がある人限定ですが、廣井さんなら問題なく使えるはずです。……私から申請しておきましょうか?」


「いえ! 今のところは大丈夫です」



 社長からもらえるってことは、ソティが作ったアイテムってことだよな?


 さすがにそれは遠慮したいところだ。


 それにこのオフィスは遮音結界がなくてもそれなりに静かだし、俺としては特に必要性を感じていない。


 そもそも『遮音結界』は、俺のスキルで取得可能だ。

 

 わざわざ社長殿ソティのヤツに作ってもらう必要はない。



「そうですか? 必要だったら言ってくださいね」


「ええ、その時はぜひ」



 その時は来ないと思うが、こういうのは社交辞令だ。




 そんなこんなで何事もなく平日が過ぎてゆき……あっというまに週末がやってきた。


 つまり、異世界へと向かう日である。

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