第10話 祖母の想い②

 ***


 寿さんへ


 毎日きちんと食事を摂っていますか?

 夜はちゃんと眠れていますか?

 たまに飲みすぎたりしていませんか?


 この手紙を見つけてくださったということは、きちんと衣替えもしているんですね。

 寿さんは私がいなくても、炊事もお洗濯も衣替えも、何だってきちんとできる人ですから安心していますが、できることならもう少し私がその役目をやりたかったです。


 今は、二〇一八年の十一月です。

 体調が芳しくないので、来月から入院することが決まりました。

 この家で過ごせる時間も残りわずかです。

 きっと私は、来年の夏を迎えられないでしょう。

 癌が見つかる前から私は、自分の体に何かあっても延命治療はしないと決めていました。

 これ以上望んでは罰が当たるほど、幸せな人生でしたから。

 でも、実際に死期を悟るとやり残したことはないかと考えてしまうものなのですね。


 私は家族が何よりの宝物です。

 この歳まで寿さんと一緒に居られて、明美も誠も健康に育ってくれて、二人とも自分の家庭を築いてくれて、私は本当に幸せです。

 ほかに望むものなど何もありません。

 でも、ずっと消えない心残りがあります。

 文ちゃんのことです。

 私よりも寿さんの方がよっぽど大きな後悔を感じていることは重々承知していますが、最期だと思ってどうか私の手紙に付き合ってください。


 明美と誠が生まれてしばらく経ってからも、寿さんが文ちゃんを気にかけていることに私は気付いていました。

 東京に来て、徐々に表情が柔らかくなっていく寿さんを見て少しホッとしましたが、子どもたちを愛おしそうに見つめていたと思ったら一瞬すごく悲しそうな表情を浮かべることがよくありました。

 そんなときは、その後決まって申し訳なさそうな顔をするんです。

 寿さんのことだから、文ちゃんの暮らしが気がかりだったのでしょう。

 これは私の推測なのですが、そういう想いを秘めたまま家族と触れ合うことに罪悪感を感じたこともあったのではないでしょうか。


 私は寿さんのその優しさが大好きです。

 そして、文ちゃんのことも大好きです。

 彼女は穏やかで思いやりのあるとても素敵な女性です。

 子どもの頃は姉のように慕っていました。

 文ちゃんのような人になりたい、と思うくらい理想の女性です。

 そんな大好きな二人を天秤にかけたとき、当時の私は寿さんを選んだのです。

 きっと文ちゃんなら、一方を傷つけないようにどちらも選ばず身を引いたんじゃないか、とずっと思っていました。

 私は自分の欲を優先したのです。

 あのときから私は、自分の行いの是非を問い続けていました。

 私は欲深く利己的な人間なので、きっとまた同じ場面に立たされたらそれが善行じゃないと分かっていても今の道を選ぶと思います。

 寿さんと一緒になることを望んだ私の選択に後悔はありませんが、罪悪感はあるのです。


 自分の命が残り少ないと分かって最初に思い浮かんだことは、文ちゃんに謝りたいという思いでした。

 今更謝って許されることではありませんし、それは私の自己満足でしかなく、文ちゃんには迷惑以外の何物でもないかもしれません。

 それでも、彼女に謝りたいという気持ちが揺らぐことはなく、日に日に想いは増すばかりでした。

 明美にインターネットの使い方を教えてもらい、文ちゃんの名前を検索してみたところ、札幌にある子ども食堂の代表として彼女の名前が載っているのを見つけたのです。

 その記事は数年前のものだったのですが、私はすぐにその施設に手紙を出しました。

 残念ながら文ちゃんは既に引退していたのですが、跡を継いだ代表の方が間に入ってくださり、電話で話せる機会を設けてもらえ、私は約五十年ぶりに文ちゃんの声を聴きました。

 その瞬間、涙が溢れてうまく話せなかったのですが、文ちゃんは「うんうん」と相槌を打ちながら私の話を最後まで聞いてくれて、そして「美代ちゃんが謝る必要なんてないのよ」と、それはそれは優しい声で全てを受け止めてくれました。


 文ちゃんの優しさに甘える形で、私はやり残したことを果たせました。

 でも、最後にもう一つだけ、どうしても。

 叶うならば、寿さんと文ちゃんに再会して欲しい、と心から思うのです。

 文ちゃんと話して、その想いはさらに大きくなりました。

 文ちゃんにも再会して欲しいと伝えたら、「もしも寿さんが望んでくれるのなら」というお返事を頂きました。

 ただ、文ちゃんは足を悪くしたそうで、一人で東京に行ける自信がないと言っていました。

 それから、私の看病を最優先にして欲しい、とも。

 きっと、私の余命を気にかけてくれたのでしょう。


 どこまでも優しい文ちゃんの気遣いを受けた私は、遺言としてこのやり取りを手紙に記すと約束したのです。

 文ちゃんは「その手紙は反故になって、元気になった美代ちゃんと寿さんが一緒に北海道へ来てくれることを願ってるわ」と言ってくれました。

 そうして私たちは、「近いうちに会いましょう」なんて約束を交わしましたが、その約束が叶わないであろうことはきっと互いに気付いていたと思います。


 相談もせず勝手なことをして本当にごめんなさい。

 二人の別れに関わった私が言える立場じゃないことはわかっています。

 それでも、寿さんと文ちゃんはもう一度会うべきだと思います。

 きっと文ちゃんは今も、いつ来るか分からない寿さんからの連絡を待っているはずです。

 連絡先と住所を同封しておきます。


 人はいつの日か、必ずその人生を締めくくらなくてはならない日が来ます。

 私はどうかわかりませんが、寿さんも文ちゃんもとても善い人なので絶対に天国にいくでしょう。

 もし私も天国に行けたら、向こうで二人が来るのをずっと待っています。

 子どもの頃のように三人で過ごせたら、なんて夢を見てしまいますが、それは望みすぎで神様に怒られてしまうかもしれませんね。

 寿さん、体の自由が利くうちに文ちゃんに会いに行くべきです。

 文ちゃんは今も変わらず、寿さんを大切に想っていますよ。


 私は寿さんに結婚してもらえて幸せでした。

 明美と智之さんと望美ちゃん、誠と恵美さんと晋ちゃん。

 素敵な家族に囲まれて、本当に本当に幸せでした。

 私は先に行きますから、なるべくゆっくり、のんびり年を取って、私の知らない思い出話を語り尽くせない位抱えてきてくださいね。

 もしまた会えたら、たくさんたくさん聞かせてください。

 こんな私と長い間一緒にいてくださって、本当にありがとうございました。


 二〇一八年十一月十八日 奈良岡美代子


 ***


 僕は泣いていた。

 便箋を汚さないよう涙を拭っても、次から次へと溢れてくる。


「最後くらい、わがままの一つや二つ言って欲しかった。美代子は、俺の中に文子の影があることを知っていながら、何年も何年も、文句の一つも言わずに本当によく尽くしてくれた。俺には勿体ないひとだ。……若いときも美代子の豪快な一面に驚かされたことはあったが、最後の最後にこんなすごいことをやってのけるなんてな、本当に頭が上がらん」

 そう言ったじいちゃんの声が少し震えていたように思う。僕の視界は霞んでいるから表情までは見えなかったけれど、きっと微笑んでいるのだろう。声色はとても優しかった。

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