第6話  成 就

「岩田源兵衛、おるか!」

 大声で平九郎が道場に入って来た。額から流れる汗が顎からしたたり落ちている。源兵衛は慌てて制すると、

「おぬしは堂々と顔をさらせる身分ではあるまい。追われていることをわきまえよ」

 あきれ顔で言った。

「おう、そうであった。それより良い知らせだ、奥に参れ」

「此処はわしの家だぞ」

 源兵衛がふくれるのを無視して勝手に座敷に入ると腰を下ろした。

「それで良い知らせとは何なのだ」

 源兵衛の問いに平九郎はさすがに声を潜めて、

「若君が生きておられた」

 堪えきれずに笑顔がこぼれた。

「それはまことか、どういうことだ」

「薬売りが助けたそうだ。その息子に富山で会うことができた」

 それを聴くと源兵衛も目を輝かせた。

「それで千代松君は今何処におられる」

「そこまではわからぬ。されど美濃助というその薬売りに会えばわかる。行商から戻るまで待ってはおられぬから、それがしは定宿にしている江戸の旅籠に行ってみる」

 そう言うと平九郎は立ち上がった。

「そう慌てるな、ところで祥法院様には知らせたのか」

 源兵衛の問いに平九郎は黙って首を横に振り、廊下に立ったまま庭に咲く桔梗ききょうの花に目を移した。

 薄紫の桔梗ききょうの花の色は祥法院の頭巾に似ている。

 平九郎の心には最後に見た祥法院の不安げな白い顔が浮かんでいた。

「いや、敵味方がはっきりするまでは迂闊うかつに書状も送れまい。知ればどんなに喜ばれることか」

 しみじみと言う平九郎の肩を源兵衛は軽く叩いた。

「とにかく苦労が実ったな、平九郎」

 友のねぎらいに涙をうるませ、平九郎は振り返らずに江戸に向けて旅立った。


 平九郎は最初の旅籠で陰から見つめる目があることに気付いた。討っ手は二人だった。

 翌朝、宿を出て峠道に差し掛かると敵は三人に増えていた。

 二人が刀を抜いた。残る一人は見聞役けんぶんやくのようだ。

「おぬしらも辛い役目を負ったな。互いに武士のさだめならばここらで勝負といくか、恨みっこなしだぞ」

 平九郎が言うと、

「切腹が怖くて逃げだした臆病者が何を偉そうに」

 見聞役が口をゆがめて嘲笑あざわらった。

 平九郎が下段に構えると、二人が左右から同時に打ち込んできた。

 僅かな間合いで刃をかわすと一人の刀を跳ね上げ、戻す刀をもう一人の手首に斬り下ろした。

 腱を斬られて刀を落とすのを見定め、片足を軸に反転すると身を沈めて残りの武士の太腿を斬った。

 二人とも痛みをこらえてその場に転がった。

「あとは任せたぞ、御免ごめん

 平九郎は見聞役の武士に二人の介抱をゆだねると足早に立ち去った。

(これで祥法院様の屋敷には容易に近づけぬな)

 先を急ぎながら祥法院に会う手立てを考えていた。


 平九郎は幾度も道筋を変えながら何とか江戸に辿り着くと、真っ先に美濃助を訪ねて『柏屋』という旅籠に入った。

 水を運んできた女中に、

「此処に美濃助という薬売りが泊っておらぬか」

 と意気なり大声で尋ねるものだから、女中はすっかりおびえてしまった。

 聞きつけた番頭が奥から出て来て交代した。

「お武家様、美濃助さんとはどういったご関係で」

 覗き込むように訊く番頭に平九郎は身なりを正した。

「これはやぶから棒に失礼した。それがしは野尻平九郎と申す。美濃助殿には孫が世話になり、礼を言いたくて参ったのだ」

 騒ぎを起こされるのではないかと案じていた番頭は、安心したようで温和な顔になった。

「でもどうして当旅籠におられるとお思いですか」

「うむ、美濃助殿がこちらを定宿にしておると富山で息子殿に聞いてな」

「そうでしたか」番頭は少し困ったように、

「確かに江戸にはいらしていますが、こちらへは十日後くらいになるかと思います」

 と説明した。

「では今はどちらにおいでかな」

「さあ、江戸と言っても美濃助さんは遠く多摩の方まで足を延ばしていますから何処にいるやら」

 平九郎は番頭の言葉にがっくりと肩を落とした。

「お武家様、こちらでお待ちになれば富山に帰る前には必ず寄られますからきっと会えますよ」

 気の毒に思った番頭は励ますように言った。

「ではそれまで世話になるか」

 平九郎が草鞋を脱ぐと、先ほどの女中が今度は元気よく「いらっしゃいませ」と言いながら足洗のたらいを持ってきた。


 翌朝、深編笠を被った平九郎は祥法院の屋敷に行ってみた。

 遠くから見渡すと屋敷の周りは武士たちが配備されていた。

 祥法院を警護しているのではない、平九郎が現れるのを待っているのだ。

 平九郎は屋敷を諦め、亡き先代藩主『典親』の菩提寺『善勝寺ぜんしょうじ』に向かった。

 善勝寺は表通りから入り込んだ石畳の参道を抜けた所にあり、山門をくぐると境内に面して本堂があり庫裏こりや書院が並んで建っている。背後は竹林に覆われていた。

 平九郎はまず境内を廻り込んで先代藩主の墓参りをすると、庫裏にいる住職を訪ねた。

「それがしは高杉藩元藩士で野尻平九郎と申します。先代の典親様のご葬儀では祥法院様の側用人として控えておりました」

 住職の滋慶じけいはまじまじと平九郎の顔を見た。

「おお、思い出した。確かに祥法院様の背後に控えておった。して今は藩士ではないのかな」

 平九郎は滋慶の人格を信じて話すことにした。

「実は祥法院様の命で脱藩し、密かに亡くなったとされる千代松君の行方を捜しておりました」

「そうじゃったか。苦労をしたのだな、顔に出ておる」

 滋慶は目尻を下げていたわるように言った。

「されどその甲斐かいあって若君の生存を確認できました」

 平九郎のこぼれるような笑みに滋慶は合掌して目を閉じた。

「御仏のご加護があったのじゃな。ところで拙僧せっそうに何をせよと」

「祥法院様とこちらでお目にかかりたいのです。お屋敷の周りにはそれがしを会わせまいとする者たちが固めておるゆえ容易に近づくことができませぬ」

 ここは滋慶にすがるしかないと考え平九郎は懇願した。

「されば十日後、ご先代の命日となるゆえ祥法院様は必ず墓参される。その折に此処で会えるように計らいましょう」

「かたじけのうございます。ところで命日には泉寿院様も参られますか」

 泉寿院には千代松のことを知られたくはなかった。

「泉寿院様とは七回忌の法要以来お目にかかってはおらぬ。薄情なものじゃて、祥法院様は月命日にも参られるというに」

 滋慶は泉寿院を好ましくは思っていないようだ。平九郎にとっては好都合であった。



 先代藩主命日の前日になり柏屋に美濃助が戻って来た。

 女中の知らせに平九郎はうろうろと畳が擦り切れるほど歩き回り、美濃助が部屋に入るとすぐさま訪ねた。

「失礼いたす、美濃助殿でござるか。それがしは野尻平九郎と申す」

 荷を下ろしたばかりの美濃助が、目を丸くしてのけぞるのにもかまわず平九郎は続けた。

「昔、武士の子を助けたと三吉殿から伺い此処で待っており申した。八年ほど前になるが憶えておいでかな」

「憶えておりますとも、ところで……あなた様はどういった関わりのお方でございますか」

 事件がただ事でないだけに美濃助は恐る恐る尋ねた。

「子をまもって死んだはそれがしのせがれ、野尻小平太でござる」

 それを聴いて美濃助は驚いた後、正座して丁寧に頭を下げた。

「ご子息様のことは残念でなりません。敵が女子供まで殺そうとしなければ、ご子息様の腕前なら勝てたはずです」

「なんと、敵は最初から皆殺しにするつもりだったのか」

 平九郎は追手が千代松を殺害する目的であったことを知り、謀反の疑いを持った。

「幸いなことにお孫様は生きていらっしゃいますよ」

 美濃助はせめてもの慰めにと千代松を助けた経緯いきさつを語り始めた。

 千代松に三治と名付けたこと、湯治場の釜焚きとして預けたことを伝えた。

 そして記憶と言葉を失っていることを告げると、平九郎の口から悲しみのため息が漏れた。

「美濃助殿、その三治は本当の名を千代松と云って高杉藩の藩主となられるお方だったのでござる」

 美濃助はもう驚きを通り越し、青ざめた顔で震え出した。

「それではわたくしはお大名の若様を釜焚きにしてしまったのですか」

 恐れおののく美濃助に、平九郎は両手を伸ばして制した。

「ご自分を責める必要はござらぬ。そなたの気転があればこそ生き抜くことができたのだ」

 平九郎がその行動に感謝の意を告げると、美濃助は幾分か落ち着きを取り戻した。

「若君は今も元気に過ごされているのだろうか」

 平九郎は立ち上がって、開け放った障子の窓から澄んだ空を見上げた。

「今頃は野に咲く花の平原を通って山から焚き木を集めているでしょう。間もなく山の者が運んでくる薪をせっせと割って、越冬の準備が始まると思います」

 美濃助も遠い空を見ていた。

 平九郎は静かに向き直ると、

「美濃助殿、明日はそれがしに同行していただけぬか」

 と頼んだ。美濃助は不思議な顔をした。

「どちらへでございますか」

「千代松君の母君様のところだ。今は出家して祥法院様と名乗っておられる」

 それには素早く反応して美濃助は顔の前で手のひらを横に振った。

「そのような身分の高いお方にお会いするなど滅相めっそうもないことでございます」

「祥法院様とてただの母親でござる。我が子のことを直接そなたから聴きたいはずだ。それがし一人であれば、何故恩人を連れてこぬと叱られるであろう。頼む、美濃助殿」

 美濃助は困り果てたが、平九郎の必死の願いを断り切れずに引き受けることにした。


 そして翌朝、古着屋で買い求めた羽織袴を着て身なりを整えた二人は善勝寺へ向かった。

 本堂ではすでに命日の法要が行われており、経を読む滋慶の声が響いていた。

 平九郎と美濃助は書院に入り、平九郎は座敷に美濃助はその外で待機した。

 やがて法要が終わると茶を喫するため祥法院は書院を目指した。

「野尻平九郎殿が待っておられます」

 一歩後ろから滋慶が小さな声で告げた。

「わかりました」

 と落ち着いて言いながらも祥法院は歩調を速めた。

 そして書院が近くなると、同行者たちは庫裏で待つようにと指示を受けた。

 祥法院は座敷に入るやはやる心を押さえて上座に座った。

「久しいのう、平九郎。さあ顔を見せておくれ」

 平九郎は身体を起こして祥法院を仰ぎ見た。

「お懐かしゅうございます。長らくお待たせいたしましたが、此度はそのご報告に参上仕りました」

「長い間苦労をかけましたね、さぞ難儀な日々だったでしょう」

 祥法院は平九郎の日に焼けた顔の深い皺を見て、報告の内容より労をねぎらうことを優先した。

「勿体なきお言葉に苦労など何処かに飛んで行ってしまいました。そして更に報われる朗報がございます」

 祥法院は期待に身を乗り出した。

「千代松君は生きていらっしゃいます」

 その一言で祥法院は胸を押さえ安堵あんどのため息を漏らした。

「して今は何処におるのじゃ。すぐに会いたい」

「それがしもまだお会いしておりませぬが、若君は北信濃の山中にある湯治場で釜焚きをされているとのことでございます」

 思いもよらぬ千代松の境遇に祥法院は驚いた。

「何ゆえ釜焚きなどという仕儀しぎになるのです、説明しておくれ」

「若君はお命を狙われたのでございます。若君を救い安全な場所へかくまったのは薬の行商人である美濃助なる者の気転にございます」

 平九郎は美濃助に出会うまでの経緯や、美濃助から聴いた話を掻い摘んで話した。

「千代松はさぞや恐ろしい思いをしたであろうのう」

「祥法院様、お心を強くお持ちくださいませ。今や若君はその恐ろしさも知りませぬ。美濃助の話では一切の記憶がなく、言葉も失って話すことができないそうでございます。恐らくあまりに残忍な出来事にお心が耐えられなかったのかと存じます」

 祥法院は「不憫な子」と一言発して涙をにじませた。

「本日は美濃助を同行させております。当時の詳しい話をお聴きくださいませ」

 そう言うと平九郎は一度座敷を出て、美濃助を伴って戻って来た。

 美濃助は固くなって平九郎の後ろに座して平伏した。

「こちらが若君を救った美濃助殿でございます」

 平九郎が紹介すると、祥法院は穏やかな顔で、

「美濃助さん、顔を上げてください。此処にいるのはただの母親です。千代松の話を聴かせてください」

 と美濃助が話しやすいように優しく促した。

 美濃助は顔を上げ、

「それでは不調法な言葉遣いをお許しいただけるならお話し申し上げます」

 前置きしてから話し始めた。

 街道筋の惨劇から湯治場へ預けるまでをつまびらかに伝えた後、美濃助は畳に手を付き頭を下げた。

「知らぬこととはいえお大名の若様に古着を着せたり、釜焚きの職に就けたご無礼をどうかお許しくださいませ」

 祥法院はゆっくりと顔を横に振ると、

「よいのです。そなたの気転があったればこそ千代松は生きながらえることができました。咎められることではありませぬ。ところで何ゆえ親子連れと思ったのですか」

 と感謝の意を告げそして問うた。

「それはお付きの方が瀕死の状態でありながらも若君様をしっかり抱いて、水中に沈んだご自身の胸の上で若様の呼吸を確保したお姿からです。わたくしにはそれがまぎれもない母親の情と思えました」

 祥法院の目には涙が溢れ頬から流れ落ちた。

「菊枝……ありがとうよ。千代松を赤子の時から面倒を見てきたお前も母だったのですね」

 瞼を閉じれば、庭を走り回る幼い千代松を笑顔で追いかける菊枝の姿が浮かんでくる。

 祥法院もまた菊枝を妹のように可愛がってきたのであった。

 美濃助は祥法院の気持ちが落ち着くまで待ってから話を続けた。

「若様は喜助という釜焚きの老人の下で働いています。喜助さんは優しい人で若様を孫のように可愛がり、きつい仕事は一切させることがありません。わたくしは湯治場へ薬を卸しておりますので毎年同じ時期に訪ねております。その折に様子を伺っておりますが、いつも笑顔で元気にされておいでです。喜助さんの話では風邪ひとつ引いたことがないそうです」

 祥法院の顔に明るさが戻った。

「千代松はもう十七ですから身体もさぞや大きくなったことでしょうね」

「はい、それはもう力仕事をされてきましたから筋骨たくましく背丈も大人以上でございます」

 美濃助が答えると、祥法院は平九郎に視線を向けた。

「平九郎、千代松を連れて参ることは叶いませぬか」

 平九郎にはすぐにでも会いたいと願う祥法院の気持ちが痛いほどわかったが、それだけは聞き入れる訳にはいかなかった。

「お気持ちはわかりますがこれは謀反にございます。企ての首謀者を突き止め根を絶たねばなりませぬ。それまではお命の危険が付きまといます。お辛いでしょうがご辛抱願います」

「すまぬ平九郎、わたくしが愚かでした。せめてそなただけでも会って千代松を守っておくれ。そして謀反の真相を暴くのです」

「はっ、必ずや。美濃助殿にはもう一仕事、案内役をお願いしてございます」

 美濃助は頭を下げて承知している旨を示した。

「美濃助さん、よろしゅう頼みます」

 祥法院は側近を呼び金子を包んだ袱紗ふくさを持ってこさせた。

「これは千代松が頂戴した着物代です。ご子息の楽しみを奪ったお詫びでもあります。今更ですがご子息の土産としてください」

 そう言って自ら美濃助に手渡した。

 美濃助は恐縮して平九郎と目を合わせた。平九郎が微笑んで頷くと、

「勿体なきお言葉でございます。せがれにまで過分なお心遣い、ありがたく頂戴いたします」

 美濃助の目にも涙が滲んだ。


 寺を出て行く二人を祥法院は境内まで出て来て見送った。

 祥法院は傍らに立つ滋慶に、

「ご住職、申し訳ありませぬが急な入り用がありました。お布施は後ほど届けさせます」

 山門に目をやったまま告げた。

「どうぞ、よしなに」

 滋慶もまた山門を見たままだ。

 どちらの顔も晴れやかに微笑んでいた。

 元禄十四年九月二十日のことであった。

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