五章:孫、再び北海道へ

第24話 白銀の世界へ

 二〇二六年、二月。


 就職を機に職場の近くに借りた一人暮らしの部屋を出発してから約二十時間。

 僕はようやく長時間に及ぶ船旅を終え、北海道の大地に降り立った。


 二〇二〇年の八月、僕は同じルートを辿り初めて北海道を訪れた。

 常に揺れる船でゆっくり寝ることもできず、船酔いで食事もろくに取れなかったあのときが懐かしい。

 さすがに一度経験すれば、二度目以降は慣れていくだけだと思っていた。

 しかし、真冬の船旅はそう甘くなかった。

 前回よりも遥かに荒れた海に、船の揺れは激しさを増す。

 夜になりベッドに入ると、打ち付ける波の音の強さに不安が募る。

 こんなとき、雑談する相手でもいれば少しは気が紛れるのだろうが、残念ながら今回は僕一人きりの旅だ。

 ただでさえ北国の冬には慣れていない僕は不安に駆られ続けていたけれど、何よりも大切に持ってきた白いハンカチの中に包まれたが、不思議と僕を安心させてくれた。


 船を降りてからは陸路での移動となる。

 まずは苫小牧港から高速バスに乗り札幌駅を目指す。

 前回の旅は全日天候に恵まれて、北海道の夏の魅力を存分に味わえた。しかし、今回はなかなか僕を安心させてくれない。

 空は何層にも重なる厚い雲に覆われているようで、ここに太陽の光が差し込むことは二度とないのではないか、と錯覚させるほどどんよりとしていた。

 空一面が白っぽいグレーで、その景色に見慣れていない僕は少し不気味さすら感じる。視線を下げれば大地には真っ白な雪。建物や木々にも雪が積もっているから視界いっぱいに白銀の世界が広がり、もはや境界線など分からない。

 そこにさらに雪が降り続くものだから、氷点下の世界から抜け出せなくなるような感覚に陥りおののいてしまう。


 こんな天候の中、バスは迷いなく進んでいるが本当に大丈夫なのだろうか……。

 視界不良で事故、なんてことになったらどうしよう……。


 僕は不安を誤魔化すように、白いハンカチを仕舞っている鞄のポケットに手を乗せ、祈るように札幌到着の瞬間を待った。

 結果的に、定刻通り、無事に、何事もなく到着した。

 現地の人から見れば大したことない天候だったようだけれど、僕ははじめて体験する冬に人知れず自然の驚異を感じていたのだった。


 札幌駅からはJRで旭川に移動する。

 船もバスも十分安全が確保された移動手段ではあるけれど、僕の中で電車の安心感はやっぱり強い。ここまでくればもう安心だ。

 雪の勢いはいくらか落ち着いたように見えたものの、岩見沢までは順調に降り続いていた。

 しかしその後、雪はすぐに止み、旭川の一つ手前の駅、深川を通過する頃には晴天に変わっていた。


 旭川に到着すると立派な冬晴れで、ようやく僕も晴れやかな気持ちになりながら、前回と同じホテルに向かう。

 さっきは、厚い雲で閉ざされた世界、と感じたけれど、今は雪に反射する太陽光が目に染みるほどだ。


 ホテルに到着した僕は、ひとまず文子さんに電話を掛けた。


「はい、堂佛どうぶつです」

「晋太朗です。さっき、無事に旭川に到着しました」

「それは良かった。疲れたでしょう? 今日はゆっくり休んでちょうだいね」

「はい」

「明日、晋太朗君に会えるの楽しみにしてますからね」

「ありがとうございます。ではまた明日」


 文子さんには事前に到着予定時刻を伝えてあった。

 ほぼ予定通りの連絡に安心したのだろう。必要最低限の会話で電話を終える。


 僕は凝り固まった体を伸ばすようにベッドに寝転びながら、数週間前の電話のことを思い出した。


 じいちゃんの火葬から数日後、僕は文子さんにじいちゃんの訃報を知らせる電話を掛けた。


「はい、堂佛です」

「突然のご連絡ですみません。僕、奈良岡寿の孫の晋太朗です。連絡先は祖父から聞きました」

「あら、晋太朗君!? 久しぶりねぇ」

 忘れられていたらどうしようかと不安だったけれど、文子さんはすぐに嬉しそうな声を返してくれた。

「今日はどうしたの? こっちに来る予定でもできたのかしら?」

 その弾むような声に心苦しさを感じつつ、僕は真実を伝える。

「実は、数日前に祖父が亡くなりました」

「…………そう。それは…………その……」

 文子さんの声は途端に沈み込んだ。

 最初の電話がこんな知らせになるなんて……。申し訳なさに胸が痛む。

「晋太朗君」

「はい」

「その……、寿さんは何か病気だったの? それとも……」

「いえ、老衰でした。少し前に骨にひびが入って入院してたんですが、その後思うように体力が戻らなくて、そのまま……。ただ、最期まで苦しむことなく、穏やかでした」

 じいちゃんの最期を聞いた文子さんは、小さく「……そう」と、でも少し安心したように答えた。

「突然の知らせで驚かせてしまいすみません」

「とんでもない。私なんかに教えてくれて、本当にありがとう」

「……実は、祖父から文子さんに渡してほしいものがあると頼まれてるんです。四十九日が終わったら、そちらにお届けにあがってもいいですか?」

「……私に? それは、もちろん構わないけど、晋太朗君わざわざ大変でしょう? 郵送でもいいのよ?」

「いえ、これは祖父との約束ですから。最後まで責任を持って僕が直接届けたいんです」

「……それじゃあ、お願いしようかしら」

「はい。伺う日時の予定が立ったら、またお電話します」

「分かりました。晋太朗君、悲しいでしょうけど……気をしっかりね」

「はい」


 文子さんの連絡先は、じいちゃんが亡くなる前に僕あての封筒に入れていた。

 多分、じいちゃんは大分前から今回のことを僕に頼む気でいたのだろう。


 葬儀のあと、色々な手続きをしていた父さんがじいちゃんの財布の中から、『晋太朗へ』と書かれた封筒を見つけた。

 中には、『よろしく頼む』というメッセージとともに、ばあちゃんの字で書かれた文子さんの連絡先が同封されていた。

 それは、以前僕が北海道で見せてもらったばあちゃんからの手紙に同封されていた紙そのものだ。

 じいちゃんは入院する前からもしものときを想定し、この封筒を用意していたらしい。


 じいちゃんの想いをしかと受け取った僕は、ベッドが体に沈み込む前に立ち上がり、バッグから愛用のカメラを取り出した。

 五年前、高校の同級生である田所から五万円で買ったカメラではなく、柳写真館に入りたての頃に僕が新品で買ったものだ。

 どちらのカメラも気に入っているし、当然愛着はある。それでも、やっぱりアシスタントで稼いだお金を貯めて買ったカメラは、僕にとって特別な愛機だった。


 僕はその日、夕方の旭川の写真を数枚撮影した。

 撮影には、白いハンカチに包んだあの十円玉も持って行く。

 本当はもっと撮りたかったし、もっと足を延ばしたかったのだけれど、慣れない寒さに耐えきれず早々にホテルに戻るしかなかった。


 室内のエアコンの温度を二十八度に上げる。だんだんと冷え切った指先の感覚が戻ってくるのを実感しながら、僕は今撮ってきたばかりのデータを見返す。

 趣味で撮影したデータを確認する時間は、やっぱり落ち着く。

 もはやこれは僕の精神安定剤のようなものだった。


 明日の文子さんとの対面も、平常心で臨める自信がついた。

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