第26話 もう一つの過去
「私と美代ちゃんが連絡を取った経緯は……」と言った文子さんが、知っているのかしら? と伺うような表情を向けていることに気付いた僕は「文子さんが代表を務めていた施設に祖母が手紙を出した、と。そこで文子さんの跡を継いだ代表の方に間に入ってもらって、電話で話す機会を設けたんですよね?」と、知っていることを確認するよう尋ねた。
念のため、僕がどこまで知っているのか先に確認しておきたかったのだろう。
もしかすると、聞いた話が事実と違った場合、自分からは何も言うべきではない、という文子さんなりの配慮だったのかもしれない。
結果的に、僕が知っていた話はなんの誤魔化しもない真実だった。
「私たちを取り持ってくれた代表の子ね、あの姉妹のお姉ちゃんなのよ」と、嬉しそうに話す文子さん。
あの姉妹……?
「あっ、あの、最初に食堂の前に立っていた姉妹の……?」
「そう。中学を卒業するまでしょっちゅうご飯を食べに来ててね、大きくなってからも頻繁に連絡を取り合うようになっていたの。あの子たちのお母さまが早くに亡くなってからは、私のことを実の親のように慕ってくれてね。多分寂しかったんだと思うわ。私が子ども食堂のことで相談するとすぐに駆けつけて、色々と手伝ってくれてね。それで跡を継いでもらったの」
「そうだったんですか。それは素敵な繋がりですね」
「えぇ、だから私も安心なのよ。それで、その子が美代ちゃんからの手紙をこっちに郵送してくれてね。事情を話したら、絶対に連絡を取るべきだ! って、間に入ってくれたの」
「……この写真の、文子さんの隣に座ってる女性ですか?」
「そうそう! その子よ!
恵子さんという名の女性は、文子さんの隣で満面の笑みを浮かべている。おそらく、五〇代くらいだろう。こう見ると、本当の親子のように仲睦まじい姿が収められている。
白髪を隠すためか明るいブラウンに染めた髪は短く、体格はややふっくらとしている。子ども食堂でエプロンを付け、腕を振るっている姿が自然と想像できた。彼女の作る食事は絶対に美味しいと思う!
「恵子のおかげで美代ちゃんと電話で話せることになってね。あれからずっと悩ませていたと知って、本当に申し訳なく思ったわ。謝らなきゃいけないのは私の方だったのに……」
「あれから、っていうのは……?」
聞いて良いものか迷ったものの、聞かずにはいられなかった。
少し迷ったように一拍置いた文子さんは、もう時効ね、と呟いてから「これは私と晋太朗君だけの秘密よ」と言い、六〇年以上も前の出来事を教えてくれた。
***
一九六四年。
寿との離婚から間もない文子の元に、まだ二十歳に満たない美代子が訪ねてきた。
美代子は突然自身に降って湧いた寿との縁談話に困惑し、三日三晩悩んだ末に途方に暮れて文子の元を訪ねたのだった。
美代子は幼い頃から、文子を姉のように慕いよく懐いていた。そして、父親にくっついて彼女の家に遊びに行っていた頃から、文子の幼馴染みでもある寿のことは知っていた。
そのため当然、二人が結婚し、そして少し前に離婚したことも知っている。
美代子から見た寿は、大好きな文ちゃんの元旦那さんだ。
そんな彼との縁談話が突然自身に舞い込んできたら、困惑するのも無理はないだろう。
「文ちゃんにこんなこと聞くのもおかしな話だと思ったんだけど………。私、どうしたらいいか分からなくて……。他に頼れる人もいなくて……」
「美代ちゃんが嫌じゃないのなら、受けたら良いんじゃないかと、私は思うわ」
「でも、寿さんは文ちゃんの……」
「私たちはもう別れたの、終わったのよ。だから、私のことを気にする必要なんてないのよ?」
「でも……」
美代子は今にも泣き出しそうな顔で俯いていた。
「私ね、寿さんに父親になることを諦めてほしくないの。だから、私じゃ一緒に居られない。今は『子どもなんていらない、二人で居られたらそれでいい』って言ってくれていても、いつか『やっぱり子どもがほしい』って思われるかもしれない。私はそれが何より怖い。そんなことを言われたら……多分私は立ち直れない。死にたくなるかもしれないわ」
「それなら、寿さんに文ちゃんのその気持ちをちゃんと言えばいいよ! そしたら、寿さんは絶対にそんなこと言わない! 文ちゃんとずっと一緒にいてくれる!」
それは、美代子の若さ故の考えだった。
「そうね。美代ちゃんの言う通りだと思うわ」
「だったら!」
「だからこそよ」
「え?」
「寿さんは優しすぎるから、私がさっきの本心を言えばきっと添い遂げてくれる。もし、子どものいる家族に憧れを感じたとしても、多分上手に隠し通すと思うわ。でもね、大切な人がつく優しい嘘って、大抵分かっちゃうものなの。だから、そうなる前に私から別れを切り出した。今なら、寿さんに別の未来があるのよ」
「そんなの分からないじゃない! 原因が文ちゃんにあるとは」
美代子が「限らないわ!」という前に、文子は自ら「私なの」と告げる。
それはその場を凍らせるように冷たく、とても悲しい声だった。
「病院で調べてもらったから間違いないの。子どもができない原因は、私なのよ」
女性に生まれた以上、その言葉を口にするのはどれ程つらかっただろうか。
美代子はさすがに何も言い返せなくなった。
「…………」
「美代ちゃんは、寿さんのこと嫌い?」
「それは……」
「いや。今のは意地悪な言い方だったね、ごめんなさい」
そう、文子は気付いていた。
美代子が寿への想いを秘めていたことを。
ずっと前から気付いていた。
美代子は観念したように口をひらく。
「嫌じゃないから困ってる……」
「そうよね、寿さんは美代ちゃんの初恋の相手だもんね」
「っ!? 文ちゃん、知ってたの?」
「ごめんなさい、本当はずっと昔から気付いていたの。まだ美代ちゃんが小さい頃、家に遊びに来たとき何度か寿さんに会ったでしょう? はじめは、年上のお兄さんへの憧れみたいなものを感じているんだろうな、と思ったんだけど……。私が寿さんと結婚するって話をしたときの表情を見て、確信した」
「そう……だったんだ」
「ずっと見て見ぬふりをして、我慢させて、苦しめて……本当にごめんね」
美代子はすぐに首を大きく横に振る。
「文ちゃんなら良いって本気で思ってたし、二人に幸せになってほしいって気持ちに嘘はなかった!」
「分かってる。私は美代ちゃんのその優しさに甘えていたのよ」
「……」
しばしの静寂を破ったのは文子だった。
「美代ちゃんが私に思ってくれたのと同じで、私も今、美代ちゃんなら良いって本当に思っているし、大好きなのに私のせいで辛くて苦しい思いをさせてしまった二人には幸せになってほしいと心から思ってるの」
「でもっ! 寿さんは文ちゃんが好きなんだよ!」
「今はまだ気持ちに整理がつかなくて、否定的になってるかもしれないけど、いつか必ず受け入れられるときがくるわ。だから、美代ちゃん。一番そばで寿さんを支えてあげて?」
「……私に、文ちゃんの代わりができる?」
「代わりじゃない! 美代ちゃんの優しさは絶対に寿さんの救いになるわ! だから自信を持って、縁談を受けてほしい」
「……わかった」
こうして一人の女性の恋は終わり、女性になりつつある少女の恋が動き始めた。
***
「え? 文子さんが祖母に薦めたんですか? 祖父との縁談を」
「……そうね、迷っていた美代ちゃんを私が説得したようなものね。美代ちゃんとはそれっきりだったから、てっきり縁談の話は進んでるものだと思ったんだけど……」
いや、確かじいちゃんから聞いた話だと、じいちゃんは半年以上顔合わせを断り続けていたはずだ。
しかも、その相手がばあちゃんだということも知らなかったと言っていた。
「離婚してから半年ほどたった頃、寿さんが私の実家の近くにきて驚いたことがあったの。対峙するべきか迷ったけれど、寿さんを目の前にして通り過ぎることはできなくてね……。最後にほんの少し話すだけのつもりだったのよ」
「最後?」
「そのときにはもう、札幌に引っ越すことが決まっていたから。でもね、話を聞けば、美代ちゃんとの縁談を断り続けているっていうから驚いたの。だけど、それと同時に、私、ホッとしたのよ。まだ寿さんが私を想ってくれていると知って、嬉しくなったのよ。……最低でしょ?」
文子さんのそれは、まるで
「そのときの私の感情は、寿さんへの未練以外の何物でもなかった。今ここで彼に
僕はこのときの出来事をじいちゃんからも聞いていた。
でも、文子さんがこんな気持ちを抱えていたとは、少しも感じ取れなかった。
じいちゃんは、前を向いている彼女はもう自分を求めていない、新しい未来へ進む彼女の足枷にはなりたくなかった、と振り返っていた。
……本当は文子さんも未練を残していたんだ。明るく振る舞ったのは、文子さんなりのけじめだったのかもしれない。
「美代ちゃんとの縁談の話を私が知っていることに、寿さんは驚いていたわ。咄嗟に風の噂で聞いた、なんて言ったけれど、本当はそんな噂は一度も聞いたことがなかった。美代ちゃんが相談しにきてくれなかったら、一生知らないままだったわ」
それぞれの想いはどこまでも交錯する。
「……私は美代ちゃんを納得させた気になっていたのね。でも実際、美代ちゃんは長年悩み、自分を責め続けていた。原因は、私が何も言わずに、消えるように地元を離れたせいね。私の転居先は両親にしか知らせなかったし、両親にも誰に聞かれても教えないでほしいと頼んでいたのよ。美代ちゃんは東京に引っ越すとき、私の実家に私の連絡先を訪ねにきてくれたらしいの。でも、私が誰にも教えないでと言っていたものだから、両親はハッキリと断ったみたいでね……。その拒絶のせいで美代ちゃんは、やっぱり私を傷つけたんじゃないかって、何年も悩んでいたみたいなの」
本当に申し訳ないことをしたわ、と文子さんは後悔を漏らす。
「あのとき私がすべき行動は、二人の邪魔にならないよう黙って姿を消すことじゃなくて、美代ちゃんに心からのお祝いの言葉をかけることだったのかもしれないわね。……私たちには、圧倒的に言葉が足りなかった」
そう語る文子さんの過去は、当然だけど、もう変わることはない。
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