第12話 思い出の地

 それもそのはずというべきか。

 至極当たり前というべきか。


 案の定、たどり着いた場所と、かつて二人が暮らした思い出の地はまったくの別物だった。

 僕は当時の風景を見たことがないけれど、何の面影も残っていないことは明らかだ。二人が住んでいた家があったという場所は今、ドラッグストアの駐車場になっていた。

 周りには当時、ある程度の数の住宅があったというが、軒並みきれいさっぱりなくなっていて、その頃を思い起こさせるような建築物は残念ながら見当たらない。

 昭和、平成、令和と半世紀以上かけて、劇的に変わり続けていたのだから仕方のないことだ。時代の流れにともなう大きな変化は、この地に限った話ではない。


 僕は、まるで知らない土地になってしまった郷里を見た二人がショックを受けなければよいのだが……、と心配したのだけれど、そんなのはまったくの杞憂だった。

 ここまでの道中を先導した僕は、目的地に着くとほぼ同時に数メートル離れ、後ろから二人の様子を見守ることにした。

 僕にとってそこは、きれいに整地されたただの駐車場以外の何物でもなかったのに、じいちゃんと文子さんには、まるで当時の景色が見えているかのように感じた。

 過去を懐かしむ二人の姿が、確かにそこにはあった。


「あぁ。あぁ、そうだ。ここに、俺たちの家があったんだよなあ。……不思議だなぁ、もう何十年も経ってるっていうのに、ここに立つとあの時の記憶が鮮明に思い浮かぶ」

「向こうには佐藤さんのお宅が、そっちの方には菅さんのお宅がありましたよねぇ」

「あぁ、そうだった! そうだった! いや、懐かしいなぁ」

「楽しかったですねぇ」

「そうだなぁ。小さな家でおんぼろだったが、楽しかった。夏は暑いし、冬なんか隙間風が通って寒くってなぁ! 雪の重みで潰れないかヒヤヒヤするような家だった」

「寿さんが雪下ろしをはじめると、ご近所の方がお手伝いに来てくれましたねぇ」

「あぁ、気のいいおじさん達ばかりだったからなぁ」


 ほんの数日前の話をするように、じいちゃんと文子さんは当時を振り返る。

 早くに結婚した若夫婦のことを、きっとご近所さんはみな気にかけていたのだろう。二人の思い出話を聞いていると、周りの人によくされていたことが伝わってくる。

 でも、その優しさがあったのなら……。

 二人に子どもができないことをどうして放っておいてあげられなかったのか、と今更ぶつける相手もいない無念さも感じてしまう。

 だが、こればかりは本当にもうどうすることもできない。


 ここに来る途中、アプリのルート案内に従い先導する僕に文子さんは「はじめての土地なのにすごいわねぇ」と、苫小牧でのじいちゃんと似た反応を示してくれた。

 二人のその反応があまりにもそっくりで、こんなことでも役に立てるのか、と僕は嬉しくなってしまう。


 歩きながら文子さんに視線を合わせようとすると、喫茶店で話していたときよりもずっと小さく感じた。

 一七〇センチちょっとの僕とは、多分頭一個分ほどの身長差がある。膝が悪い文子さんは杖を突きながら歩くから、どうしても少し前傾姿勢になってしまう。だから、余計に小さく感じるのだろう。文子さんの頭は僕の胸あたりの高さにあるため、自然と目を合わせるときは覗き込むような形になった。

 親族以外で八〇代の人と話す機会はほぼなかったから最初こそ緊張したけれど、不思議とすぐに自然体で話せるようになっていた。きっと、文子さんのまとう空気感や雰囲気が、ばあちゃんのそれに似ていたからだと思う。


「寿さん、覚えていますか? 向こう側の、もう少し先の方に公園がありますよ」

「あぁ、時々散歩した公園だろう? 何となくだが覚えている。今もまだあるのかい?」

「えぇ。とても綺麗になって、ずっとそこにありますよ。昔よりも広くなったみたいです」


 ドラッグストアの駐車場から大きな通りのさらに向こう側を指さし話す二人の姿は、僕の目にはなんだかとても若々しく映っていた。きっと当時の気持ちが蘇ってくるのだろう。

 そんなことを思いながら二人の様子を眺めていた僕に、文子さんが「晋太朗君、また案内をお願いしてもいいかしら?」と声をかける。

 頼られたことが嬉しくて、僕は「もちろんです!」と答える。普段よりも少し大きな声が出ていた気がする。


「ありがとうね。私の膝、もう何年も前からこんな状態だから、一人で出歩く機会がほとんどなくてね……。情けないことに、地元だけど案内できる自信がないのよ。出掛けるときは大抵、ヘルパーさんの車で病院か買い物か……、決まったところにしか行かないから……」

 申し訳なさそうに語る文子さんの話を聞いて僕は、なるほど、と思った。だから、喫茶店からここまでの案内も僕に任せられたのだ。

 文子さんは今でこそ旭川に住んでいるけれど、じいちゃんと離婚してからしばらくの間は札幌で暮らしていた。いつ旭川に戻ってきたのかは聞いていないが、きっと数年ぶりに里帰りした故郷の様子はいろいろと様変わりしていただろう。散策する手段もないままでは、地元とはいえ案内できなくなるのも分かる。


 僕はズボンの右ポケットからスマホを取り出し、現在地のマップを開く。

 駐車場からは建物が邪魔をして見えなかったけれど、マップで見ると“常磐ときわ公園”と表示される大きな公園が本当にすぐ近くにあった。

 公園というには随分広く見える敷地内には、美術館のマークもある。

 水色で記された池に浮かぶように位置する緑色のエリアには、なんと神社の頓宮があると表示されていた。

 目的地への期待に僕の胸も弾む。単純なルートだったこともあり、これならナビを使わなくてもたどり着ける、とすぐに歩きはじめた。


 駐車場まで来たときと同じように、僕が三歩ほど先を先導し、その後ろは文子さんと彼女の歩幅にあわせ並んで歩くじいちゃん、という並びだ。僕はときどき後ろを振り返りながら、慣れないペースに合わせるよう意識した。

 一緒に並んで歩くことに抵抗があったわけではない。なんとなく、二人の空間があった方が良いのではないかという、合っているのかよくわからない僕なりの気遣いだった。


 十五分ほどゆっくり歩くと、目的の公園に到着した。歩きやすいように舗装された通路の両脇には芝生と木々が生い茂っている。見るからに空気がきれいで、爽やかな感じがする。木々の中心に立ち、思い切り深呼吸をしたい気分だ。

 緑の中を進めば、ギリギリ三〇度には届いていない気温がさらに下がる予感さえした。

 文子さんの足で全てを歩き回るのは難しいだろうと思い、入口に着いたところで役割を果たした僕は後ろの二人に先頭を譲った。


 じいちゃんは一気に懐かしさが込み上げてきたのか、こんなに広かったか? とか、随分きれいになったなぁ、とか少しオーバーなくらいの反応を示しながら歩いている。

 そんなじいちゃんの隣を歩く文子さんは終始笑顔で、時々相槌を打ちながら一緒に懐かしんでいる様子だった。


 二人の後ろを歩きながら僕は、公園よりも広場という言葉の方が合う場所だな、と感じた。

 遊具らしい遊具はなく、ジョギングや犬の散歩をしている人が多い。もちろん公園という場に一番ふさわしい小さな子どもたちの姿も見かけた。

 遊具はなくても、芝生や小山で走り回ったり、母親としっかり手を繋ぎながら池を覗き込んだりと、とても楽しそうだ。

 途中、『常磐公園』と刻まれた石碑を見つけ立ち止まる僕に気付いたじいちゃんは「晋太朗? どうした?」と声をかけた。

「あ、いや。常磐ときわって漢字、ばんじゃなくていわなんだと思って」

 さっき、スマホのマップで見たときには気付かなかったけれど、僕は東京駅の前にある常盤橋タワーと同じ“常盤”という漢字が使われていると思い込んでいたから、ほんの少しだけ違和感を覚えたのだ。

 大したことない疑問で立ち止まらせてしまった、とすぐに歩みを再開させようとしたところで、文子さんが「昔はね、“常盤”って漢字を使っていた時期もあったのよ」と教えてくれた。


「私が生まれた頃はここも常盤で、一時期は二つの漢字が混合していた時代もあったのだけれど、大人になる頃にはこの石碑にあるように常磐って字に定着したのよ。漢字が変わった理由にはいくつかの説があるのだけれど、私は『皿よりもずっと割れにくい石を使うことで、何十年先の未来までこの場所があり続けてほしいという願いを込めた』って説が好きなの。ふふ、なんだか素敵じゃない?」

 漢字を変更した明確な理由は明らかになっていないそうだが、文子さんが教えてくれた話が真実だったらいいな、と思った。

 実際、この公園は八〇歳を超える二人が生まれる前からあったという。そして、今もこうしてここにあり続けている。きっとこの先もずっとこの地に存在し続けるのだろう。

 その土地ならではの話が聞けて、僕はここにきて良かった、と思った


 敷地内をもう少し歩くと池にたどり着いた。そばにはベンチがいくつか設置されていて、休んでいる人もいる。

 かなりゆっくりではあるけれどしばらく歩き続けていたし、太陽の日差しも強くなってきている。休憩にはちょうどよいと思い、「日陰になる場所で座ってて」とじいちゃんに伝え二人と別れた。


 僕は途中で見かけた自販機まで戻り、三人分のお茶を買ってからベンチに向かった。ペットボトルに触れる部分がひんやりとして気持ちいい。今すぐにでも一気飲みしたい気持ちを抑え、二人が座るベンチを探す。


 二人はすぐに見つかった。

 大きな木の下にあるベンチに、並んで座っている。

 じいちゃんと文子さんは水面が太陽の光でキラキラと輝く池を眺めながら、表情を緩めて何やら話している。

 文子さんの言葉を借りるなら、なんだか素敵だな、と思った。


 二人はまだ、僕が戻ったことに気付いていない。

 僕はペットボトルをリュックに放り込み、スマホを取り出す。そして、カメラを起動させ二人の横顔を数枚撮影した。

 最近のスマホの撮影技術はとても優れているから、写真を撮ることに慣れていない僕でも、備え付けの機能を活用すればそれなりの写真が撮れてしまう。


 どうして写真を撮ろうと思ったのかは分からない。でも、なぜか今この瞬間を記憶だけじゃなく、記録としても残したいと思った。強く思った。

 それは衝動的なものだったと思う。だって、気付いたときには、僕はもうスマホの画面越しに二人を見つめていたのだから。

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