第2話  悲 報

 江戸では高杉藩主である篠田典親しのだのりちか急逝きゅうせいにより、出家した正室のお千代の方は祥法院しょうほういんと改名して別邸に移っていた。

 そこに藩の江戸屋敷より知らせが届いた。使いは大目付、香取弥七郎かとりやしちろうであった。

「香取殿、何用ですか」

 祥法院が尋ねると香取はひれ伏したまま答えた。

「国元からの火急かきゅうの知らせにございます。十二日前、千代松ちよまつ君のお国入りに際し、宿場本陣より野尻小平太のじりこへいた菊枝きくえの両名が若君を拉致らちし逃走いたしました。すぐに追手が差し向けられ両名を斬り捨てて若君を救出しようとしたところ、重傷を負った菊枝が若君を抱えて谷川に身を投げたとのことでございます。菊枝の遺体は堰に阻まれておりましたが、千代松君は増水した川の堰を乗り越えて下流へ流されたものと思われます」

 祥法院の顔からはみるみる血の気が引き、唇が震えた。

「つい先日、新たな藩主になるため国元へと送り出したばかりだというに、何ゆえかようなことになるのです。捜索は続けておろうな」

 祥法院のやり場のない悲しみは怒りに変わっていた。

「人数をかけてはるか下流まで探しましたが見つからず、ご公儀の目もあれば国家老の剣持玄馬けんもつげんば様は捜索を打ち切られましてございます」

 香取の報告に、がっくりと肩を落としながらも祥法院は理解に苦しんだ。

「拉致した二人の家族への処分は如何いかがしたのですか」

「両家とも家禄・財産は没収、野尻小平太の父である平九郎へいくろうには切腹の沙汰が下されました。菊枝は女人の身で首謀しゅぼうしたとは考え難く、その父と兄は切腹を免れております」

 それを聴くと祥法院は背筋を伸ばし香取を見据えた。

「いまだ子細がわからぬうちから処分が早くはないですか?まあ良いでしょう、野尻平九郎に会いたい。野尻も武士です、逃げも隠れもしないはずです。明日、我が屋敷に参るよう伝えなさい。切腹前に言っておきたいことがあります」

「はっ、うけたまわりましてございます」

 香取は祥法院が平九郎を呼んだのは恨み言でも言いたいのであろうと高をくくっていた。

「いま一つ申し上げたきがございます」

「申してみなされ」

「来月殿の四十九日法要を待って、ご次男の郁松いくまつ君が元服され藩主となられます。そしてご公儀の命によりご生母であらせられます泉寿院せんじゅいん様が江戸屋敷に入られます。藩主の家族が江戸に住まうはご公儀の習わし、妻子がなくばやむを得ぬかと存じます」

 香取は祥法院に何の配慮もなく、眉ひとつ動かさずに告げた。

嫡男ちゃくなんである千代松の生死がわからぬうちに、何という不忠者どもめが……」

 呟くと祥法院の頬に一筋の涙が流れた。

「ご公儀から早く藩主を立てよとの催促でございます。我らは祥法院様のお気持ちを察し、千代松君の葬儀を先延ばししておるのでございます」

 吐き気がするほどの香取の態度に、祥法院はもう話す気力を失くしていた。

 祥法院は香取弥七郎が去るとその場に泣き崩れた。侍女の手を借りなければ立ち上がれないほどであった。


 翌日、野尻平九郎は祥法院を訪ねた。

此度こたびはせがれ小平太の不始末、お詫びのしようもございませぬ。咎人とがにんでありながらお目見えを賜り、有難き幸せに存じます」

 平九郎は平伏したままで言った。

「平九郎、おもてを上げなされ。そなたはわたくしが嫁いだ時、父上に命ぜられてずっとわたくしを守ってくれました。その忠義、忘れてはおりませぬ」

 平九郎は祥法院の顔が見られる最後の機会だと思って顔を上げた。祥法院は澄んだ目で見つめている。

「小平太のことはさぞや無念であろうな。わたくしは国入りに際し小平太と菊枝を同行させて千代松を守るよう命じた。恐らく出奔しゅっぽんせざるを得ない何かが生じたのであろう。二人の忠義はそなた同様疑ったことなどないのですよ。自ら咎人などと言うてはなりませぬ」

 平九郎の目に涙が溢れた。

「勿体のうございます。されど守り切れなかったことが咎にございます。腹を切るぐらいで済むことではありませぬ」

 すると祥法院は少しうつむくと辛い表情で唇を噛んだ。

「死んではなりませぬ。いえ、わたくしは死よりもっと酷なことを願おうとしております」

「何なりと」

「そなたにはこのまま脱藩して国元へ行ってもらいたいのです。そして事の真相、千代松の行方を捜してはもらえまいか」

 平九郎はそれが何を意味するのかわかっていた。それは切腹が怖くて逃げだした卑怯者ひきょうもの、武士の恥さらしという肩書をつけられることであった。

「承知つかまつりました」

 平九郎は覚悟を決めた。

「武士は面目がすべてと承知しておるが頼れるのはそなたしかいないのです。許しておくれ」

 祥法院は心から詫びた。

「武士の面目とは己の心中にあるもの。忠義を尽くせば面目は立つのでございます」

 静かに落ち着いて言うと、平九郎は改めて深く頭を下げた。

 平九郎は暗くなるまで待って密かに屋敷を出た。

 祥法院はその夜、実家の父に書状をしたため平九郎の残された家族と菊枝の家族を匿うよう手配したのであった。



 野尻平九郎はその十三日後、国元の城下に入った。

 最初に向かったのは町はずれの道場であった。道場主は平九郎と剣の修業をした岩田源兵衛いわたげんべえである。

 十二年前、お千代の方の側用人そばようにんとして他家よりやって来た平九郎は家臣の武士たちといつまでも馴染めずにいた。

 そのような時に気さくに声を掛けてきたのが、当時江戸詰めだった源兵衛だ。

 二人は剣の使い手であったため、剣術談義に花を咲かせ意気投合した。

 そして藩の道場で共に稽古けいこに明け暮れ、源兵衛は平九郎をしのぐ達人となった。

 平九郎はお千代の方に源兵衛を紹介すると、やがて開催された江戸屋敷内にての御前試合に鳴り物入りで登場した源兵衛は見事に優勝を手にした。

 国元の剣術指南役が高齢で交代時期にあったため、源兵衛はとんとん拍子にその後任となったのだった。

 

 平九郎は十年ぶりとなる源兵衛の姿をなつかかしく眺めていた。

 稽古をのぞいている平九郎を先に見つけたのは源兵衛だった。

「平九郎ではないか!久しいのう。国元へは何の用だ」

 相変わらず屈託くったくのない笑顔だ。平九郎は友の顔を見て初めて涙が滲んだ。

「よし、中で話そう」

 源兵衛は察して平九郎を座敷に通すと、稽古を終わらせて戻って来た。

「何があったのか話してみろ」

 平九郎は国元に来た訳をすべて話した。

「そうか、ご子息がな……辛かったな」

 源兵衛は神妙な面持ちでそう言うと立ち上がって、

「茶より酒の方が良さそうだな」

 と台所に消えた。

 源兵衛は自ら酒を運んでくると、

「おぬしと酒を飲むのは久しぶりだ。実はわし自身も暫く飲んでいないのだ」

 平九郎に酒を注ぎながら言った。

「それはまた何故だ、おぬしの酒好きはそれがしが一番わかっておる」

 平九郎の問いに源兵衛は苦笑いをした。

「わしが剣術指南役を辞したことは耳にしているであろう。あれ以来酒はやめたのだ」


 源兵衛は二年前まで藩の剣術指南役を務めていた。

 その頃、国家老の剣持玄馬は他家から流れてきた一刀流の使い手、宍倉梅膳ししくらばいぜんを屋敷においていた。

 ある日、宍倉は密かに探索をしていた公儀隠密こうぎおんみつを斬って手柄を上げた。すると剣持はそれを機に宍倉を剣術指南役にと推挙したのだ。

 合議はすぐには決まらず、木刀による試合でということになった。

 試合前日の晩、剣持の屋敷に呼ばれた源兵衛は勧められるままに深酒をして翌朝の試合に負けた。

「試合の前日だというに何故かように飲んだのだ。適量を知らぬおぬしではあるまいに」

 平九郎は不思議に思った。

「今思うにわしとしては翌朝に影響するほど飲んではいなかった気がする。試合の時も頭痛がひどく、早く終わらせようとあせって先に打ち込んでしもうた」

 源兵衛は当時を思い出して悔しさがよみがえった。

「剣持様が前夜に招待したのも解せぬ」

 平九郎が言うと源兵衛も、

「うむ、一服盛られたやもしれぬな。しかしすべては酒に意地汚いわしが悪いのだ。わしを推挙したおぬしや取り立ててくれた早見様に顔向けができず以後は酒を断ったのだ」

 と言って頭を下げた。

 早見とは次席家老の早見徳之進はやみとくのしんのことである。早見は江戸家老として江戸屋敷を厳しく仕切る責任者だ。

 私欲を持たない実直な武士であるため、すべてを損得で判断する剣持派の家臣らはことごとく反発していた。


「とにかくわしのことより今はおぬしだ。これからどうするつもりだ」

 源兵衛は話を変えていた。

「まずは事件の起きた場所で目撃した者を探したい。千代松君はまだ九歳だ、一人では生きられぬ。助かったとしたら世話をしている者がいるはずだ」

 平九郎が少し考えてから言うと、

「よし、ならば門弟たちにその場所が何処であるか探らせよう」

 源兵衛も意気込んだが、自ら気を落ち着かせると声を潜めた。

「しかし気をつけろ、おぬしはもはや逃亡した咎人だ。討っ手が探しているはずだからな。そしてこの辺りには公儀の隠密もおるらしい。奴らは江戸を中心に譜代ふだい大名で固めようとしておる。この北信濃でも近年、取り潰しにあって所領が幕府直轄かあるいは譜代の支藩になった例がいくつもある。口実を与えてはならぬのだ」

「よし、心得た」

 平九郎は神妙に答えた。

「とにかく、おぬしは此処を拠点にして動けばよい。ついでに門弟たちにも稽古をつけてくれよ」

「かたじけない、世話になり申す」

 平九郎は道場の離れに暮らすこととなった。

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