第8話  無人の湯

 三治が勝負に勝ったという知らせに源兵衛は胸を撫で下ろした。

「三治、ようやった。おまえならやれると信じていたぞ」

 源兵衛は遠い空に向かって呟いた。

 宍倉梅膳の悔しがる顔を思い浮かべると喜びはさらに増した。

 しかし宍倉は天野の死を心の臓の発作による病死と届を出した。恥をさらしたくなかったのである。

 源兵衛にとってそれは少し残念ではあるが、三治がお尋ね者とならなかったのは良い結果であった。


 一方、『とみたまの湯』では蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。

 仁左衛門は突然三治がいなくなった後、三治の部屋にあった沢山の書物を見て愕然がくぜんとした。

 言葉を発することも読み書きもできないと思って極秘文書を届けさせていたからだ。

 その三治が此度は宍倉の配下である天野を斬った。

「あやつはいったい何者なのだ。我らの正体を知っているやもしれぬ」

 番頭と相談し、湯治場をたたむことを決めた。

 使用人たちに給金を弾んで不満が出ぬようにして、身体の不調を理由に湯治場を閉めると密かに宍倉屋敷に移り住んだ。

 使用人はそれぞれ出自の村に散って行き、『とみたまの湯』は誰もいないひっそりとした夕暮れを迎えようとしていた。

 紗季が辿り着いたのはそんな時だった。

 いつもは賑やかだった湯治場には火の気もなく人っ子一人いない。

「何があったのかしら」

 紗季は釜場へ回った。そこにも三治の姿はなかった。

「三治さん!」

 呼べども返事はない。

「そうよね、答えるはずはないもの」

 かつては紗季が呼ぶと三治は薪を拍子木のように打ち鳴らして居場所を知らせた。

 その時の三治の悪戯っぽくお道化た笑顔が目に浮かぶ。

 言葉など発しなくても三治の澄んだ瞳に見つめられるだけで幸せだった。

 紗季は湯屋の木戸を開け屋根裏部屋に上った。

 そこには自分が与えた書物が積まれている。読み書きに明け暮れた三治の生活の香りがした。

 紗季は三治の布団にくるまった。涙が目尻からこめかみを伝って布団に染みた。

 そのままいつの間にか深い眠りに落ちていった。


 人の声で紗季が目覚めた時、朝日は白駒山の上に昇っていた。

 鎧戸よろいどにそっと近づき、紗季は釜場の前にいる二人の男の会話に耳をそばだてた。

「此処で千代松君は釜焚きをしながら成長されたのか」

「さようでございます。でも閉まっているとはどういうことでしょう」

 話しているのは平九郎と美濃助だ。

ふもとの村には此処の使用人がいるかもしれません。聞いて参りますから野尻様はしばし此処でお待ちくださいませ」

「すまぬの美濃助殿」

 美濃助が去ると紗季は静かに階下に下りて木戸を開けた。

「お尋ね申します、あなた様は三治さんのお知り合いの方ですか」

 突然の若い娘の出現に平九郎は驚いた。

「さよう、それがしはその三治を八年に渡り捜してきた野尻平九郎と申す者でござる。やっと辿り着いたと思ったのだが誰もおらず困惑していたところです。何があったのかご存知かな」

「わたくしも昨日着きまして誰もいないのに驚きました。申し遅れました紗季と申します」

 平九郎は紗季が何故こんな山奥に単身で来たのか不思議に思った。

「見たところ武家の娘御むすめごのようだが一人で参られたのですか」

 平九郎の問いに紗季は悲し気にうつむいた。

「先月わたくしのせいで三治さんには悲しい思いをさせてしまいました。三治さんのことが気になって家には内緒で来てしまいました」

 そう前置きをしてから紗季は三治に起こった悲劇を語った。

 平九郎が三治を育てた喜助の墓参りを願うと、紗季は喜助の墓へと先導した。紗季もそのつもりで線香を用意していたのである。

 墓前に正座し平九郎は深く頭を下げた。喜助の御霊みたまに養育の恩と身を挺して守ってくれた感謝の意を唱えるのであった。

「紗季殿は三治のことをよくご存知とお見受けしたが……」

「今は完治いたしましたがわたくしには喘息の持病があり、幼き頃より毎年春から夏が終わるまでこの湯治場で過ごしました。三治さんとは共に育ったと言えましょう」

「されど三治には記憶がなく、話すことも読み書きもできぬと聞きましたが意思の疎通そつうはどのようにして行なったのですか」

 その問いに答える代わりに「こちらへ」と言って紗季は屋根裏部屋に案内した。

「三治さんは読み書きができます。わたくしがお教えしました。今ではその博識はくしきは学者以上でございます」

 そう言って紗季は山と積まれた多方面の分野に渡る書物を見せた。

「この書物は紗季殿が与えてくださったのか。かたじけない、これならば本来のお姿に戻ってもやって行ける」

 平九郎の喜びに紗季は不安を感じた。

「野尻様、先ほどお連れの方とのお話が耳に入ったのですが千代松君とおっしゃるのは三治さんのことなのですか」 

 平九郎は紗季が三治の味方であり害をなす者ではないと判断した。

「三治とは国入り前に謀反で殺害されたと思われてきた先代藩主の嫡男ちゃくなん、千代松君でござる」

 聴いた瞬間紗季は身体の芯が粉々に砕けたような気がして床に崩れ落ちた。

 三治と添い遂げるには己がすべてを捨ててしまえば叶うと思っていた。だが近づこうとも三治の方が手の届かない高みへと上ってしまった。

 紗季は残酷なさだめに打ちのめされていた。

 そんな紗季の姿を見て、平九郎は共に育った二人が育んだものの大きさを感じ取った。


 美濃助が戻って来た。

「野尻様、女中をしていたという女と村で会いました。此処を閉めたのは昨日で、若様は二十日ほど前に突然いなくなったというのです」

「遅かったか、誰か行方を知る者はおらぬかなあ」

 紗季はふと思いだした。

「そういえば三治さんは町の道場の方々に大層可愛がられて剣術の指導も受けておりました」

「こちらの娘さんはどなたで」

 美濃助が紗季の顔を見ながら訊いた。

「わたくしは三治さんの幼なじみで紗季と申します」

 紗季が名乗ると平九郎が、

「こちらは美濃助殿です。八年前に若君を救ってこの湯治場へ預けたのがこの人です」

 と説明した。

 紗季は不思議な縁で出会った二人の顔を交互に見た。

「道場といえば岩田源兵衛か。此処にいても仕方がない、まずは町に参ろう」

 平九郎は紗季も伴って歩き出した。

 紗季は道々平九郎や美濃助から三治が遭遇した街道の悲劇を聴くと、今もなお次々と苦難に追われる三治に胸が痛んだ。

 城下のはずれまで来ると平九郎は、

「それがしは訳あってこれ以上城下へは入れぬゆえ此処でお別れいたす。若君が生きておられること、他言無用に願います」

「存じております。三治さんにはこれ以上辛い目にあって欲しくはございませぬゆえ」

 紗季もそう言うと送ってもらった礼を告げて実家へ戻って行った。

 平九郎は美濃助とも別れて源兵衛の道場を訪ねた。


 三治の正体を知って衝撃を受けたのは紗季だけではなかった。

 岩田源兵衛もまた目を見開いて己の頭を何度もこぶしで打った。

「知らぬとはいえ千代松君に捨て身の剣法を教えて果し合いをさせるなど、わしは何ということをしたのだ」

「そう己を責めるな、無事に勝ちをおさめたのだからよいではないか。おぬしは充分にお世話をしたのだ」

 泣き出しそうな源兵衛を見て平九郎は困り果てた。

「何処に向かうとか示さなかったのか」

「江戸に向かったのではないかと思う。武士を斬ったら咎人になるとわしが言ったからな、隠れるには人が多い所が良いとも……」

 源兵衛は力なく言った。

「さればもう一度江戸に参ろう。それがしは成長した若君の顔を知らぬゆえおぬしにも同行してもらいたい」

 平九郎と源兵衛はその日のうちに旅立った。

 二人は何とか追いつこうと足を速めたが、三治も人目を避けて間道や山道を行ったため途中で出会うことは叶わなかった。

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