第7話  仇討ち

 屋敷に戻った紗季は事の次第を母に話した上で、

「母上、警護の者は理不尽な行いにもかかわらず何ゆえお咎めがないのですか」

 と抗議の意を唱えた。

「それは無礼打ぶれいうちでしょう、おなごが口出しをすることではありませぬ。その者は父上が懇意にされている宍倉様のご配下です。良いですか、父上に不服など申してはなりませんよ」

 取り付く島などなかった。母は昔からそうであった。

 紗季の母『多江たえ』は理想とされる武家の妻を演じるのに必死だったのである。


 剣持玄馬は若い頃、れんという名の女に想いを寄せていた。禄を失った浪人の娘だった。

 玄馬にとって蓮は遊びの相手ではなかった。できることなら名家の養女とした上で剣持家へ嫁がせたかった。

 玄馬は腹を割って父に打ち明けたが、父親はそれを許さなかった。

 それでもなお別れることができなかった玄馬は、町に小さな家を買い蓮を住まわせた。

 やがて娘が生まれ、玄馬は美和みわと名付けて可愛がった。

 縁談話はいくつもあったが玄馬は理由をつけて拒み続けた。

 美和が十三歳になった時、大人びた美しさに一目惚れしたやくざ者が言い寄ってちょっかいを出した。その様子を目撃した玄馬は激怒して男を斬り殺した。

 事件は父親の知るところとなり、父の力を持って無礼打ちということで済まされたが、それだけでは終わらなかった。

 業を煮やした父親は隠居を決め、蓮と別れなければ家禄を次男に譲ると告げた。

 母親は蓮に会い、自ら身を引かなければ玄馬はすべてを失うと説得した。

 結局、蓮は玄馬の将来を思って身を引き、金を受け取って町を出ることになった。

 旅立つ前に蓮は、美和を裕福な家の養女にして欲しいと言い残して娘を玄馬に託した。玄馬はその願いを受けて江戸の商家へ養女に出したのであった。

 傷心の玄馬は勧められるままに縁談を受け入れ、名家の娘である多江をめとることになった。

 玄馬は多江に対して婚姻後も夫婦として心を通わすことはなかった。

 ある日偶然に使用人の噂話から蓮とのことを聞いてしまった多江は、二度と他の女に向かわぬよう従順な妻としてその面目と妻の座を守ると心に決めた。

 幼い紗季に喘息の症状が出た時も紗季だけを湯治場へ行かせ、多江は母よりも妻を選んだのであった。


 紗季は憂鬱ゆううつな日々を送っていた。

 喜助を失った三治はどうしているのだろうか。今も悲しみの淵にいるのだろうか。

 心の中はいつも三治が占めており、三治の悲しみや心の痛みが我がことのように襲って来る。

 頭の中では今でも三治の泣き叫ぶ声が響いている。初めて聞いた三治の声は悲哀に満ちていた。

 三治への思いは募り、会いたい気持ちは日に日に強くなって行った。

 『とみたまの湯』を去ってから一月ひとつきが経ったある日、紗季は藩医はんいの所へ連れて行かれた。

 診察を終え別室で待たされた紗季は、医者と多江の会話に耳をすませた。

「先生、まことに治ったのですか」

「いかにも、小児喘息しょうにぜんそくの場合は大人の身体になると治ることがあるのじゃ」

「それでは山に療養に行くこともいらぬということですね。ありがとう存じます、これで縁談も進められます」

「そうか嫁ぎ先も決まっておるか。それはめでたいのう」

 寝耳に水だった。持病が完治したのは喜ぶべきことであったが、婚姻などは考えもしなかったからだ。

 その帰り道、紗季は多江に尋ねた。

「母上、わたくしに縁談があるのですか」

「まあ、立ち聞きとははしたない。そうですよ父上がすでに嫁ぎ先をお決めになり、花嫁修業の後に来秋には婚姻することになるのです」

 紗季は悲しかった。婚姻が悲しかったのではない。嫁ぐ娘を想う母の情がまったく感じられなかったからである。

 多江はただ己に課された母という役目をやり遂げようとしているだけであった。

「わたくしが婚姻するお相手はどなたですか」

 紗季は思い切って訊いてみた。

「江戸におられる大目付、香取様のご嫡男です」

「わたくしは江戸へ行くのですね」

 三治との距離は益々離れて行く。

 どれほど思いを寄せても三治とは身分も境遇も違うのだ。添うて行くことなど叶うはずがないと心ではわかっていた。

 しかし己がすべてを捨てたなら、捨てる勇気があるのなら共に生きて行けるかもしれない。

 己の勇気を試してみたいと紗季は思った。

 紗季は密かに旅支度をして明け方に屋敷を抜け出した。

 うす闇に踏み出す不安は従者のいない一人旅に拍車をかけた。

 それでも揺るがないのは三治にもう一度だけ会いたいと願う切実な思いだ。

 しかし、その『もう一度』が紗季に降りかかる大きな試練の始まりだったのである。



 三治が取り戻した記憶を辿ると再び深い悲しみに包まれた。

 喜助を失ったばかりだというのに小平太や菊枝の死まで甦ったのだ。

 剣術を教えてくれた小平太、わがままを聴いてくれた菊枝、二人の笑顔が浮かんでは消えた。

 三治は部屋の隅に置かれた風呂敷包みを開き小太刀を手に取って抜いた。刃の輝きは当時の出来事を鮮明にした。

 あの日は夜明け前に菊枝に起こされた。

「若君、急いで着替えてください。危険が迫っておりますゆえ密かに陣屋を出ます」

 襖が静かに開いて小平太が顔を出した。

「皆寝入っております。さあ、今のうちに参りましょう」

 小平太について陣屋を出ると足早にその場を離れた。

 しばらく歩くと腹が空いてきた。

「ここらで少し休みましょう」

 小平太の勧めで街道脇の草地に腰を下ろすと、

「ゆっくり朝餉を取る暇はございませぬが、これを召し上がってください」

 菊枝が包みを開き握り飯を取り出した。昨夜のうちに作っておいたものだ。

「小平太、何ゆえ逃げねばならぬのだ」

 竹筒の水を飲みながら千代松は問うた。

「若君はお命を狙われたのです。あのまま陣屋におられたら危ういため、こうしてお連れしたのです」

「されば母上のおられる江戸に戻ろう」

 立ち上がって再び街道を進むと、霧の中から追手の武士が現れて行く手を塞いだ。

「若君はわたくしどもが命に代えてお守りいたします」

 小平太がそう言って前に立ち、菊枝は千代松を後ろ手に隠した。

 菊枝に続き小平太までも刃を受けた時、

「飛び降ります、しっかり掴まってください」

 言い聴かせて菊枝は残る気力を振り絞って力の限り飛んだ。

 二人の身体は真下の岩場を避けて水中に落ちた。

 千代松の記憶はそこで途絶えた。

 気が付いたのは美濃助に救われた後だった。

 小平太と菊枝の死は美濃助から知らされたが、その時はもう誰のことだかわからなかった。


 記憶が繋がると怒りと疑問が湧いてきた。

 何ゆえ命を狙われたのか、解明するには誰と会えばよいのか。

 三治は冷静になって考えた。

(敵がはっきりとせぬうちは三治のままでいよう。仁左衛門の正体も湯治場の主人というだけではないようだし)

 翌日も三治として仁左衛門の使いを終え、習慣になっていた岩田道場に寄って素振りの稽古を始めた。

 三治の稽古に何かを感じ取った源兵衛は三治を呼び寄せた。

「三治、殺気が出ているぞ。何かあったのか」

 三治は源兵衛を信頼に足る人物と思っていた。

 矢立から筆を取り出して喜助が斬られたことを書き示した。

「そうか爺さんが殺されたのか。それでおまえは仇を討ちたいのだな」

 三治は大きく頷いた。

「ところでおまえは字が書けるようになったのか」

 三治は正直に紗季から習ったことも付け加えた。

「されど仇討ちは武士に限り許されるものだ。いかに理不尽な仕儀であってもお前はただの人殺しになるのだぞ」

 源兵衛に言われても三治の決意は揺るがなかった。

「よしわかった、おまえに必殺の一手を授けよう。これからその一手のみに専念するのだぞ」

 源兵衛は自ら木刀を握って三治に手ほどきをした。

 薪割で鍛えた身体は木刀を真下に向かって振り下ろすことはできたが、源兵衛が打ち込む木刀に擦り合わせるのは難しかった。

 それは相手から先に打たせる捨て身の戦法であった。

「よいか、敵が刀を横に払ったら間合いを取って決して刃を合わせてはならぬ。上段から振り下ろす時だけ合わせるのだ」

 源兵衛は一時半ほど稽古をつけ、

「できれば道場に住み込んで稽古する方がよいのだがそうも行かぬか」

 と腕を組んだ。

 その三治に転機が訪れたのは十日後のことである。

 三治はいつものように仁左衛門から書状を預かり届け先の宍倉屋敷に行った。

 門番に書状を渡し帰ろうとした時、一人の武士がすれ違って門の中に入った。

 三治は武士の顔を見てその場に立ちすくんだ。忘れもしない喜助を斬った男だ。

「天野様お帰りなさいませ」

 中から門番の声がする。

(そうか喜助じいを斬った武士は天野というのか。帰ったということは此処に住んでいるのか)

 三治の胸に沸々と怒りが湧き上がった。

 心を決めると急いで部屋に戻り荷物をまとめた。喜助の墓に寄って決意を伝え『とみたまの湯』を飛び出した。

 草原を抜けた所で一度振り返り、湯治場と白駒山に別れを告げた。鎮守の森を廻って神社の鳥居の前では深々と頭を下げて成就を祈願した。

 そうして三治は岩田道場の門を叩いた。源兵衛は一文無しの三治を快く迎え入れた。

 源兵衛は平九郎から千代松の生存を聴いたばかりだった。同じ年頃の三治を哀れに思い突き放すことができなかったのである。


 三治は源兵衛のもとで必死に技を磨いていた。

 調べによると天野と呼ばれた武士は天野兵衛あまのひょうえと云い宍倉梅膳の懐刀ふところがたなでタイしゃ流の使い手であった。

 門弟からの報告を聴いた源兵衛は、

「タイ捨流であれば小細工はせずに力で斬り下ろしてくるであろう。使い手といえどむしろ好都合だ。居合だけ気を付ければよい。まずは刀を抜かせることだ」

 と目を細めて唇の端で笑った。

 勝機を感じた源兵衛は木刀から実剣での稽古に切り替えた。稽古用の刀は刃を丸めて切れないようにしてある。

 源兵衛は昼夜を問わず三治を鍛えた。

 この戦いは源兵衛にとっても宍倉に対する仇討ちであった。

 十年前に卑怯な策で剣術指南役を奪った宍倉に、此度は自分が飲んだ苦い酒を逆に飲ませたいのである。

 重臣が釜焚きの少年に討たれたとなれば宍倉の面目は丸つぶれだ。源兵衛の指導に熱が入るのも当然だった。


 十月に入ったある日、天野は宍倉の部屋に呼ばれた。

「剣持様のご息女が単身にて屋敷を出られた。そなたが斬った年寄と共にいた若者のことを案じていたというから行き先は湯治場だろう。嫁入り前の娘ゆえ内密に連れ帰れとの命じゃ、駕籠の用意をしてすぐに出立しろ」

 宍倉の指示を受けて天野が屋敷を出ると、その知らせは源兵衛に届けられた。

「三治、いよいよだ。お前にこの刀を授ける」

 そう言って源兵衛は一振りの刀を差しだした。三治は目をみはって刀を見つめてから源兵衛に視線を移した。

めいはないが良い刀だ。身幅が広く反発しないから相手の刀に擦り合わせるのに相応ふさわしい。重いが長年まさかりを振るってきたおまえなら問題ないはずだ」

 三治は目を閉じ、深く頭を下げた。

「無事に本懐ほんかいを遂げたら此処には帰らずともよい。今までよく頑張ったな、達者で暮らせよ」

 道場を出て行く三治に源兵衛はさらに路銀ろぎんまで渡して見送った。


 三治は先回りして城下のはずれで待った。

 やがて天野が駕籠を従えてやって来て、街道筋に出ようとしたところを三治は行く手を遮った。

「なにやつ、無礼者め。邪魔だ、そこをどけ」

 天野の怒声どせいに表情を変えず、三治は刀を抜いた。

「そうか思い出したぞ、おまえはあの時の釜焚きの小僧か。じじいの恨みを晴らそうというのだな。そもそも身分を弁えずにご家老の娘御に懸想けそうしたおまえが悪いのだ」

 三治は睨みつけたまま刀を正眼に構えた。

「刀を持ったからとて強くなる訳ではないぞ。そんなに死にたいのなら相手になってやる」

 天野は鍔に指をかけて刀を鞘ごと横に寝かせ腰を沈めた。

 居合でくると察した三治も膝を曲げて腰を低くし、わざと間合いを詰めて相手を誘った。

 天野が一気に刀を抜いて胴を払うと三治は後ろに飛んで紙一重で刃をかわした。空を斬った刀は一連の動作で上段から袈裟懸けに斬り下ろされた。

 三治はその時を待っていた。

 三治も切っ先を上げると相手の切っ先に刃を合わせ押し込むように滑らせた。

 天野はその力に驚いた。斬り下ろしたはずの刀はあっけなく弾かれ、半身を開いて無防備の状態になった。

 天野が驚愕の表情を浮かべた時、三治の刀はそのまま突きに変じて天野の首筋を切り裂いていた。

「ぐわっ!」という声を発した天野は信じられないというような眼差しを向けてうつ伏せに倒れた。

 戦いに勝った三治もまた震えていた。

 手から離れない刀を何とか鞘に収めると、

「喜助じい、勝ったぞ!」

 心の叫びが声となった。言葉が出たのだ。

 恐怖によって失った言葉を、再びの恐怖に打ち勝つことで取り戻すことができたのだと三治は悟った。

 三治は捨て身の戦法を授けてくれた源兵衛に心から感謝した。

 それまで腰を抜かしていた駕籠かきが「人殺し~」と叫んで城下の方向へ逃げて行く。

 三治は急いで街道に出ると江戸を目指して歩き出した。

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