第5話  使いの後

 三治は溢れるほどの知識を得ると、実際に世の中を見たくなった。

 すると折よく主人の仁左衛門から用を言い渡され町へ使いに出された。

 仁左衛門としては読み書きができず口もきけない三治が秘密保持の上で最も都合が良かった。それで三治が使いのできる年齢になるまで待っていたのだ。

 三治が初めての使いに出された時、同行したのは番頭であった。

 番頭は道を教えながら歩き、届け先の門の横に小さく◎印があるのを示した。そして書状に書かれた◎印を見せて、

「よいか、お前は字が読めぬからこの書状にある印の家に届けるのだ」

 そう言うと門を叩いた。

 くぐり戸が開いて目つきの悪い門番が顔を出した。番頭は一言も発さずに門番に書状を渡すと先を急いだ。

 次は町の小間物屋で軒下の壁に〇印があり、三軒目の大工の家には△印が彫られていた。

 どの家も皆黙って書状を受け取るとすぐに戸を閉めた。そしてすべてを回り終えると、

「次からは一人で来るのだ。家の場所はしっかりと覚えておくのだぞ」

 番頭は厳しい目をして言うと帰路についた。

 

 三治は十日に一度の割合で使いに出された。

 その都度目にする町の風景は、書物では得られぬ貴重な体験だった。町の人々の暮らしぶりや商家の店構えなどを見物していると、つい時間を費やしてしまい帰りが遅いと番頭から叱られた。

 しかし一年も経つと使いの度に小銭を貰えるようになり、寄り道をしても叱られなくなった。

 三治は思い立って岩田源兵衛の道場に顔を出した。

「三治ではないか、町に用事か」

 門弟が気付いて声を掛けた。

 三治は笑顔で首を縦に振ると、両手を上にあげて振り下ろす動作をして見せた。

「剣術を習いたいのか、ついて参れ」

 門弟は三治を源兵衛の所へ連れて行った。

「わしが誘ったのだ、稽古料はいらぬ。時間が取れる時に来ればよい」

 そう言って源兵衛は道場の端で木刀の素振りを教えた。

 それからというもの、三治は町に来ると必ず道場で一時ほど汗をいて行くようになった。


 使いに出されたある日のことである。仁左衛門は書状に封をするのを忘れた。三治が字を読めないことへの油断からだった。

 三治は神社の境内でその中身を読んだ。◎印の書状は宍倉梅膳に宛てたものだ。

『八年になるというに謀反むほん把握はあくしておきながら未だ取り潰せぬとは何事とご老中がれておる。我らは陰の身ゆえ証言者にはなれぬから、改易かいえきに追い込むためには謀反の確たる証拠を何としても手に入れるのだ』というような叱責の内容であった。

 三治の学問としての知識では書状の内容を理解することはできなかった。

 その時は単に理解できないことが悔しくて急いで書き写すと、弁当の握りめしを少し口に含み噛んで溶かしてから指で塗って封をした。

 書状を届けてから仁左衛門の部屋に行くと、

「戻ったのか、無事に届けたのだな」

 三治はこくりとうなずいた。

「よし、駄賃だ」

 そう言って小銭を渡した。仁左衛門は何も気付いてはいなかった。

 三治は部屋に戻ると作業着に着替えて釜場へと向かった。

 手には駄賃を貯めて買った安物の髪飾りを持っている。紗季へ渡すつもりであった。

 秋になり、紗季は明日城下の屋敷に帰る。すでに迎えの駕籠と護衛の武士が来ていた。

 紗季と過ごせる今年最後の午後であった。

 ところが待っているはずの紗季がいない。三治は周囲を捜した。

 紗季は湧水池にいた。洗濯用の桟橋で水に落とした下駄を拾い上げようと手にした小枝を伸ばしている。

 三治が心の中で「危ない!」と叫んだ時、紗季はすでに池に落ちていた。

 三治は急いで駆け寄り水に飛び込んでもがく紗季を水中から抱き上げた。幸い池はさほど深くはなく三治の顔は水面より出ていた。

 一瞬、三治はこのように水から顔だけ出していた記憶がよみがえった。

 紗季を桟橋に戻して自分も水から上がると、一人の武士が走って来た。

「無礼者!お嬢様に何ということをしたのだ」

 そう叫ぶと抜刀して三治に向かってきた。

 刀が振り下ろされた時、間に入ったのは喜助だった。両手を広げて三治をかばった喜助は肩から胸までを深く斬られ即死だった。

 三治はみるみる記憶のうずの中に引きずり込まれて行き、そのまま気を失った。


 三治が目を覚ましたのは翌朝だった。

 目を開けるとかたわらには紗季がいて青白い顔で三治を見つめていた。どうやら一睡もしていないようだ。

「三治さん、ごめんなさい。すべてわたくしのせいです」

 紗季は泣きながら詫びた。

 長い夢から覚めたようなうつろいの中で、三治は昨日のことが現実であることに気付いた。

 三治は布団から飛び出すと釜場へ走った。喜助の姿は何処にもなかった。

 追いついた紗季が震える三治の手を取って歩き出した。

 喜助の墓は裏山の裾にあった。丸く盛られた土の上にはささやかな墓標が立てられている。

 墓を見るなり三治は腹這はらばいになり、両手で抱えるようにして泣いた。

 言葉にならない声は狼の遠吠えのように山々にこだました。

 紗季はどうしてよいかわからず、三治を後ろから抱きしめることしかできなかった。

「先ほどお坊様に経を上げていただいたの」

 耳元でささやくように告げると三治は力なく起き上がった。

 改めて正座をすると紗季が差し出す線香を手向けて合掌した。

 いつまでもその場から離れようとしない三治の背中を見つめる紗季に、

「お嬢様、そろそろ」

 付き人が催促する。紗季は後ろ髪を引かれるように駕籠に乗り込んだ。

「三治さん、必ず戻って来ます。待っていてくださいね」

 遠のく籠から紗季の声がする。その声は別れの言葉のようにも聞こえた。

 渡しそびれた髪飾りがふところの中で折れている。

 もう紗季には会えないような気がした。

 何かが大きく動き出そうとしている。三治はすべての記憶を取り戻していた。

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