村上春樹「鏡」について

大和あき

村上春樹「鏡」について

村上春樹の作品である、「鏡」は、1983年に初出された小説である。


村上春樹が34歳の時の作品である。


「僕はもう三十何年生きているけど」「60年代末」ということは村上が丁度18、19歳あたりであることから、この作品の主人公は村上春樹に模した人物ではないかと考えられる。


実際、村上春樹も高校卒業後、1年浪人し、早稲田大学に入学。


在学中は演劇専修であった影響もあるのか、セリフ口調で親しみやすい文体となっている。


まず、設定として「鏡」の主人公である「僕」は、「みんな」と一人ずつ怖い体験談を話していて、そのホストであるということ。


この「みんな」というのは、恐らく読者であろう。「


僕」は全く霊感を持っていなく、予知夢も虫の知らせも感じたことが無い。「散文的な人生」ということは平凡な人生にすら及んでいない実につまらないものだということだ。


しかし、たった一度だけ心の底から怖いと思った出来事を話すところから、「僕」の体験談が始まる。


 この話のおおもとのテーマは、理想と現実の「ずれ」。


そして、それによって引き起こされる過剰な自意識。村上が生きた時代背景を反映させるかのようなメッセージである。


短い文章で構成された作品だが、多くの意味を含んでいる。


「僕が高校を出たのは六〇年代末の例の一連の紛争の頃でね、なにかといえば体制打破という時代だった。」


一連の紛争、というのはいわゆる学生運動のことだ。


1960年を皮切りに、段々と過激化していった紛争。


村上も丁度その社会情勢の傘下にいた。


政策、あるいはルールに、反省したからデモを起こした学生たち。


しかし、連合赤軍や一部の学生運動は、その「反省」が「暴力」に変わってしまった。反省という名の暴力の連鎖。


これを食い止めるには、「無反省」しかないのである。


では、この「無反省」を村上は作品でどう表しているか。


それは先ほど記述した、理想と現実の「ずれ」及び過剰な自意識にもつながってくる。


 権力から逃れ、「僕」は大学進学を拒否し、肉体労働をしていた。


にもかかわらず、権力構造の末端にいる中学校で働いていた、という「ずれ」。


学校が舞台になっているのはそこが「成長する場所」だからであって、成長していない「僕」と対照的に描かれていること。


「若気の至り」と述べているにも関わらず、その直後に「今から考えれば楽しい生活だったよ」と肯定し、「今からやり直すとしても、たぶん同じことをやっているだろうね。」と、自身の選択を軽く扱っている。


それを自分に落とし込み、周りにも伝えることによって「ずれ」を自らが認識しないようにする。


プールの仕切り戸が、「うん、うん、いや、うん・・・」と音を立てているのは、現実の「僕」と理想の「僕」が自分の中で葛藤している例えでもある。


無反省を決め込み、自分の選択は間違っていなかったと思う。


しかし、本当にそう思っているわけではなく、「理想の自分」の眼差し、つまり「鏡」から回避しようとする現れである。


「僕」は「無反省」を決め込み、「反省」という暴力から回避しようとする。


もちろん、高校を卒業して大学に進学せず、中学校の夜警をしていることを、完全なる私見で「理想ではない」と断言しているわけではない。


文中に「君たちは中学校の夜警なんて」「そんなに大きな学校ではない」「それだけをざっと見回る」「大した手間ではない」と、自分の職を軽視する描写がいたるところにちりばめられている、ということは「僕」が本当に求めていた理想ではないと言えるだろう、ということだ。


また、「僕」が「鏡」を見たとき、驚いたのちほっとしている。


一服するくらいの余裕があった。


そして「僕」は今の自分と鏡の中の自分を一つ一つ見比べてしまった。


進学しようと思えばできたのにあえて大学に行かない選択をした自分。


定職に就かず日本中をさまよっている自分。


未成年なのにタバコを吸っている自分。


つまり、本来の自分と対峙してしまったわけであり、それは同時にほかの人の目から「僕」自身が評価された瞬間である。


「僕」が鏡に映った自分ではない自分に恐怖を抱き、その鏡を破壊してしまうのは、そういった過剰な自己意識からなのである。


教育的にはもちろん「無反省」はよくないことだ。


しかし、「受け止める」「正当化する」「仕方のないことだったと言う」こうすることでしか「暴力」は止まらない。ある種の皮肉が効いた作品であるともいえるだろう。



 村上はあえて自我を全面的に出す作品を書くことが少ない。


つまり、2010年の講談社現代新書「村上春樹を読みつくす」に表記してある通り、「自我を中心的にせず、自我は物語の内部に取り込まれている」という近代的自我の考え方である。


この作品はどちらかというと自我が前に出ているものではあるが、自我が核となって作られている物語ではない。


また、村上は一つの作品に一つの自我を入れているわけではなく、例えば「ダンス・ダンス・ダンス」の中で、僕が何度も女性に電話をかけるシーン。


「現実の世界につなぎとめてほしいんだ。僕はお化け組になりたくないんだ。僕はごく当たり前の三十四歳の男なんだ」という文章がある。


「鏡」の「僕」も、このままではお化け組になってしまうことを悟って鏡を割ったので、似通った部分がある。


それとは別に、団塊世代という村上が生きた時代は、「ノルウェイの森」や「1Q84 」でも描かれている。


このように村上の作品は、複数の作品に同じ自我がちりばめているのである。



【参考文献】

■ 「村上春樹を読みつくす」小山鉄郎-2010年講談社現代新書

■ 「走ることについて語るときに僕の語ること」村上春樹-2010年文春文庫

■ 「村上春樹と1990年代」宇佐美毅・千田洋幸-2012年おうふう出版


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村上春樹「鏡」について 大和あき @yamato_aki06

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