第15話 帰路
午前十時過ぎ。僕はじいちゃんと旭川駅にいた。
十一時ちょうど発の札幌行きの電車に乗るため乗車券を買い、車内用の飲み物と軽食を選び終えたところだった。
昨日、じいちゃんはこの旅の目的である文子さんとの再会を果たした。
二人がどんな会話をしたのか、じいちゃんは思い残すことなく謝れたのか、文子さんは今まで何を思って過ごしていたのか。
僕には分からないし、それを聞くのは無粋というものだろう。
でも、僕も数時間だけだけど一緒に過ごしてみて、二人の間にわだかまりはないように感じた。
あまりにもあっさりとした別れに、僕は戸惑いを隠せなかったものの、じいちゃんも文子さんも納得しているようだった。
ならば、それがすべてだ。
あのあと、常磐公園から待ち合わせをしたホテルまで一緒に戻り、文子さんはホテルに停まっていたタクシーに乗り帰って行った。
別れ際、今日見送りに来るとの約束を残して。
駅直結のショッピングモール側にある改札前で待っていると、駅の入り口の方で文子さんの姿を見つけた。東京に比べれば駅を利用する人の数が少ないおかげで、文子さんを見つけるのはとても簡単だった。
右手で杖をつきながら歩く文子さんの左腕には、見るからに重たそうな紙袋がぶら下がっていた。
ギョッとした僕は急いで文子さんに駆け寄り、彼女の細い左腕にめり込む紙袋に手を伸ばしながら「大丈夫ですか? 持ちますよ」と声をかける。
「あらあら、ありがとう」と、言って歩みを止めた文子さんの腕から紙袋を抜き取ると、その重量感にまた驚いた。
「重たいでしょ? ごめんなさいね。でも、どうしても渡したくて……」
どうやらこの紙袋はじいちゃんへのおもたせらしい。
「こんなに重たいものを持って、膝、大丈夫でしたか?」
心配する僕を見上げ、文子さんは笑った。
「大丈夫よ。晋太朗君は優しいのね」
「でも、昨日もたくさん歩かせちゃったし……」
「昨日は、寿さんに久しぶりに会えて、晋太朗君にも会えて、夢みたいな時間で本当に楽しかったの。膝の痛みを忘れるなんて、何年ぶりかしら。若い頃に戻ったみたいで嬉しかったわ」
だから本当に大丈夫よ、と文子さんは繰り返した。
そこにじいちゃんも合流し、二人はいくつか言葉を交わす。
「今のお口に合うか分からないけれど、昔よく食べたお豆やお饅頭です。お酒はもう飲まないようでしたら、娘さんか息子さんに差し上げてください。それから、美代ちゃんが好きだったお菓子も入れておいたので、東京に戻ったらお仏壇にあげてもらえますか?」
「こんなにたくさん、ありがとう。かえって気を遣わせて悪かったな」
「いえ、なんもですよ。わざわざ遠いところまできてくれて、本当にありがとうございました」
そして、文子さんは次に俺の右手を取り「晋太朗君、会えて本当に嬉しかった。どうもありがとうねぇ」と、力を込める。
とてもあたたかくて、優しい手だった。
僕は思わず「僕も会えて嬉しかったです。いつかきっと、また遊びに来ます」なんて口走っていた。
いつもの僕なら絶対にそんなことは言わなかったと思う。
でも、文子さんは嬉しそうに「いつでも待ってるわ。来るときは必ず連絡してね」と言ってくれた。
最後は二人きりで話すべきだろうと思い、僕は先に改札の中に入りホームでじいちゃんを待つことにした。
文子さんから受け取った紙袋は、本当に重たかった。重みで紙底が破れないよう、袋は二重になっている。
ズシっと来るその紙袋の中にチラリと目をやると、さっき言っていた豆や饅頭のほかにカステラや大福、かりんとうなんかも入っていた。
重さの正体は地酒と地ビールの瓶だったらしく、全部で三本入っている。日持ちがしそうな個包装のお菓子もある。
どれも、昔から続く老舗の商品ばかりなのだろう。
色んなものが入っていたから、じいちゃんが北海道に来ると知ったときから少しずつ用意してくれていたのかもしれない。この袋には、文子さんの愛情や思いやりが詰まっている。
文子さんは今もまだ、じいちゃんやばあちゃんの好みを忘れずにいてくれたんだと思うと、ジンとくるものがあった。
十数分して、ホームにやってきたじいちゃんは、たった一言「晋太朗、ありがとな」と言った。
何故かその瞬間、僕の視界がゆっくりと滲みはじめた。
北海道に来て、僕は今まで知らなかったじいちゃんの過去をたくさん知った。
これまでの人生で味わったことのないような、やるせない気持ちを知った。
文子さんとばあちゃんの優しさや芯の強さを知った。
はじめての地で新しい世界も知った。
僕にとってこの数日の出来事は、かなり衝撃的な気付きの連続で、今このタイミングで知れてよかったと思うことばかりだった。
お礼を言うのは、僕の方だ。
なのに、じいちゃんに先を越されて、色々と込み上げてきてしまって、涙をこらえながら「僕の方こそ……」と、聞こえるか聞こえないか分からない小さな声で答えるのが精いっぱいだった。
***
その後僕らは、十一時発の電車で札幌へ向かい、昼食に海鮮丼を食べた。
マグロ、サーモン、ホタテ、タコ、エビ。それにイクラとウニまで乗っていた。信じられないほど豪華な海鮮丼は、言うまでもなく美味すぎた!
苫小牧港行きのバスを待つ間、じいちゃんは父さんや伯母さんへのお土産を選んでいた。
僕も自分が気になる食べ物やお菓子をいくつか買った。
北海道旅行のことは誰にも言っていないから、自宅用のお土産だけで十分だろう。そもそも夏休みだからしばらくは友達に会う予定もないし。
そう思い土産店を見て回っていると、二日前に旭川の居酒屋でじいちゃんが飲んでいた日本酒を見つけた。
僕は、初めての日本酒はこれがいい! と、迷わずカゴに入れていた。
あっという間にバスの時間になり、僕たちは札幌を後にする。
人気観光地である札幌を見て回る時間がなかったのは少し残念だったけれど、それはまたいつかの機会に取っておこう。
北の大地、北海道との別れの時間を迎えた僕らは船に揺られていた。
これから再び、約十八時間もの長旅がはじまる。
行きでの失敗を反省して、帰りは酔い止めの薬を準備したから大分余裕があった。
僕は、波に揺れる船上でテーブルを挟みながらほんの数日前のじいちゃんの表情を思い出す。北海道に向かう船で見たじいちゃんは、目的地が近づくにつれて表情が硬くなっていた。
とてもじゃないが、単純に旅行を楽しもうという雰囲気には見えなかった。
どこか悲しそうで、緊張した面持ちのじいちゃんを見るのは初めてだったから、つられて僕も若干不安になったんだった。
五十年以上の年月を経て帰郷した北海道で、じいちゃんは無事に目的を果たせたのか──。それは、じいちゃんの表情を見れば明らかだった。
三日前とはまるで別人のように晴れやかな笑顔からは、清々しさを感じる。
じいちゃんが抱え続けていた罪悪感のすべてが、この旅で完全に浄化されたわけではないだろう。
しかし、その大部分は既にばあちゃんと文子さんに許されている。二人とも、じいちゃんを責める気持ちなんて無かったはずだ。
そしてそれは、きっとじいちゃんにもちゃんと伝わっている。
僕は、じいちゃんが自分を許せる日が来るのもそう遠くないんじゃないかな、と感じ、少し安心したのと同時に口元が緩んだ。
それを見逃さなかったじいちゃんは「……何笑ってるんだ」と、不思議そうな顔をこちらに向ける。
そりゃそうだ。
きっかけもないのに、突然笑顔になられたら誰だって不思議に思うだろう。
僕は、誤魔化すためにも「ううん、何でもない。それよりこれ見てよ」と、スマホを差し出し、公園で撮影した写真を見せた。
僕が写真を撮りながら歩いたルートを、じいちゃんは通っていない。
あとで見せてあげよう、と多めに撮ってきた写真をまとめたフォルダを開いたままスマホを渡して、スライドの仕方を教えた。
言われる通りにスマホに触れているうちに、それがあの公園の写真だと分かるとじいちゃんは「おぉ」と嬉しそうな声をあげ、「これはどの辺だったかな」とか「あぁ、この神社懐かしいな」と思い出を振り返る。
時々、「本当によく撮れてる。晋太朗、上手いなぁ」なんて褒めてくれるから、僕は照れくさくなる。
「スマホのおかげだよ、そのくらいの写真なら誰でも撮れるようになってるんだ」と言っても、「いや! うまい!」「きれいに撮れてる!」なんて言ってくれる。
じいちゃんは一枚一枚、噛みしめるようにじっくりと見ていた。スライドする度に嬉しそうな声で感想が聞こえてくるから、僕も自然と笑顔になる。
ところが、突然じいちゃんは口を閉じ、手の動きは完全に止まった。
画面が変わってしまったのかと思ったけれど、視線は変わらずスマホに釘付けになっている。
不思議に思いながら向かい側から画面をのぞき込むと、そこに映るのはベンチに座るじいちゃんと文子さんの写真だった。
許可も取らずに勝手に撮影している手前、気を悪くさせたのではないかという罪悪感が僕の心に沸く。俯きながらも咄嗟に「素敵だったからつい……」と言い訳じみた言葉を発したとき、じいちゃんがスマホをテーブルに置き、手のひらを顔に持っていく動きが視界の片隅に飛び込んできた。
えっ? と思いながら顔を上げると、じいちゃんは目頭を押さえていた。
「全く気付かんかった。いつの間にこんな写真撮ってたんだ?」
「…………勝手にごめん」
「ありがとう……」
「え?」
「文子との写真は、一枚も持っていないんだ。昔、結婚写真は撮ったことがあるが、東京に持っていくわけにもいかなくてな……。すべて処分した。だから、まさか今になってこんな写真が見れるなんて思ってもいなかった。記録として残してくれて、ありがとな……」
そう言ったじいちゃんは時折鼻をすすりながら、目元を覆っていた。
僕は、一枚の写真が人の心を揺さぶる瞬間を目の当たりにした。
このとき僕は、今まで感じたことのない感情の昂りを自覚していた。今まで、何に関しても熱中できなかった僕を身震いさせるほどのはじめての昂り。
これこそが、間違いなく今後の僕の人生に大きな影響を与える瞬間だった。
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