第2話 悲 報
江戸では高杉藩主である
そこに藩の江戸屋敷より知らせが届いた。使いは大目付、
「香取殿、何用ですか」
祥法院が尋ねると香取はひれ伏したまま答えた。
「国元からの
祥法院の顔からはみるみる血の気が引き、唇が震えた。
「つい先日、新たな藩主になるため国元へと送り出したばかりだというに、何ゆえかようなことになるのです。捜索は続けておろうな」
祥法院のやり場のない悲しみは怒りに変わっていた。
「人数をかけて
香取の報告に、がっくりと肩を落としながらも祥法院は理解に苦しんだ。
「拉致した二人の家族への処分は
「両家とも家禄・財産は没収、野尻小平太の父である
それを聴くと祥法院は背筋を伸ばし香取を見据えた。
「いまだ子細がわからぬうちから処分が早くはないですか?まあ良いでしょう、野尻平九郎に会いたい。野尻も武士です、逃げも隠れもしないはずです。明日、我が屋敷に参るよう伝えなさい。切腹前に言っておきたいことがあります」
「はっ、
香取は祥法院が平九郎を呼んだのは恨み言でも言いたいのであろうと高を
「いま一つ申し上げたき
「申してみなされ」
「来月殿の四十九日法要を待って、ご次男の
香取は祥法院に何の配慮もなく、眉ひとつ動かさずに告げた。
「
呟くと祥法院の頬に一筋の涙が流れた。
「ご公儀から早く藩主を立てよとの催促でございます。我らは祥法院様のお気持ちを察し、千代松君の葬儀を先延ばししておるのでございます」
吐き気がするほどの香取の態度に、祥法院はもう話す気力を失くしていた。
祥法院は香取弥七郎が去るとその場に泣き崩れた。侍女の手を借りなければ立ち上がれないほどであった。
翌日、野尻平九郎は祥法院を訪ねた。
「
平九郎は平伏したままで言った。
「平九郎、
平九郎は祥法院の顔が見られる最後の機会だと思って顔を上げた。祥法院は澄んだ目で見つめている。
「小平太のことはさぞや無念であろうな。わたくしは国入りに際し小平太と菊枝を同行させて千代松を守るよう命じた。恐らく
平九郎の目に涙が溢れた。
「勿体のうございます。されど守り切れなかったことが咎にございます。腹を切るぐらいで済むことではありませぬ」
すると祥法院は少しうつむくと辛い表情で唇を噛んだ。
「死んではなりませぬ。いえ、わたくしは死よりもっと酷なことを願おうとしております」
「何なりと」
「そなたにはこのまま脱藩して国元へ行ってもらいたいのです。そして事の真相、千代松の行方を捜してはもらえまいか」
平九郎はそれが何を意味するのかわかっていた。それは切腹が怖くて逃げだした
「承知
平九郎は覚悟を決めた。
「武士は面目がすべてと承知しておるが頼れるのはそなたしかいないのです。許しておくれ」
祥法院は心から詫びた。
「武士の面目とは己の心中にあるもの。忠義を尽くせば面目は立つのでございます」
静かに落ち着いて言うと、平九郎は改めて深く頭を下げた。
平九郎は暗くなるまで待って密かに屋敷を出た。
祥法院はその夜、実家の父に書状をしたため平九郎の残された家族と菊枝の家族を匿うよう手配したのであった。
野尻平九郎はその十三日後、国元の城下に入った。
最初に向かったのは町はずれの道場であった。道場主は平九郎と剣の修業をした
十二年前、お千代の方の
そのような時に気さくに声を掛けてきたのが、当時江戸詰めだった源兵衛だ。
二人は剣の使い手であったため、剣術談義に花を咲かせ意気投合した。
そして藩の道場で共に
平九郎はお千代の方に源兵衛を紹介すると、やがて開催された江戸屋敷内にての御前試合に鳴り物入りで登場した源兵衛は見事に優勝を手にした。
国元の剣術指南役が高齢で交代時期にあったため、源兵衛はとんとん拍子にその後任となったのだった。
平九郎は十年ぶりとなる源兵衛の姿を
稽古を
「平九郎ではないか!久しいのう。国元へは何の用だ」
相変わらず
「よし、中で話そう」
源兵衛は察して平九郎を座敷に通すと、稽古を終わらせて戻って来た。
「何があったのか話してみろ」
平九郎は国元に来た訳をすべて話した。
「そうか、ご子息がな……辛かったな」
源兵衛は神妙な面持ちでそう言うと立ち上がって、
「茶より酒の方が良さそうだな」
と台所に消えた。
源兵衛は自ら酒を運んでくると、
「おぬしと酒を飲むのは久しぶりだ。実はわし自身も暫く飲んでいないのだ」
平九郎に酒を注ぎながら言った。
「それはまた何故だ、おぬしの酒好きはそれがしが一番わかっておる」
平九郎の問いに源兵衛は苦笑いをした。
「わしが剣術指南役を辞したことは耳にしているであろう。あれ以来酒はやめたのだ」
源兵衛は二年前まで藩の剣術指南役を務めていた。
その頃、国家老の剣持玄馬は他家から流れてきた一刀流の使い手、
ある日、宍倉は密かに探索をしていた
合議はすぐには決まらず、木刀による試合でということになった。
試合前日の晩、剣持の屋敷に呼ばれた源兵衛は勧められるままに深酒をして翌朝の試合に負けた。
「試合の前日だというに何故かように飲んだのだ。適量を知らぬおぬしではあるまいに」
平九郎は不思議に思った。
「今思うにわしとしては翌朝に影響するほど飲んではいなかった気がする。試合の時も頭痛が
源兵衛は当時を思い出して悔しさが
「剣持様が前夜に招待したのも解せぬ」
平九郎が言うと源兵衛も、
「うむ、一服盛られたやもしれぬな。しかしすべては酒に意地汚いわしが悪いのだ。わしを推挙したおぬしや取り立ててくれた早見様に顔向けができず以後は酒を断ったのだ」
と言って頭を下げた。
早見とは次席家老の
私欲を持たない実直な武士であるため、すべてを損得で判断する剣持派の家臣らはことごとく反発していた。
「とにかくわしのことより今はおぬしだ。これからどうするつもりだ」
源兵衛は話を変えて
「まずは事件の起きた場所で目撃した者を探したい。千代松君はまだ九歳だ、一人では生きられぬ。助かったとしたら世話をしている者がいるはずだ」
平九郎が少し考えてから言うと、
「よし、ならば門弟たちにその場所が何処であるか探らせよう」
源兵衛も意気込んだが、自ら気を落ち着かせると声を潜めた。
「しかし気をつけろ、おぬしはもはや逃亡した咎人だ。討っ手が探しているはずだからな。そしてこの辺りには公儀の隠密もおるらしい。奴らは江戸を中心に
「よし、心得た」
平九郎は神妙に答えた。
「とにかく、おぬしは此処を拠点にして動けばよい。ついでに門弟たちにも稽古をつけてくれよ」
「かたじけない、世話になり申す」
平九郎は道場の離れに暮らすこととなった。
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