三章:祖父の初恋を巡る

第9話 祖母の想い①

「ありがとうございました! 北海道旅行、存分に楽しんでっ!」


 二十時を少し回った頃、僕たちはねじり鉢巻がよく似合う快活な店員の大きな声に送り出されて店を出た。店内の活気とアルコールで熱くなった体に、ひんやりとした夜風が当たって心地よい。

 ここへ来る道中で目にしていた信号近くの気温計に再び目をやると、十九度と表示されていた。三時間ほどで十度近く気温が下がっている。

 なるほど、どうりで涼しいわけだ。


 真夏日や熱帯夜に慣れている僕からすると、この気温はもはや秋に近い。

 八月には体験したことのない涼しさを感じ、北海道に来ていることを改めて実感する。本当はもう少し話したいことがあったのだけれど、仕事を終えたサラリーマンたちの第二波が店にやってきたため、僕たちは席を譲ることにした。


 約一キロメートルほどにも及ぶ歩行者専用道路は、日中に比べるとやや人の姿が増えたように思う。僕たちのように一軒目を後にしたのか、すでにいい気分になっているグループもちらほら見受けられる。

 平和通買物公園と呼ばれる歩行者専用道路から一本横にそれるとそこは、居酒屋やスナックなどが集まる歓楽街らしき通りだった。

 ホテルの入り口に置いてあったパンフレットに載っていたから、帰りに通ってみようとじいちゃんと話していたのだ。

 煌びやかなネオンや夜の人たちの姿が目立ったが、やはり東京に比べるととても落ち着きがある。歓楽街というには少し地味で、そこまで盛り上がりを感じられなかったけれど、僕はこの平和で穏やかな空気に「なんか、良いな」と感じた。


 僕とじいちゃんは、観光がてら夜の旭川を通り抜けホテルに戻った。


 じいちゃんの旅の目的は聞いた。

 これまで知らなかった過去も聞いた。

 いよいよ明日は、この町にいるであろう文子さんの元を訪ねることになるはずだ。でも、一体どこへ……?


 じいちゃんは文子さんの居場所をどうやって調べたのだろう。文子さんとは、二度目の決別の日以来一度も会っていないと言っていた。

 じいちゃんの話だと、文子さんは離婚後一人で札幌へ行ったはずだが、今は地元に戻って暮らしているということなのだろうか?

 そもそも、文子さんはじいちゃんが訪ねてくることを知っているってことでいいんだよな? まさか、今から手掛かりゼロの状態で文子さんの居場所を探すなんてことは言わないはずだ。それに、探すにしては時間が足りなすぎる。

 となると、すでにじいちゃんと文子さんは連絡を取っていて、待ち合わせの約束は済んでいるのだろう。


 僕は推測に確証を持たせるため、端的に尋ねた。

「明日はどうするの?」

「あぁ、明日は近くのホテルの喫茶店で文子と会うことになってる」

 やっぱり、すでに約束は取り付けているらしい。

「待ち合わせは10時だから、15分前くらいには着いていたいんだが、晋太朗、また案内頼めるか?」

「もちろん。あとでホテルの名前教えて」

「あぁ、わかった」

 そう言ってじいちゃんはさっそく鞄の中をごそごそと探し始めた。きっと、ホテルの名前のメモかパンフレットを探しているのだろう。


 予想通り二人が連絡を取り合っていたことを知り、僕の口からつい疑問がこぼれた。

「文子さんの住所、調べるの大変だったんじゃない? もしかして、連絡先は前から知ってたの?」

 僕は純粋に、不思議に感じたことを質問しただけのつもりだった。

 しかし、じいちゃんの返答は思いもよらない内容だった。


「……文子の居場所な、調べてくれたのは美代子なんだ」

「……え? いや、だって、ばあちゃんは……」

 どうしてばあちゃんが文子さんのことを調べていたのか、僕には理解できなかった。


 ばあちゃんは去年の六月にがんで亡くなっている。

 がんを患ったことは二年ほど前に知ったそうだけれど、ばあちゃんは必要最低限の治療しか望まなかった。

 幸運なことに、比較的ゆっくりな進行ではあったものの症状がよくなることはなく、確実に体力は減っていったし、亡くなる半年前くらいからはずっと病院で過ごしていた。

 そんなばあちゃんが、いつ文子さんのことを調べていたというのか。


「美代子はな、病気になって自分がもう長くないことを悟った。それで、残された時間で文子のことを調べたみたいなんだ。……美代子の一周忌を迎えて、ようやく日常が戻ってきた感じがしてな。先月、去年は手を付けられなかった衣替えをしたときに、俺の夏物の衣装ケースの中からこれが出てきた」

 そう言ってじいちゃんが鞄から出したのは、待ち合わせのホテル名のメモなんかではなく、見慣れた綺麗な字で『寿さんへ』と書かれた一通の手紙だった。


「去年の夏は美代子が亡くなったことをまだ受け入れきれずにいたからな、衣替えなんてできなかった。そのせいで、見つけるのに一年もかかってしまったんだが……」

 おそらく何度も読み返したであろうその手紙は少し厚みがあるように見える。じいちゃんは封筒にシワが付かないよう両手を添えて大切に持っていた。

「ばあちゃんからの……手紙」

「ん」

「え?」

 じいちゃんの手に大事そうに包まれていた手紙が、突然僕の目の前に差し出されたものだから、驚いてしまった。

「えっと、僕が読んでもいいの?」

「あぁ」

 僕は少し迷ったけれど、手紙に伸びる手を止めることはできなかった。


 ばあちゃんはいつ、どんな気持ちで、文子さんの居場所を調べようと思ったのだろう。

 それをじいちゃんに伝えようと決めたときはどんな思いだったのだろう。

 もちろん、すでにばあちゃんは亡くなっているのだから全てを正確に知ることは叶わないのは分かっている。でも、この手紙を読むことで、僕の知らないばあちゃんに近付けるような気がした。


 僕は、チラリとじいちゃんに目を向けた。無言で頷く様子を確認し、ゆっくり封筒に手をかける。

 中には綺麗に三つ折りにされた便箋が三枚入っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る