第23話 荼毘に付す
通夜のあと、僕は一晩中線香の火を灯し続けるため、自ら寝ずの番をやると申し出た。
寝ずの番が一晩中、遺体のそばの線香の火を絶やさないことで、亡くなった人に悪霊がつかず、安心して極楽浄土に行けるようになるという。
ばあちゃんが亡くなったときは、じいちゃんが寝ずの番をしていた。
静まり返る部屋には僕とじいちゃんだけしかいない。
結局僕は、カメラマンになってからじいちゃんに一枚も写真を見せることができなかった。
すごく楽しみにしてくれていただけあって悔しい思いはあるけれど、じいちゃんに自信を持って見せられる写真は正直撮れる気がしなかった。
なぜなら、大学三年生の、まだ写真に興味すら持っていなかった僕が北海道で撮ったあの一枚を超えるものは出てこないと思っていたからだ。
きっとじいちゃんは、僕が撮影したものならどんな写真でも喜んでくれただろう。褒めてくれるだろう。もしかすると、飾ってくれるかもしれない。
でも僕の目標は、観た人の目をくぎ付けにする写真だ。
あの一枚以上にじいちゃんの目を奪う写真なんて、今の僕には全く分からなかったのだ。
そんなことを考えていたとき、父さんが日本酒を持って入ってきた。
「晋太朗、眠たくなってないか?」
「大丈夫。……それは?」
「じいちゃんに。好きだっただろ」
そう言って、父さんは棺の前に置かれたテーブルに日本酒を注いだお猪口を置いた。
そして、僕の隣に椅子を持って来て座り、自分も飲もうとする。
「父さんも飲むの?」
「献杯だよ」
「……僕ももらっていい?」
「晋太朗が日本酒を飲んでるところなんて見たことないけど、飲めるのか?」
「一応。昔、じいちゃんと一緒に飲んだことがある」
「……そうか」
自分の父と息子が、自分の知らないところで酒を酌み交わしていたと知った父さんは、どんな気持ちだったのだろう。
仲間外れにされた、と少し拗ねただろうか?
いつの間に、と驚いただろうか?
正解は分からないけれど、多分、悪い気はしていなかったと思う。だって、父さんの横顔が少し笑っていたように見えたから。
僕は、通夜振る舞いで使った部屋から取ってきたお猪口に、酒を注いでもらう。
「ありがとう」
「ん。それじゃあ献杯」
「献杯」
じいちゃんと飲んだときと同じように、ツーンとしたアルコールの匂いが鼻を通り抜ける。もう舌のピリつきは感じない。しかし、日本酒が流れ落ちる喉は、やっぱり熱くなった。
「飲めるけど……やっぱり得意じゃないや」
「はははっ、無理するな」
「無理するな」の言い方が、じいちゃんにそっくりだった。
やっぱり親子だな、と僕は思う。
「父さんから見たじいちゃんってさ、どんな父親だったの?」
それはずっと聞いてみたいことだった。
僕が知っているのは祖父としてのじいちゃんで、父親としてのじいちゃんは知らないから興味があった。
「んー、穏やかで優しい人だったよ。身内、とくに親にこういう印象を持つって、少し珍しい気もするけどな」と、父さんは笑う。
「じいちゃんに直接何か教わったり、してもらったりってことは、ほとんどないんだ。俺と姉ちゃんのことは、ばあちゃんに任せきりだったし。だから、子どもの頃は正直じいちゃんがどんな人かよく分からなかった。でも、子どもって成長するにつれてどんどん世界が広がるだろ? 当然、家族以外の人とも知り合いになる。そして大人になると、自分の父親と同じ世代の人たちと一緒に働くようになる。そうすると、『あぁ、うちの親父って本当に温厚な性格だったんだな』って実感するんだ」
「じいちゃんの世代の男の人って、血気盛んなイメージがあるもんね」
「そうそう。あの年代は戦争を経験している貴重な世代だからな。とにかくエネルギッシュなんだよ」
そう語る父さんの言葉にはやけに実感がこもっていて、具体的にイメージしている人物がいるようだった。
おそらく、社会に出てその世代の方々から厳しい指導を受けたことでもあるのだろう。
「基本的に放任で、小言なんてほとんど言われたことがなかったんだがな。母さんと結婚するときに言われた言葉は今でも鮮明に覚えてる」
「何て言われたの?」
「『想ってもらえることを当たり前と思ってはいけない』『相手の優しさに胡坐をかかず、どんなときも愛を持って接するように』って。じいちゃんから愛なんて言葉が出てくると思ってなかったから驚いたけど、今でも心に残ってるよ」
理不尽な別れを経験し、若かりし頃のばあちゃんの気持ちを
「言葉って、それを言う人の人柄や行動によって説得力の大きさが変わってくるだろ?」
「うん」
「じいちゃんは、あの言葉を言うにふさわしい人だと、父さんは思ったよ」
父さんは、じいちゃんとばあちゃんが結婚する前の出来事を知らない。
それでも、じいちゃんの言葉に重みを感じていた。
それはきっと、じいちゃんがばあちゃんを大切にしていた姿を子どもの頃からずっと見ていたからだろう。
じいちゃんは別れてからも文子さんの平穏を願わずにはいられなかった自分自身に罪悪感を抱えていたけれど、ばあちゃんに不誠実だった頃の自分を責めていたけれど、家族になってからのばあちゃんへの愛はやっぱり本物だったんだ。
そのことを、今、父さんが証明してくれた。
僕は新しい線香に火をつけるため立ち上がる。
線香から広がる古き良き日本の匂いにも大分慣れた。
「父さん、火葬のときに十円玉を入れるって話、知ってる?」
「ん? 十円? ……あぁ、そういえば昔そんな話を聞いたことがあるような……。厄除けになるんだったか?」
僕は、じいちゃんから
由来を調べてみると、昔、亡くなった人は、三途の川を渡るときに通行料として六文銭を払わないといけない、と考えられていたらしく、故人が渡すお金に困らないように銅貨の十円玉を棺に入れて一緒に送り出すようになったという説が多かった。
他にも、六道にいる六人の地蔵に渡すためのお金、と考えられている説もあった。
いずれも故人が困らないように、との思いから入れたのが発端だったらしいが、故人と一緒に焼いた銅貨を遺灰や
ただ、原則として、火葬の時に金属を入れることは認められていない。
それでも、地域に根付く風習や、遺族の想いを汲んで、炉に影響を与えない程の少量であれば黙認される火葬場も少なくないらしい。
「明日のじいちゃんの火葬で、十円玉を入れさせてほしいんだけど、ダメかな? じいちゃんの田舎でもやってたみたいで、少し前に病院にお見舞いに行ったとき、やるように言われたんだ」
それ以上のことは言えなかった。
じいちゃんは、ばあちゃんとの結婚前の出来事は全部墓場まで持って行こうと思っていた、と言っていた。
だから、じいちゃんの子どもである父さんも明美伯母さんも何も知らない。
ここで僕が、「その十円玉を前の奥さんに届けるんだ」なんて、口が裂けても言うわけにはいかない。
これは男と男の約束だ、秘密は最後まで守り抜く。
「……分かった。葬儀場の人には父さんから頼んでおくよ」
「ありがとう」
きっと、父さんはそのお守りを僕が持つと思っている。
騙すようなやり方しかできなくてごめんなさい。
嘘をついているようで少し心が痛んだけれど、それ以上に僕は、じいちゃんの想いを文子さんに届けることを優先した。
***
翌日、父さんから「この袋を使うといい」と言って渡された、白くて手のひらに収まるサイズの袋に十円玉を一枚入れて、じいちゃんの隣に置かせてもらった。
火葬に送り出すときも辛かったけれど、僕はそれ以上に、棺に釘を打つ瞬間に一番の残酷さを感じた。
僕たちの世界が強制的に分かたれたようで、苦しかった。
じいちゃんと一緒に焼かれた十円玉は変色が目立ち、黒い部分や赤っぽい部分がある。それに、ところどころ緑色の粉が着いたようになっていて、少し変形していた。
それを僕は新品の白いハンカチで包み、ジップロックの袋に入れて保存した。
じいちゃんは無事、天国へと行けただろうか。
向こうで、ばあちゃんと再会できただろうか。
煙となったじいちゃんが上がって行った空を見上げると、気持ちがよいほどに晴れ渡っていた。
その日は記録的な寒波が接近中で、東京でも十二月の平均気温を大きく下回るような天候だったけれど、火葬後の空は驚くほど穏やかできれいだった。
すごく寒い日に風も吹かずに晴れている空の様子を、北海道では『
その日は、東京の空もそれに近い気がした。
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