第84話 社畜と漆黒の沼

 巨大な蝙蝠の魔物『鷲蝙蝠イーグル・バット』を倒した俺たちは、塔の階段をくだることにした。



「うお……深淵って感じだな」



 階段の手すりから下を眺めるが、底は暗くてまったく見えない。


 そもそもこの塔の内部の照明が階段に沿って設置された篝火だけなので、それほど視界良好とは言えない。



 とはいえ、この距離で篝火が焚かれているにも関わらず塔の底部が見えないのは妙ではある。


 まるで闇に吸い込まれるように、下に行くにつれ篝火の明かりが徐々に薄れていくのだ。


 まさかとは思うが、これがこの塔のギミックというか罠のような要素なのだろうか。



「……クロ、注意していこう」



 言って身体を撫でたあと、階段を降っていく。


 さすがにクロも警戒しているのか、鼻を鳴らすこともなく素直に俺の後をついてきた。



 実際、下に向かうにつれ明らかに視界が悪くなってきた。


 壁の篝火の勢いはそのままなのに、照らす範囲が妙に狭くなってきているのだ。


 しかも上を見ると、今度は上に続く篝火が遠くになるにつれ徐々に見えなくなっていた。



 さらに奇妙なことに、すぐ後ろをついてきているはずのクロの気配が、あるときを境にいきなり感じられなくなったのだ。


 まさかはぐれたのかと心配になって振り返ると、ちゃんとすぐ後ろをついてきている。


 クロもこの状況に違和感を覚えているようで、怪訝そうな視線を俺に送ってきていた。



「なあ、これは魔術結界の一種かな?」


「…………」



 クロは首をかしげただけだ。


 一応、こちらの言うことは聞こえているようだ。


 ただ、クロも少々神経をとがらせているような雰囲気を感じられる。


 コイツがここまで警戒しているのを見るのは初めてだ。


 これはかなり用心が必要かもしれないな。



 いずれにせよ、妖魔の本体が潜んでいるとすればこの下だろう。



「とにかく、先に進んでみよう」



 いつ魔物が襲ってきてもいいように、今まで以上に周囲を警戒しつつ階段を降っていく。


 もっとも百段ほど降ったところで、俺たちは行き止まりに突き当たってしまったのだが。


 より正確に言えば――


 下へと続く階段が、とぷんとぷんと波打つ真っ黒なタールのような液体に没していた。



「なんだこれ……ヘドロか?」



 これでは先に進むことができない。


 もちろん近くに外に出る扉などはない。



「参ったな。引き返すか……うん?」



 と、そこで気づいた。


 俺たちがいる場所から数十メートル先、タールの沼の中央に『何か』が立っている。


 真っ黒で、人のような形状の『何か』だ。


 そいつは、じっとこちらを観察するようなそぶりをしたあと、こちらに手を伸ばして――



「ガゥッ!!」


「なっ!?」



 背後で鋭い唸り声が聞こえた。


 いきなりグイと首根っこを凄い力で引っ張られる。


 何が起きたのか分からなないまま、気づけば宙を舞っていた。



「クロ!?」



 犯人はもちろんクロだ。


 先ほどまでいたタール沼のほとりがぐんぐんと遠ざかっていく。



 一体何のつもりで……と思った、その直後だった。



 タール沼から生えた触手のような物体が何本も押し寄せ、さっきまで俺たちのいた場所を覆い尽くしたのは。


 さらにその場所を呑み込んだタール状の触手がちぎれ、次々と犬の姿に変化して、遠ざかる俺たちを恨めしそうに睨みつけている。



 あれは……『黒狗クロイヌ』?


 だが細部が微妙に違う。


 というか、他の動物の特徴も混ざっている気がする。


 以前倒したヤツらは蝙蝠の羽なんて生えてなかったし、あんなやたら頭部が肥大した冒涜的な姿形ではなかったからだ。

 


「な、なんだあれ!?」



 魔物には違いない。


 だが、明らかに目当ての妖魔とは違う存在だった。


 いや、もっとヤバイやつ。


 それが直感で分かった。


 おそらくクロはいち早くそれを察知して、アイツの攻撃範囲から離脱したのだ。



 だが、クソ……さすがにこれだけ距離が離れていると『鑑定』が機能しない。



「ガウウッ!」



 俺の襟首を咥えたまま、クロがすごい勢いで階段を駆け上っていく。


 あっという間にもと来た扉の前まで戻ってから、ようやくクロは俺の襟首を放してくれた。



 それからクロは光に包まれ――いつか見た、妖艶な女性の姿に変化したのだ。


 だがその表情は、今まで見たことないほどに険しいものだった。



「おい、どうしたんだ。……ものすごい顔だぞ」


「主よ。この塔は危険すぎる。早く出るぞ」


「ちょっ、クロ!?」



 人の姿をとったままのクロがそう言って、俺の手首を掴んだ。


 それからグイグイと引っ張り、塔の外周通路へつながる扉を自ら開き、俺を連れ出したのだ。



「……ここまで出れば、アレも追っては来まい。思えばあのもやはヤツの『封印結界』だったというわけか。おかげで命拾いしたぞ」



 ふう、と安心したように大きく息を吐くクロ。



「どういうことだよ、クロ。なんだよアイツは。説明してくれ。この状況でお前が人化したってことは、言葉で伝えなければならないことがあるってことだろ」


「主よ、まさにその通りだ」



 我が意を得たり、といった様子でクロが頷く。



「……アレの名は『深淵の澱』と言う」


「深淵の……オリ?」



 なんか聞いたことがある名だと思ったら、そういえばクロとの主従契約を結ぶときに契約文言に出てきたヤツだ。



「うむ」



 クロは頷いてから、先を続けた。



「まず警告しておく。主よ、決してアレに近づいてはならぬ。ひとたび触れられてしまえば、あっというまに身体も精神も侵食され、永劫の時をアレに使役されるだけの存在と化すだろう」



 何それ怖い。


 ていうか触れただけで自由を奪われ、アイツが滅びるまで死ぬこともできず奴隷として搾取され続けるだけの人生を送ることになる……ってコト!?


 そりゃ反社扱いもやむなし、といった危険な魔物である。



 とはいえ、その『深淵の澱』とかいう魔物(?)はこのダンジョンに封印されている状態らしい。


 どうやらクロの話から察するに、あの気配が曖昧になる黒いモヤは魔物が外界の刺激を知覚することを防ぐための結界というか緩衝材のようなシロモノだったようだ。


 塔と靄の二重結界というわけである。



 と、そこで気づいた。



「そういえばさっき、『黒狗』っぽい形状になっていたけど、あれって……」


「おそらく主らが探し求めている『本体』とやらはアレに取り込まれたのだろう」


「そっか……」



 妖魔本体、哀れなり。


 まあ同情する義理なんてないけども。



 ただ、そうなると気になるのは。



「で、クロ」


「なんだ主よ」


「あいつって倒せるものなのか?」

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