第12話 隠密壊滅
国家老の剣持玄馬は江戸からの使者により宍倉梅膳が公儀隠密であることを知らされた。
驚きと同時に宍倉を剣術指南役とした己の立場を考えた。
江戸からの指示では捕縛とあったが、玄馬は余計なことを
腕が立つ宍倉と戦えるのは岩田源兵衛だけである。玄馬は源兵衛を屋敷に呼んだ。
「岩田殿、かつてはわしの見込み違いでそなたには迷惑をかけた。この通りお詫び申す、許してくれ」
玄馬は頭を下げた。源兵衛はただ黙って見ていた。
「宍倉は公儀隠密と判明した。幕府にさとられぬよう始末したいのだが宍倉は腕が立つ。あやつを討てるのはそなたしかおらぬのだ」
玄馬の言い分には腹が立ったが、お家の一大事とあっては仕方がないと源兵衛は怒りを抑えた。
「して、わたくしは何をなせばよろしいでしょうか」
源兵衛が問うと、玄馬は気をよくして、
「討伐隊の指揮を取ってはくれぬか。人数や人選は任せるゆえ必ず討ち取ってくれ」
先ほど詫びた人間とは思えぬほどの
「承知
「無事に討伐をなした時は再び剣術指南役の座が待っておるぞ。まずは前祝といこうか」
玄馬が酒の支度を命じようとすると、
「いや、今宵はご遠慮申し上げます。急ぎ人選をせねばなりませぬゆえ」
と、源兵衛は体よく辞退した。
(くわばら、くわばら。此度は何を飲まされるかわかったものじゃない)
首をすくめ懐に手を入れて歩き出した。
しかし、源兵衛にとっては大っぴらに宍倉退治ができるのは悪い話ではなかった。
玄馬にはもうひとつ頭の痛い問題があった。
紗季のことである。一年前に屋敷を出たまま未だに行方がわからない。
婚姻相手の香取家には体調不良を理由に
ところがこの騒ぎで、謀反を探っている隠密がいる内は両家の縁組を一旦白紙に戻すことにした。
(これでわしの面目は保たれた。娘が出奔したから婚姻はなかったことにしてくれとは言えぬからな)
玄馬は都合よく事が進むことに満足していた。
あとは隠密を根絶やしにして、謀反は公儀がでっち上げた作り話だと決めつけるつもりであった。
源兵衛の討伐隊は腕の立つ道場の門弟五人と宍倉屋敷を囲むための町役人で結成された。
その中には三治も入っていた。隠密の顔を知っている三治を外すことができなかったからだ。
「三治は顔の確認だけでよいからわしの後ろに付いておればよい」
密かに屋敷を囲むと源兵衛が言った。三治と源兵衛の間では当面若君として接しないことに決めていた。
三治は黙って頷いた。
皆が緊張している中で三治だけが落ち着いていた。真剣での実戦経験は三治だけだったからである。
最初に門を叩いたのは
「ご開門願います。江戸から書状のお届けです」
例の門番が睨むような目で顔を出した。
すかさず扉ごと足蹴にすると門番は後方に転げながら「敵だ!」と叫んで玄関に走り込んだ。
討伐隊は屋敷になだれ込むと内側から門を閉じ
玄関からは宍倉配下の武士が二人飛び出してきたが、源兵衛は門弟二名に任せて庭に回った。
庭に面した座敷には宍倉が座しており、広縁には仁左衛門配下の忍びが四人立っていた。
忍びは門番・小間物屋・大工そして『とみたまの湯』の番頭で三治とは顔見知りだ。
四人の忍びはそれぞれに三治を睨み、
「おぬしは何者なのだ、我らを
番頭が歯噛みをして訊いた。
「謀った訳ではない。子供の頃に失った記憶を喜助じいが斬られた時に取り戻しただけだ。そして使いに出されたついでに剣の修業もさせてもらった」
三治の話を聴いて、番頭は何もわからない子供だと見下していたことを悔やんだ。
忍びが庭に飛び降りると、宍倉も刀を取って立ち上がった。
「岩田源兵衛、久しいのう。また負けにきおったか」
宍倉は広縁に出てきて言った。
「あの時は卑怯な策にやられたのだ。此度は勝たせてもらう」
源兵衛は平常心で答えた。
宍倉が合図を送ると忍びたちは四方に別れて斬りかかった。
源兵衛は三治を襲う忍びを斬り捨てた後、三治と共に広縁に駆け上がり宍倉と対峙した。
玄関前の武士を討ち取った門弟たちが合流すると、庭の忍びはことごとく討ち取られた。
広縁では源兵衛の正眼に対し、宍倉は上段に構えて隙を伺っていた。
次の瞬間、庭に倒れていた番頭が執念の力で上体を起こすと三治に向かって手裏剣を投げた。
源兵衛はそれを横目に見ると
宍倉はその時を逃さず源兵衛の背後から刀を振り下ろした。
誰もが源兵衛の斬られる姿を想像したであろう瞬間、三治が源兵衛と入れ替わって素早く刀を振り下ろしていた。
上段から斬り下ろす双方の刀は擦れ合うほど大きな金属音を残し、最後は三治の速さと力が勝敗を分けた。
宍倉の刀は軌道をずらされ、三治の刀は宍倉の脳天を真一文字に切り裂き、勢いのまま左手首まで切断していた。
三治は片膝を付き、刀は膝前でぴたりと止まった。
その太刀筋の凄まじさは、驚愕の表情で目を見開いたまま息絶えた番頭が物語っていた。
宍倉屋敷には暫し凍り付いたような静寂が流れた。
門弟の一人が開門すると同時に役人たちが入ってきて探索に当たった。
残っていた家人は下男や女中などの奉公人のみで、首領と思われる仁左衛門の姿は何処にもなかった。
外出から戻った仁左衛門は屋敷のただならぬ様子を
しかし警戒が厳しく、すぐに国を出ることは叶わなかった。
仁左衛門が城下を抜け出したのは、年が明け正月気分に浮かれて警備に隙が生まれた時であった。
間道を抜けて江戸に辿り着いた仁左衛門は高杉藩江戸屋敷の裏門に立った。
辺りに人がいないのを確認すると扉の隙間から赤い布切れを差し込んだ後すぐさまその場を去った。
屋敷内に潜り込ませた
翌早朝、屋敷を抜け出し裏門に近づく奥勤めの侍女は警戒中の武士に囲まれた。
侍女は仁左衛門配下の女忍びだ。素早い身のこなしで短刀を
侍女を捕えたという知らせはすぐに早見徳之進に届いた。
早見は自ら見分に立ち会い、自害した侍女の亡骸が所持していた書状を手に入れた。
早見はその場で書状を開いて目を通すと驚きの表情で懐にねじ込み、そのまま祥法院の屋敷に向かった。
「早見殿、慌ててどうなされたのです」
「祥法院様、先ほど隠密と思える奥勤めの侍女を捕えました。残念ながら自害してしまいましたが書状を持っておりました。おそらく国元より知らせがあった仁左衛門なる頭領に渡すつもりであったと
と前置きしてから書状を差し出した。
祥法院は書状を読み進めるにつけ驚愕の顔色に変わって行った。
「何と亡き殿まで毒殺であったのか。それも泉寿院が……、それほど己の子を藩主にしたかったとは」
書状は寝所において泉寿院と香取弥七郎の会話を根拠に記されたものであった。
祥法院は憤怒の形相になって、
「即刻二人を捕え、謀反の企てをすべて白状させるのです」
と命じた。
「祥法院様、落ち着いてお聴きください。この書状は隠密が書き記したもので証拠とはなりませぬ。突きつけたところで、隠密が藩を潰すために描いた作り話だと言い逃れるでありましょう。事は殿様の
早見は自らを落ち着かせて静かに
「そなたの言う通りじゃ、今は二人を断罪すべき時ではないかもしれませぬ。何か打つ手はないのですか」
と尋ねた。藩主の生母を罰するにはそれなりの覚悟が必要だった。
「まずは香取を見張らせご寝所での密通を暴きましょう。それで幽閉してから取り調べを始めては如何でしょうか」
早見の提案に祥法院も、
「密通ならば藩主の座
と納得した。
「ところで藩主としての典定殿をどう思いますか」
祥法院が問うと、
「殿様は自ら質素倹約を旨とし、常に領民や家臣の安寧を願い様々な改革を試みておられます」
早見は誇らしげに答えた。典定の藩主としての姿勢や考え方は早見が教授したものであった。
「名君ということか、母親の血は受け継いでおらぬようですね。わたくしが千代松を藩主にしようとしたら、泉寿院と同じ私欲だと思いますか」
「いいえ、それは欲ではなく元の
祥法院の問いに早見は首を横に振って答えた。
「そなたは今のままが良いと思いますか」
またしての問いに早見はしっかりと祥法院の目を見た。
「それは、それがしが申し上げるべきことではございません。千代松君のお考えがすべてにございます」
早見は遠回しに本人以外は口を挟むべきではないと告げていた。たとえ母親であっても。
祥法院は早見の言葉を重く受け止めていた。
香取弥七郎は泉寿院の寝所で夜を明かした朝、見張っていた武士に捕縛された。
牢内での取り調べに対し、寝所に行ったのは泉寿院の相談に乗っただけという言い訳を貫き、謀反についても作り話だと白を切り通した。
老中、
「ご老中、謀反は確実にございました。今一度手勢をお貸しいただけたなら必ずや証拠を掴んで参ります」
仁左衛門は地面に額をこすり付けて懇願した。
「そのような山奥の小藩、今更どうでも良いわ。わしは今それどころではない、
柳沢は
力なく別邸を後にした仁左衛門の後ろを一人の武士が追った。
翌朝、大川に浮かんだ老人の死体は、一刀のもとに斬られた仁左衛門であった。
吉良邸に討ち入った赤穂浪士の中には三治の師である堀部安兵衛もいた。
三治の仇討ちを羨ましいと言った安兵衛もまた本懐を遂げたのであった。
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