釜焚き三治

池南 成

第1話  名の由来

 元禄六年の北信濃国きたしなののくに、まだ明けきらぬ山間の道を行く武家の三人連れがいた。

 秋の千国ちくに街道は昼夜の寒暖差が著しく、辺り一面深い霧に包まれている。

 夫婦とみられる二人は十歳に満たない少年を気遣いながら南へと先を急ぎ、そしてその後ろには追手らしき武士がすぐ近くまで迫っていた。

 少年を急かして走り出すと早足で追い抜いた二人の武士が行く手を塞いだ。

 三人の追手は親子を谷川の崖上に追い詰めると無言で取り囲んだ。すでに抜刀しているところを見ると捕縛より殺害することが目的であるらしい。

 最初に斬り込んできたのは中央の武士だった。

 父親は腰を沈めて居合で一人目の胴を抜くと、続いて斬り込んできた左の武士の刀を根もとで受けて鍔迫つばぜり合いとなった。

 ところがその隙に母親が右の武士からの刃を受け深い傷を負った。

 父親は絡まる鍔を外して、

「おのれ、卑怯ひきょうな!」

 叫びながら母親を斬った武士の脇腹を突き刺した。

 しかしその間に、刀が自由になった武士に背後から袈裟懸けさがけに斬られその場に突っ伏した。

 そして刃が少年に向かうと、瀕死ひんしの母親は子供を抱いて崖から身を投じた。

 父親は最後の力を振り絞り、「行かさぬぞ」と言いながら崖を見下ろす武士の背を刺した。その切っ先は胸まで貫通していた。

 息を呑む霧の中の死闘は早立ちの旅人たちの興味を誘い、辺りが静まると凄惨せいさんな現場を見ようと近づいて来た。

 だが、その中で一人だけ群衆から離れて崖を下りて行く者がいる。富山から来た薬の行商人、美濃助みのすけであった。

 美濃助は行商に出た江戸からの戻り旅だった。

 国に同じ年頃の息子がいる美濃助は、落ちた少年のことが気になり足場の良いところを選びながら何とか崖下に降り立った。

 谷を流れる姫川は最近の長雨で水かさが増し、普段なら水面から突き出ているはずの岩などはすべて水没している。

 上流から何段にも連なるせきからは滝のように水が落下し、堰と堰の間は小さな池のように水を湛えていた。

 美濃助は二人が落ちたと思われる場所に目を凝らすと、溜まった堰の間に浮かぶ小さな顔を見つけた。

 母親の身体はすでに水面下にあり、少年の顔だけが母親の胸の上で水から出ていた。

 美濃助は背負っていた行李こうりを岸に置いて水に飛び込んだ。既に息絶えている母親を諦め少年だけを助けて岸に上がると、水を吐かせてから薬を飲ませた。

「此処にいては駄目だ」

 追手のことを考慮して自分に言い聞かせると、少年を抱き上げて上流に向かって岸を歩いた。

 随分と離れた場所で美濃助は行李から子供用の着物を取り出して着替えさせた。

 国で待つ息子にと江戸で買い求めた古着だった。

「すまねえ、三吉。おめえの着物はまた買ってやるからな」

 美濃助の独り言に反応して少年が意識を取り戻した。

「おう、気が付いたかい。おじさんは美濃助と言うんだ。もう心配しなくて大丈夫だ」

 少年は一言も話さない。何が起こったのか、自分の名さえわからないようだった。

 すべての記憶を失っていたのである。困り果てた美濃助は、

「おめえの名前は……そうだ三治さんじだ。三吉の着物を着たから三治にしよう」

 その日から少年は三治になった。


 街道を北に進むと高杉藩の城下町である。

 美濃助は三治を預かってくれそうな得意先を当たってみたが、口もきけない三治は何処の商家でも断られた。

(命を狙われたのだから、三治には町よりも人目に付かない山の方が良いかもしれないな)

 そう思った美濃助は山の湯治場とうじば『とみたまの湯』へ三治を連れて行った。

 城下から街道に出て谷川に架かる橋を渡ると、一面に田が広がり村人が総出で稲を刈っている。残った稲穂は黄金色こがねいろに輝いて重そうに風に揺れていた。

 恐ろしい目にあったことなど記憶のない三治は嬉しそうに微笑み、目を輝かせて村人の作業に目を奪われていた。

 田に挟まれた村の道を抜けると突き当りに小さな鳥居があり、そこから石段を上ったところには神社があった。狭い境内には曼珠沙華まんじゅしゃげが群生し、木漏れ日が赤い花を鮮やかに照らしていた。

 美濃助は三治の手を引いてやしろの前まで来ると、

「お前が言葉を取り戻せるよう祈ろうな」

 そう言って手を合わせ、三治にもそうさせた。

 石段を下り再び鳥居前の道に戻ると、今度は鎮守ちんじゅの森を廻り込むように山道を上る。

 三治は足元を見つめて土留めの丸太が敷かれた階段状になった山道を、美濃助に遅れないようにひたすら歩いた。

 登り切ったところは野菊が美しい草原であった。その中の踏み固められた小道の先には、太い丸太の門柱の上に『とみたまの湯』と書かれた一枚板の看板が載っていた。

 門の中には広い庭があり、庭に面して茅葺かやぶきの建物が二棟建っている。左側は客が寝泊まりする母屋で右側は湯屋である。二棟は屋根のある渡り廊下で繋がっており、廊下は自炊する湯治客の炊事場も兼ねていた。

 三治は茅葺屋根の後方を指差した。

「あの山か?あれは白駒山しらこまさんという山で大昔に噴火した火山だ。馬が頭を下げているようだろう。平らに長い尾根は馬の背といってな、山に降った雨を向こうとこちら側に振り分けているそうだ。そして尾のように立ち昇る白い煙は、今でも地の底が燃えている証なのだよ」

 美濃助の説明を三治は熱心に聴いていた。

 すると母屋から主人の仁左衛門にざえもんが出て来た。

「これはこれは美濃助さん、これから国に戻られますかな」

 と笑顔を向けた。

「仁左衛門様、いつもありがとう存じます。こちらの湯の効能があればわたくしの薬などは不要でございますのに、ご贔屓ひいきいただき感謝申し上げます」

「なんの、湯は万能ではありませんよ。薬の必要なお客様もおられます。助かっていますよ」

 互いの挨拶が済むと仁左衛門が、

「ところでこのお子は」

 と尋ねた。美濃助は三治の頭に手を置き、

「実は仁左衛門様にお願いがございます」

 その真剣な顔に仁左衛門は驚いて、

「何ですかな、あらたまって」

 少し警戒するような顔をした。

「この子は知り合いの子で両親が死んでしまったため身寄りがないのです。奉公先を探してみたのですが読み書きができない上に口も利けないのです。何処も雇ってはくれません。こちらで預かってはいただけないでしょうか」

 嘘をついた。命を狙われる侍の子などといったら断られるに決まっているからだ。

 仁左衛門はしばし考えてから、

「ようございます、こちらで預かりましょう。釜焚かまたきでしたら言葉は要りませんから働いてもらいましょう」

 と言いながら三治の顔を見つめた。

『とみたまの湯』は温泉といっても温度が低く沸かす必要があった。しかし関節痛・打身・皮膚炎などに効果があるため利用客が多かった。

 三治はこの山の湯治場で薪割まきわりと釜焚きの仕事を得てひっそりと少年時代を送ることとなった。

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