第9話 江戸暮らし
香取弥七郎は今宵も泉寿院に呼ばれた。
「弥七郎、遅いではないか」
泉寿院は寝間着姿のまま寝酒を飲んでいた。
「泉寿院様、こうたびたび呼ばれましては噂が立ちまする。それもご
香取は息子の
「皆知っておる、されど侍女たちは決して口外せぬ。命が惜しいからのう」
泉寿院ははだけた身なりを正そうともせずに
「このところ千代松が夢に出て来てよう眠れぬ。何処ぞで生きているような気がしてならぬのじゃ」
「泉寿院様が先代の殿に使われた毒を用いましたがすんでのところで気付かれてしまったようです。毒を飲んでおれば確実でしたが、遺体が見つからなくても生きていることなど万が一にもありますまい」
香取はなだめるように言った。
二人は八年前を思い出していた。
「あの毒は
「されど毒見役がおったのにどのようにして用いたのですか」
「白木の
泉寿院は愉快そうに高らかに笑った。両端が吊り上がった紅い唇を見て香取は身震いした。
「それほど殿を恨んでおいででしたか」
「十八でわらわが初めて奥に上がった時、すぐに殿の目に留まった。わらわの美貌に落ちたと思った。その日のうちに床入りしたが、枕を共にしたのはその一夜だけであった。殿はお千代の方にぞっこんで、わらわはお千代の方の懐妊中のほんの手慰みに過ぎなかったのじゃ」
九年前にも関わらず泉寿院は昨日のことのように悔しがり涙を流した。感情の起伏の激しさに香取は尋常でないものを見た。
「
郁松とは現藩主の
「そうじゃ、ゆえにその一夜を後悔させるために郁松を藩主にすると決めたのじゃ。きっと草葉の陰で泣いておるわ」
その決断が剣持や香取にとっては都合がよかった。
泉寿院は剣持玄馬が養女に出した美和である。ゆえに藩主典定は玄馬の孫だ。剣持と香取は来秋には姻戚となる。一族が高杉藩を牛耳るのだ。
香取は野心に燃えていた。家老職を得るのも近いと思った。そのためには泉寿院の相手をするなど
「そなたも妻を失くして寂しいであろう。互いに慰め合おうではないか」
泉寿院が手を引く。香取は羽織を脱いだ。
三治は江戸に着いたものの何処に行ってよいやら見当もつかなかった。
「わたしの知っている城下とはまるで違うな。さすがは将軍様の住む町だ」
不安に思うことは何もなく、ただ行き交う人の多さに驚いていた。
江戸は生まれ故郷ではあったが藩邸より一歩も出たことがなかったため心が高揚していた。
珍しさに誘われて街を散々歩き回り、空腹であることに気付いた三治は屋台で
その時、通りの反対側に
三治が近づくと釜場から女が飛び出してきた。大きく咳き込み顔はすすだらけだ。
「女将さん、湿った薪をくべましたね。湿ったやつは釜の熱で一旦乾かしてからくべないと駄目ですよ」
三治が教えてやると女将は、
「おまえさん詳しいねえ、釜焚きの経験があるのかい」
と、嬉しそうに訊いた。
「はい、山の湯治場で釜焚きをしておりました」
三治の答えを聴いた瞬間、
「うちで働かないかい、長年いた爺さんがぽっくり
と女将は条件を出した。
三治にとっても路銀は残り僅かになり働き口を探すつもりだった。
「喜んでお世話になります、三治です。よろしくお願いします」
「あたしのことはとよと呼んでおくれ」
そこに近所の
「おとよさん、新しい人が決まったのかい。そいつは良かった」
「おや
三治が頭を下げると、
「釘や金物はおいらが引き取るから持ってきな。ちっとは小遣いになるからよ」
伸助の言う意味がその時は理解できなかった。
それは働いてみてわかった。湯治場と違って薪にしているのは取り壊した家の廃材や家具、大八車に舟板などあらゆる木材だった。
広い江戸の町ではそれらが大量に発生するのだ。
そしてそれらには古釘が刺さっていたり金物が付いていた。三治は燃やす前に取り外さなければならなかった。
だが伸助が言った通り、それが思わぬ収入になった。
三治は仲良くなった近所の若者と小遣いを分け合い、時々釜場を代わってもらっては江戸の町を歩いた。
また、湯屋は江戸の町を知るにはもってこいの場所だ。町の情報や噂話などを聴くことができた。
しかし思ったほど釜焚きは楽しくなかった。長年やって来た仕事なのに気が向かないのは初めてだった。
三治は後ろを振り返った。そこには喜助じいがいない、いつも座って見ていた紗季がいない。
急に寂しさと孤独感に襲われた。紗季に会いたい、薪から立ち昇る白い煙の中に紗季の顔が浮かんだ。
三治は釜焚きに身が入らなくなり、釜場を代わってもらいながら町に出ることが多くなった。
やがて三治は高杉藩の江戸屋敷の場所を知ることとなったが、母である祥法院の暮らす屋敷まではわからなかった。
それでも三治は時折湯屋のある神田から小石川の藩邸に足を運んでは、幼い時を過ごした屋敷を眺めては懐かしんでいた。
江戸に来て
三治が激しい稽古ぶりを熱心に見ていると後ろから声を掛けられた。
「剣術を習いたいのか?此処は誰でも入門できる道場ではないぞ。才があるか見てやるからついて来い」
そう言って道場に上げると木刀を持たせた。
三治は正眼に構えてからゆっくりと上段に移り、勢いよく真一文字に振り下ろして見せた。
「見たところ町人のようだが、おまえは人を斬ったことがあるな」
三治は目を瞠って相手の顔を見た。来るべきではなかった。自分が咎人であることを思い出した。
返事に困っていると、
「心配するな、咎めている訳ではない。おまえの目にはすさんだところがなく澄んでおる。それなりの事情があったのであろう、話してみろ」
屈託のない優しい笑顔を向けた。
その武士は
三治が天野兵衛を討った経緯を語ると安兵衛は、
「そうか、わしはおまえが
やるせない顔でぽつんと言った。
「よし、せっかく良いものを持っているのだ。ここに通って腕を磨くとよいぞ」
安兵衛は三治が気に入ったようだった。
入門を許された三治は毎日湯屋を開ける前に道場へ足を運んでは稽古に励んだ。
三治にとって安兵衛は源兵衛に続く二人目の師だ。
不思議と釜焚きにも精が出て充実した日々を送るようになったのであった。
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