上り坂あれば下り坂あり
三鹿ショート
上り坂あれば下り坂あり
私は、現在の状況を恐れていた。
毎日の仕事を問題なくこなし、数多くの友人と食事を共にすることもあれば、肉体のみの付き合いである女性たちとの時間を愉しむこともある。
順調なるこの日々を羨ましがる人間は存在していることだろうが、私にとっては、このような時間を得ることは望んでいなかった。
何故なら、何時の日か終わりが訪れると分かっているからである。
良い時間を過ごした分、その喪失感は、想像しただけで震えてしまうほどのものだった。
だが、自分からそれを手放そうとは考えなかった。
わざと仕事で失敗し、友人からの誘いを悪口と共に断り、相手が望んでいない行為に及べば、即座に幸福な時間は姿を消すだろう。
しかし、それは自然に任せたものではなく、私の行為によってもたらされたものであるために、私に全ての責任が存在しているということになる。
自ら底なしの沼に飛び込むような真似をするほど、私は酔狂ではない。
だからこそ、私は現在の幸福たる時間を失うことに対して恐れを抱きながら、毎日を生きることにしていた。
だが、どれほど心構えをしていたところで、実際と想像の喪失感には、大きな差異は存在していないだろう。
***
彼女は、私とは対照的な人間だった。
職場では常に叱責され、親しい同僚や友人は存在せず、その肉体は何者にも汚されたことはないらしい。
何故、私がそのようなことを知っているのかといえば、私が彼女の教育係だったことが影響しているのだろう。
親しくはないが、雑談の一つや二つには及んでいた。
その中で、私は彼女の個人情報を得ていたのである。
私は、彼女を羨んでいた。
彼女が無能であり、孤独であるということではなく、これから人生が好転した際に感ずるであろう喜びは、おそらく大きなものであるからだ。
彼女に対して特別な感情は抱いていないが、その顔が笑みで満ちているところを想像しただけで、私は悔しさを感じてしまうのだった。
***
私の思考が誤っていると気が付いたのは、彼女が轢き逃げをされ、この世を去ったことを知ったときである。
人生の全てが幸福に満ちている人間など存在しているわけがないと考えていたのは、実際に確認したわけではなく、単なる嫉妬によるものだろう。
そのような幸福な日々を過ごしている人間が存在していれば、不幸に塗れる人間たちからすれば、不公平だからだ。
しかし、彼女がこの世を去ったことを思えば、それは誤った考えなのではないか。
幸福などまるで感ずることもなく、不幸な日々を過ごしただけで人生が終わってしまった彼女の存在は、幸福もしくは不幸のみで人生が満ちる可能性が存在していることを示唆しているようだった。
そうなれば、私はこのまま、幸福なる日々を過ごすことも可能なのではないか。
それまで恐れていた己のことなどを忘れたかのように、私の気分は軽くなった。
私は、心の中で彼女に感謝の言葉を述べた。
その言葉に、彼女は怒りを抱くだろうか。
だが、死人には、何も出来ない。
***
どうやら私の人生は、幸福に満ちているようである。
小さな問題は存在したものの、それらは即座に解決することができるようなものであり、同時に、それを行うことによって、私は新たな幸福を手にすることが出来たのだ。
私は、笑いが止まらなかった。
これほど恵まれた人間は、それほど多くは存在していないことだろう。
彼女のような人間には申し訳ないが、おそらくは、彼女のような人間たちが得られるはずだった幸福を、私がかすめ取っているのかもしれない。
だからこそ、私は不幸とは無縁であり、彼女は不幸と共に生活していたのである。
しかし、私は彼女のような人間たちを見下しているわけではない。
むしろ、感謝をしているのである。
素直にそのような行為に及ぶことが出来るからこそ、私の幸福は続いているのかもしれなかった。
***
「穴は、これくらいの深さで良いだろうか」
「問題は無いだろう。私が脚を持つゆえに、きみは頭を持ってほしい」
「分かった。だが、気味が悪いな」
「何故だ」
「彼は、笑みを浮かべたままだからだ。笑いながらこの世を去るなど、よほど幸福な人生を送っていたのだろうか」
「道程は不明だが、結末がこのような暗い穴の中で過ごすことになってしまったことを思えば、幸福と言うことはできないだろう」
「いや、幸福だったのではないか」
「何故だ」
「痛みを感ずることなく、一瞬にしてこの世を去ることができたからだ。病や事故による痛みに苦しみながら旅立つよりも、幸福なことではないか」
「彼を自動車で轢いた人間がそのようなことを言うとは、本人が聞いたら、怒るだけでは済まないだろう」
上り坂あれば下り坂あり 三鹿ショート @mijikashort
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