第25話 届けられた想いと過去

「どうぞ、上がってちょうだい」

「おじゃまします」


 膝が悪い文子さんにとって雪道の外出は難しいとのことだったので、翌日、僕は彼女のアパートを訪ねた。

 二階建てで、全部で八軒の住居が集まっている。

 文子さんが住むのは一階の右から二軒目だ。


 中に入ると壁には病院のように手すりが付けられていた。支援が必要な高齢者の家には、こういった補助設備や道具が支給されることがあるらしい。

 もちろん条件はあるそうだが、文子さんはそのおかげで一人でもなんとか暮らせていると話してくれた。


「ヘルパーさんも週に二度来てくれるから、助かってるの」と笑う文子さんの部屋は綺麗に片付いていた。


 僕が席に着くと、文子さんは温かいお茶を持って来てくれた。テーブルには煎餅とミカンが置いてある。

「こんなものしかなくて、ごめんなさいね。若い人が来ることなんてないから……」

「いえ、気にしないでください」

「晋太朗君、髪切ったのね」

「髪? ……あ、はい」

 大学を卒業してすぐに髪を切って以来、僕はもう短髪に慣れていたからすぐに反応できなかったけれど、確かに前に文子さんと会ったときは今よりも髪が伸びていた。

「前にも思ったけど、髪が短いと一層若い頃の寿さんにそっくり」と、独り言のように言う。

 きっと文子さんは僕にじいちゃんを重ねているのだろう。

 そして「香典もお花も送ることができずに、ごめんなさいね」と悲しそうな顔を浮かべた。

 それは立場上仕方のないことだった。


 少しでも空気を変えるべく、僕は鞄から早速包みを取り出す。

「今日はこれを届けに来ました」

「……開けてみても?」

「もちろんです」


 テーブルに置かれた白いハンカチをそっと手に取り、文子さんは静かに一辺ずつ開いていく。

「これは……」

「祖父の火葬のとき、一緒に焼いたものです」

「こんな大切なもの、私がもらってもいいの?」

北海道生まれの文子さんは、やはりこの十円玉の持つ意味を知っていた。

「はい。祖父は亡くなる数日前、亡くなった人と一緒に焼いた十円玉はお守りになる、と僕に教えてくれました。それから、自分の火葬にも十円玉を入れて、それを文子さんに届けてほしい、と頼まれました」

「私に……?」 

「……これは、祖父の言葉です。『文子には本当に何にもしてやれなかったから、せめて死んでから守ってやれたらって思ってな』と、言っていました」

 文子さんはむせび泣く。テーブルには次から次に、大粒の涙がこぼれ落ちる。

「この十円玉がきっとこの先の文子さんを守ってくれます」

「ありがとう。本当に……ありがとうございます……」

 涙で言葉を詰まらせながら、ハンカチで包み直した十円玉を大事そうに胸に抱えて、文子さんは何度もありがとうと呟いた。

 それはきっとじいちゃんへの言葉だったと思う。


 文子さんが少し落ち着いたところで、僕は再び鞄に手を伸ばし、今度は一枚の大きめサイズの封筒を差し出した。

「差し出がましいとは思ったんですが……もしよかったらこれも」

「……?」

「前にこっちに来たとき、僕が撮った写真です」

「あら、嬉しい。見せてもらうわね」

 僕は迷いながらも前回の旅で撮影した写真を印刷して持ってきていた。

 一応、プロのカメラマンの端くれとしては、完全な素人が撮ったその写真を自分の作品だと披露する気にはなれなかったけれど、そんなプライドよりも文子さんの喜ぶ顔が見たいという気持ちの方が強かった。


「まぁ、綺麗に撮れてる! 常盤公園の写真ね」

 一枚ずつ感想を残しながら、じっくりと見てくれる。

 その様子は、じいちゃんに同じ写真を見せたときの反応とそっくりだった。

 そして文子さんは最後の一枚に手をかける。

「…………あぁ」

「祖父にその写真を見せたとき、涙ぐみながら喜んでくれたんです。一緒に撮った写真はもう持っていなかったから、こんな写真が見られるなんて思ってなかった、って。でも、祖父は昔のことを誰にも話してなかったので、印刷して渡すわけにもいかず……。もしよければ、文子さんが持っていてくれませんか?」

「私の方から、ください、とお願いしたいくらいよ。こんなに素敵な写真、本当に私が頂いていいの?」

「ぜひ! 実は僕、この写真がきっかけでが見つかって。カメラマンの道に進みました。あのときは、文子さんに進路のことを聞かれても答えられなかったんですけど……。この瞬間をどうしても記録に残したい! って衝動とか、自分が撮影した写真で誰かが感動してくれるってこんなに嬉しいのか! って喜びとか、そういうのをあの旅で知って、それで今の僕があります。だから、文子さんにも伝えたいと思ってたんです」

 文子さんは目尻に溜まった涙を拭いながら「今日は泣いてばっかりね」と言った。

 そして、「こんな日が来るなんて、夢にも思ってなかったわ。本当にありがとう」とその日一番の笑顔を見せてくれた。


 これで僕は全てを出し切った。

 じいちゃんの想いも無事に届け終え、ようやく安堵する。

 多分、肩の荷が降りるとは、こういう気持ちのことを言うのだろう。

 気持ちに少しの余裕が生まれた僕は、壁に飾られた額縁の中身が気になった。写真を見つけると凝視してしまうのは、もう職業病と言ってもいいのかもしれない。


 淡いピンクの額縁に入れられた写真には大勢の人たちが写っている。

 全員もれなく笑顔だ。真ん中には花束を持った文子さんが座り、その周りをさまざまな年代の人が囲んでいる。二〇人ほどいるだろうか。

 誰一人退屈していない、和やかな雰囲気が溢れるいい記念写真だと思った。


「素敵な写真ですね」

「そう? プロのカメラマンさんにそう言われると、なんだか照れるわね」

「いや、僕なんかまだまだですから! でも、本当に素敵だと思いました」

「ありがとう。その写真はね、私が札幌を離れるときに撮ったの。周りにいるのはみんな、子どもの頃、食堂に通ってくれていた子たちよ」

 そういえば、ばあちゃんの手紙には、文子さんを見つけたきっかけはだと書かれていた。

 子ども食堂とは、主に地域の子どもたちを対象に無償もしくは安価で食事を提供する食堂のことだ。子どもたちの孤食の防止や、コミュニケーションの場の確保、健康的な食事の安定的な提供などを目指している。

「札幌ではずっと子ども食堂で働いていたんですか?」

「いいえ、最初はごく普通の食堂だったんだけどね……」と切り出し、文子さんはじいちゃんと別れ、地元を出てからの話をしてくれた。


「はじめは札幌で暮らす親戚を頼りに向こうへ引っ越したんだけど、当然ずっとお世話になるわけにもいかないでしょう? それで、急いで見つけた住み込みの仕事場が食堂だったの。そこは、当時五〇代のご夫婦が二人で切り盛りしていたんだけど、年齢のせいか二人だけでは今までのようにお店が回らなくなったってことで、人を募集していたの。お店に行ってご主人に、働きたいんですが、って言うとその場でいくつか質問されてね。なんとその場で採用になって、そのままお店の二階に住まわせてもらったの」

「すごい早さですね」

「そうよね。とんとん拍子に話が進むから、私も驚いたわ。そこのご夫婦は二人とも親切で、優しくて、とてもいい人だった。そのうちに、常連さんとも仲良くなっていくから、仕事にやりがいも感じられたの。忙しく過ごすことは、余計なことから思考を切り離してくれるから私としても都合がよかった。ある日曜日の夕方、いつものように働いているとお店の外からこっちをじっと見つめる姉妹が視界に入ったの。もう雪が降り始めていたしすごく寒かっただろうに、しばらく経ってもまだそこにいたから、どうしたの? って声をかけたのよ。そしたらお姉ちゃんは慌てて帰ろうとしたんだけど、まだ五歳くらいだった妹さんが『お腹空いた』って。よく見たら二人ともガリガリに痩せていて、お姉ちゃんに事情を聞けば、前日の朝食以降何も食べてないって言うの。それで、そのまま二人を食堂に連れて行って、食事を食べさせてね……。子ども食堂をはじめたきっかけは、あの姉妹と出会ったことね」

 僕は、本当にそんなことがあるのか、と驚いた。


「次の日、そのお姉ちゃんが『これしかないけど……』って、数枚の小銭を持って一人でお店にきたの。もちろん受け取れないし、前の日の食事代は私のお給料から引いてもらっていたから、小銭は持って帰るように言ったわ。それで、今晩の食事はあるの? って聞いてみたら『給食のパンを持って帰ってきたから大丈夫』って言うのよ……」

「姉妹のご両親は……?」

「母子家庭で、母親は夜働いていたからいつも子どもたちだけで過ごしていたみたい。夕食の用意はされていなくて、朝食の時間も母親は寝てるか、まだ帰ってきてないかで、食べられない日も多かったそうよ」

「そんな……」

「それで、食堂のご夫婦に、その子たちに食事を提供してあげられないかって相談したの。二人とも気のいい人だから二つ返事で了承してくれて、賄いを多めに作ってくれるようになってね。そしたらそのうち、常連さん達がその話を知って、食材やお米を差し入れてくれるようになったのよ」


 そのあとは、比較的順調に事が進んだという。

 常連さんの中に新聞社に勤めている人がいたらしく、地元情報のページで子どもたちのための支援を募ったところ、想像以上の反響だったらしい。

 きっかけとなった姉妹以外にも尋ねてくる子どもが増え、中には生活に余裕のない月に親が自ら『子どもにだけはしっかり食べてほしいから』と、精一杯のお金を持たせて連れてくることもあったそうだ。

 善意の連鎖のおかげで運営に困ることはなく、子ども食堂で育った子が大きくなり食材を持ってくることもあったという。


「私は形にこだわりはなかったから、そのまま続けていけたらいいと思っていたんだけど、食堂のご夫婦が七〇代になって引退することになってね。そのタイミングで食堂の権利を譲り受けることになったの。もちろん何度もお断りしたんだけど『他に継いでくれる人もいないし、子どもたちのためにも』って言われて。それで、昔通ってくれてた子たちにも助けてもらいながら、なんとか民間で運営する子ども食堂として動き出したのよ」

 代表なんて柄じゃないのにね、と文子さんは笑った。


 そこからさらに二十五年ほど子ども食堂の運営に携わった文子さんは、体力的な問題を感じ七〇歳で引退し、地元旭川に帰ってきた。


「美代ちゃんから連絡がきたと聞いたのは、それから十年経つか経たないかくらいの頃だったかしら」


 急に知っている名前が出て、僕はドキッとする。

 文子さんはばあちゃんとのやり取りについても、話してくれた。

 もしかすると、これはじいちゃんも知らなかった話かもしれない。

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