第16話  約束の地

 紗季が祥法院の屋敷に留まって四月よつきが経った。

「何もかも忘れて懸命に働きなされ。さすれば生きる力が湧いてくるでしょう」

 祥法院は武家の娘で無くなることを考慮して女中の姿をさせ、敢えて厳しく下働きをさせた。

 侍女たちの目には謀反人の娘をいびっているように映ったが、祥法院は気にも留めなかった。

 ある日の午後、紗季は祥法院の部屋に呼ばれた。

 祥法院は厳しい眼差しで、

「伝えておかねばならぬことがあります」

 と前置きしてから告げた。

「剣持玄馬が打ち首になりました」

 紗季は神妙に、

「はい」

 と一言答えた。すると、

「まことに残念なことだが、屋敷明け渡しの前日にそなたの母と兄が自害したそうだ」

 祥法院は伏し目がちに言った。

 紗季は溢れる涙を拭い、嗚咽の漏れそうな口を手で覆った。

「それぞれ別室にて死装束をまとい、母君は自刃そして兄君は切腹したとのことです」

 祥法院は様子を述べた後、声に力を込めて、

「そなたは決して死んではなりませんよ。もう武家ではないのだから。今まで下働きをさせてきたのはこのためです。もう何処に行っても生きて行ける、それだけの力を身に付けたのです」

 説き伏せるように言った。

 祥法院は武家の家族ならば当然そうなるとわかっていた。すでに香取弥七郎の家族も自害していたからだ。

 だから紗季から武家としての意識をぎ取り下働きをさせたのだった。

 そして紗季が家族の道連れにならぬようこの時を待っていたのである。

「さあ、国へ帰って家族の菩提を弔いなさい。それが終わったら、小平太の待つ松本に戻るのです」

 紗季は祥法院の慈悲深い心遣いに深く感謝した。

「ありがとう存じます。祥法院様の優しいお心遣い、紗季は決して無駄にはいたしません。強く生きて参ります」

 祥法院は安堵あんどした眼差しで初めて微笑んだ。

 翌朝、紗季は町娘の旅姿をしていた。

 祥法院は働いた賃金だと言って充分な路銀を与えた。

 玄関まで見送りに出た祥法院は、

「わたくしはそなたを気に入っておりました。されど千代松が高杉藩篠田家の人間である以上は、そなたを迎え入れることができぬのです。許しておくれ」

 そう言って紗季の手を優しく包んだ。

「そのお言葉だけで充分でございます。お世話になりました」

 紗季はまっすぐ前を向き歩き出した。

 祥法院の最後の言葉は、裏を返せば千代松が平民ならば婚姻を許すということを意味していた。

 それには気付かず、紗季は素直に言葉通り受け止めたのであった。


 初夏の中山道は、さわやかな風が木々の瑞々みずみずしい葉を揺らし、野鳥のさえずりは道しるべのように行く手の方向に遠ざかって行った。

 厳しい峠道も紗季は気にならなかった。山中を三治と焚き木を拾いながら歩いた頃を思い出していたからだ。

 道行く人は紗季が武家の娘の時と違って気軽に声を掛けてくる。

 一人旅は危ないと言って道連れに加えてくれる家族がいた。

 旅芸人一座の大八車を押しながら、愉快な話を聴くこともできた。

 旅が楽しいものだと初めて知った。

 祥法院に言われたように、もう何処でも生きられる。そう思った時、前方に松本城が見えてきた。

 家族の弔いが終わったら松本へ戻れと祥法院は言ったが、紗季は松本に引き返すつもりはなかった。

 松本には謀反の犠牲者となった菊枝が眠っている。そしてその御霊みたまと共にひっそりと暮らす平太がいる。

 それを知りつつ謀反人の娘である自分が、二人の平穏な暮らしを乱すわけにはいかなかった。

 紗季は松本城に向かって一礼するとそのまま北を目指した。

 以前くみと泊まった旅籠に宿を取り、故郷の城下に入った。


 実家に行ってみると大きな門は封印されており、中に入ることは叶わなかった。

 近所の冷たい人の目を避けながら奉行所に行き、家族の埋葬場所を尋ねた。

 紗季は人を頼んで遺体を掘り起こし、先祖の菩提寺に運び込んだ。

 紗季が弔いを頼むと、

「どのような咎人であっても死んでしまえば同じ仏じゃ。心を込めて弔おうぞ」

 住職はそう言って経を上げてくれた。紗季も手を合わせ、父母や兄の冥福めいふくを祈った。

 弔いが終わり、布施ふせを渡すと紗季は無一文になってしまった。

 紗季が困っていると住職は快く宿坊しゅくぼうに泊まることを許してくれた。

 夕餉ゆうげの後、紗季は境内けいだいを歩いた。月に照らされた城が美しかった。

(三治さんはお殿様になってあそこにいらっしゃるのかしら)

 そう思うと無性に恋しくなった。

 紗季は平太の言葉を思い出していた。

『どんなに遠く離れていても、心が忘れなければ共に生きて行けるのです』

 そして城に向かって呟いた。

「わたくしもあなたを忘れない、共に生きて行きます」


 朝から城下のあらゆる商家を当たったが、紗季の素性を聴くと何処も雇ってはくれなかった。

 追われるように城下を出ると、街道から姫川に架かる橋を渡った。風にそよぐ青田の道を進むと鳥居の正面に出た。

 足は自然と『とみたまの湯』に向かっていたのである。

 一日中歩いた足は棒のようだった。

(まだあのままだったら、また三治さんの布団にくるまって寝よう)

 そう思いながら山道を登ると、夕日を浴びて紅く染まった白駒山が現れた。馬の背の美しい輪郭りんかくが空との境界をかくしている。

 草原は野菊・あざみ・山百合に彩られ、まるで歌っているようだ。

 何もかもが三治と過ごしたあの頃のままだった。

 遥か湯屋の煙突から煙が昇り、茅葺かやぶきの屋根をでるように流れて行く。

(ああ、三治さんが薪を焚いているわ。いいえ、そんなはずはない。きっと幻よ、疲れているから……)

 自問自答しながら近づくと、大看板の下に人がいる。

 その顔も夕日を浴びていた。懐かしい笑顔がそこにあった。

「三治さん、どうして此処に」

「最後に別れた時、必ず戻るから待っていてくださいと言ったのは紗季さんですよ」

 初めて聴く三治の声だった。その声は紗季の胸に響いて心を震わせた。

 紗季の目には涙が溢れて三治の顔が見えなくなった。

「紗季さんが此処に来ることを母上はわかっていたようです。わたしが身分を捨てて三治として生きることも。三治ならば夫婦になっても良いと言われませんでしたか」

 紗季は祥法院の言葉を思い出し、そしてはっ!とした。

「母上は何でもお見通しだ。怖いお人です」

 三治が明るく笑った。紗季も笑った。頬が緩んだとたん大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。

「紗季さん、此処で共に暮らしましょう」

「はい」

 三治が典定に願ったのは『とみたまの湯』の主人になることであった。

 母屋から若い娘が手を振りながら駆けてくる。

「紗季さま~!」

「おくみさん、あなたも此処に」

 くみは紗季にとって唯一の友である。紗季には二度と会えないと思っていたくみは、紗季に抱きつくと子供のように泣きじゃくった。

「紗季さん、今日は何の日か知っていますか」

 三治がいきなり尋ねた。

「いいえ、わかりません」

「七夕です。織姫と彦星の一年一度の出逢いの日です。そんな日にわたしたちも逢えたなんて不思議ですね」

 そう言われて紗季も思った。これもさだめなのだろうか。それならばやっと辿り着いたこのさだめが、変わることなく永遠に続きますようにと天に祈るのであった。



 典定は参勤交代で国元に戻る際、長旅の疲れを癒すため必ず『とみたまの湯』をお忍びでおとずれるようになった。

 いつからか人々は『とみたまの湯』を『とのさまの湯』と呼ぶようになった。

 それは殿様が通うからなのか、殿様になるはずだった男が商うからなのか、そのいわれは定かではない。   ―了―

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

釜焚き三治 池南 成 @sei-ikenami

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ