第14話 刹那の閑談

「おぉ、晋太朗。戻ったか」

 座って休みなさい、というように、じいちゃんと文子さんは少し横にずれて、僕が座れる分のスペースを空けてくれた。


「うん、ただいま」

「おかえりなさい。少しは楽しめたかしら?」

「はい! 色々と新鮮なことばかりですごく楽しかったです! お待たせしちゃってすみません」

 気付けば、二人と別れてから三〇分ほど経っていた。

「全然良いのよ。私たちのワガママに付き合ってもらっちゃって悪いと思っていたから、晋太朗君にも楽しんでもらえたみたいで嬉しいわ」


 北海道の夏がいくら東京よりも涼しいとはいえ、真夏の晴天の中を三〇分以上歩き続けていては、当然汗も流れる。

 リュックを降ろすと、ぴったりとくっついていたTシャツの背面がしっとりと湿っていた。

 僕は、じいちゃんの隣に置いたリュックの中からペットボトルを取り出し、立ったまま一気に流し込む。当然ぬるくはなっていたけれど、喉の渇きを潤すには十分だ。

 比較的無事なTシャツの肩の部分で、頬や首元の汗を拭きながらリュックをどけてベンチに座る。大きな木の影に覆われていたベンチは芯からひんやり冷えていて、今の僕には最高だった。

 肌に触れるプラスチック部分が、僕の体に籠った熱をどんどん吸収してくれる感じがした。時々吹く風はまだ生ぬるいけれど、心地よい。

「……いいところだね」

 僕の口からは自然とそんな言葉がこぼれた。


 僕の呟きを聞いたじいちゃんは口角を少し上げて、あぁ、と小さく答える。

 それから「だがな、冬は雪がすごくて本当に大変なんぞ」とか「野生動物が多いから、農家もなかなか難しくて」とか「広すぎるから移動にかかる時間が半端じゃないんだ」とか、北海道の苦難について色々と教えてくれたけれど、やっぱり総じて嬉しそうだった。

 じいちゃんもばあちゃんも、北海道の生まれだということを完全に忘れさせるくらい、故郷については何も話さない人たちだった。実際に僕は、小学生の頃、家族のルーツを調べるという宿題が出されるまでは、先祖代々東京生まれ東京育ちだと思っていたくらいだ。

 だから、こんなにも故郷のことを話すじいちゃんは、ものすごく新鮮だった。


 文子さんも北海道のことを色々と教えてくれたけれど、僕への質問の方が若干多かったように思う。

「学校ではどんなことを勉強してるの?」とか「どんな街に住んでいるの?」とか、僕が答えやすそうな質問をいくつかしてくれた。

 大学三年生なら聞かれて当然であろう進路に関する質問にだけはちゃんと答えられなかったけれど、文子さんは「そんなに深刻にならなくても大丈夫よ。晋太朗君くらいの年代の子はみんな可能性で溢れているもの」と、微笑んでいた。

 気を遣っている雰囲気は感じられない。本当に、そう思っているから言ってくれた。そんな感じだった。


 東京の自宅でこの旅行の話を聞いた日、僕はベッドに寝ころびながら大学生向けの求人サイトを見ていた。とてもすべてはチェックできないほど大量の求人が掲載されていたのに、これといって興味をそそられるものはなかった。

 自分が何をしたいのか、何になりたいのか、そんな希望は何もないのに、やりたくないこと、嫌なことはどんどん出てきて、求人探しは一向に進まない。こんな現実逃避がいつまでもまかり通るなんて思ってはいなかったけれど、本腰を入れるやる気も起きず、気が重いままだった。

 モラトリアムの終わりが迫ってくる不安は去年位から感じ始めていて、この旅行中も頭の片隅にはずっとあった。そのせいか、文子さんの言葉に僕は救われる感じがした。


 しかし、公園のベンチでの楽しいおしゃべりはいつまでも続かない。

 お開きの合図を出したのは、じいちゃんだった。

「……よし、そろそろ帰ろうか」

「えっ! でも」

「晋太朗、いいんだ」

 じいちゃんの有無を言わせない一言は、僕が「明日は、」と話し出すのを止めるようだった。

 その意図が分かったからそれ以上は何も言えなくなってしまったけれど、じいちゃんと僕は明日旭川を発つ。

 帰りも船を使うルートだから、明日の午前中には旭川を出発しないと、十八時四十五分発の苫小牧から大洗へ向かう船に間に合わないのだ。

 東京と北海道は、そんなに頻繁に行き来するような距離じゃない。また来るにしたって、きっとかなり期間は空くだろう。

 ならば、せめてもう少し。

 時間が許す限り同じ時間を過ごしてほしい。

 もっとたくさんの思い出話に花を咲かせてほしい。

 そう思うのは、僕の考えがまだまだ子どもだからなのだろうか。


 じいちゃん本人が帰ろうというなら、僕にそれを止める権利はない。唯一意見できるとすれば、文子さんしかいないだろう。

 しかし、彼女もまた全てを受け入れたように「そうですね。そろそろ帰りましょうか」と言った。

 それはとても優しい声で、穏やかな表情で。無理をしているようには見えなかった。

 僕はもどかしさを押し殺して、二人の意見を尊重する。


 互いを想い合ったまま別れたじいちゃんと文子さんの五十数年ぶりの再会は、わずか六時間弱で幕が下りた。

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