第23話 従魔は退屈だった【side】
『…………』
魔狼――今はクロと呼ばれている――は、ベッドの上でふと顔を上げた。
主が「しごと」とやらに出かけてから、すでに結構な時間が経っている。
ベッドから降り、主が準備してくれていた水を少し飲む。
それから窓の外を見た。
すでに空は赤らんでいた。
『…………』
クロは腹が減っていた。
そして退屈だった。
もちろん食事については、主が帰宅するまでは我慢するつもりだ。
主と一緒に食べる食事ほど幸せなものはないからだ。
けれども、退屈についてはどうしようもなかった。
主が『退屈しないように』と起動したままにしてくれている『てれび』とかいう魔道具も、もう見飽きてしまった。
おかげで『こちら側』の情勢や言語体系が少しだけ理解できたのは僥倖だったが。
『…………』
クロは考える。
『こちら側』は信じられないほど平和だ。
夜道を歩いていても盗賊に襲われることもないどころか、女性が武装もせず護衛もつけずに出歩いているのを見た。
ときおり魔物のものと思われるマナの残滓を嗅ぎ取ることはあったが、それもどういうわけかすぐに消えてしまうことが多かった。
もちろん戦乱の気配は欠片も見当たらない。
『あちら側』では、『神域』の奥で暮らしていたにも関わらず……戦乱には抗えなかった。
クロはそのときのことを思い出す。
神域が炎に包まれた、あの日のことを。
いつものように『神獣の巫女』たちに世話をされ、のんびりと寛いているところに連中がやってきた。
忌々しい邪神の神官どもだ。
神官たちは魔物を使役し、未知の魔術を使ってきたが……聖域を土足で踏み荒らす者たちに、クロは一切の容赦をしなかった。
おかげで巫女たちを含め、多くの者が混乱から逃げ延びることができたはずだ。
だが敵は圧倒的な数と強力な魔法を武器に、ついにはクロを神殿の地下室に追い詰めた。
そしてクロは槍状の拘束魔術で壁に縫い留められ、部屋は次元ごと世界から切り離された。
千年以上も前のことだ。
『…………』
クロはブルブルと身震いをして、嫌な記憶を頭の中から追い出そうとした。
けれども、胸にこびりついた孤独と絶望はなかなか消えてくれそうになかった。
……大丈夫。ちょっとだけ。
主が帰ってくるのは、夜になってからだ。
それまでに外の空気を少しだけ吸って、戻ってくればいい。
本当にそれだけ。
『…………』
パシュン、と部屋に閃光がほとばしる。
次の瞬間。
クロは姿を子犬から人へと姿を変えていた。
毛並みと同じ、黒髪の女性姿だ。
『…………』
念のため洗面所に向かった。
鏡の前で、クロは『むふー』と鼻を鳴らした。とても満足そうに。
人の暮らす場所では人の姿をしている方が何かと便利なことは、経験上分かっている。
それにこの世界では、基本的に犬一頭では外を出歩かないことも『てれび』で学んだ。
準備はできた。
――かちゃり。きいぃ……
「…………あらぁ?」
『!?』
そこで声を掛けられた。
慌てて見れば、人族の女性がびっくりしたような顔で立っている。
歳は七十代くらいの老婆だ。
なにか、白い袋のようなものを手に提げている。
買い出し帰りのようだ。
主が買い物をしたあと似たような袋を下げていたので間違いない。
『…………』
困った。
主に迷惑をかけないようにと思った矢先にこれだ。
クロはこの者を知っている。
この多層構造の長屋――この世界では『あぱーと』とかいうらしい――の隣に一人で住んでいる女性だ。
察するに、夫に先立たれたらしいが……詳しいことは分からない。
とはいえ、クロが挨拶を交わしたことはない。
出会ったのは、犬の姿をしていたときだからだ。
「あらあらまあまあ」
女性姿のクロを見て、なぜか老婆は嬉しそうな顔になった。
「廣井さん、まさかこんな綺麗なお嬢さんとお付き合いされていたなんてねぇ。知らなかったわぁ……! 貴方、もしかして芸能人さん? いやだわぁ、廣井さんも隅に置けないわねぇ。でもよかったわぁ。あの人、休日も疲れた顔してたからねぇ……心配してたのよぉ」
『…………』
クロには、この老婆が何を捲し立てているのかさっぱり分からなかったが、なにか勘違いしているらしいことだけは察することができた。
とはいえ、まだこの世界の言葉をまともに話すことができないクロには否定する術がない。
『…………イツモオセワニナッテオリマス』
とりあえず、主が通信機器らしき魔道具に話しかけている言葉を喋った。
主がこの言葉を使用している状況から総合して考えると、まちがいなくこの国の挨拶だからだ。
「はい、こちらこそお世話様です。廣井さん、いい人でしょ? 実はちょっと前にね、私そこの階段で転んじゃったのよ。そしたらちょうど彼が出勤するところでね……慌てて助けてもらって、会社に遅刻するかもしれないのに、救急車まで呼んでもらったのよ。ああ、大丈夫よ? ただの打撲で済んだから。それでねぇ、――――」
まずい、とクロは思った。
これは間違いなく長くなるやつだ。
かつてクロを世話してくれていた者たちの中にも、この状態に入るとしばらく止まらなくなる者がいた。
どうしたものか……
『…………』
クロにできることは、ただ老婆の話が終わるのを待つことだけだった。
◇
「ただいま。クロ、いい子にしてたか~?」
『…………』
帰宅して自宅の扉を開くが返事はなかった。
中に入ると、クロはベッドの上でスヤスヤと眠っていた。
テレビはつけっぱなしのままだったが、なぜか音量がオフになっている。
もしかしてクロがリモコンを踏んづけたのだろうか。
そのせいで部屋が静かになったから眠くなったかもしれない。
それにしても……
今日は頑張って仕事を片付けて早めに帰ってきたつもりだったんだが……
クロには少し寂しい思いをさせてしまったのかもしれない。
『…………フスッ』
と、俺の気配がしたせいかクロが鼻を鳴らし、頭を持ち上げた。
「ああ、起こしちゃったか。ごめんごめん」
…………クロ、心なしか疲れているように見えるんだが、気のせいだろうか?
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